第19話 思わぬ味方

「許せなかったのは、塾で騒ぐことだよ。こっちは人生かかってるっていうのに」


 男子生徒は、一層眉尻をつり上げる。灯は、改めて彼の顔を見た。敵を目の前にした時の形相になっている。


「それはどこの塾?」

「山手塾。駅前にビルがあるでしょ。医学部や難関校の理系向けのレベル高い塾なんですよ」


 彼は医学部志望ではなく、国立大学を志望している。親を説得して高い塾費を払ってもらっているのだそうだ。学校以外でも一日六時間勉強するというから、頭が下がる。……その勉強の邪魔をしているのが、岩田だった。


「入塾試験もあるから、絶対ここなら大丈夫だと思ったのに……彼氏と一緒に自習室に入ってくるんですよ、あいつ」


 男子学生は鬱っぽい声で言った。


 塾の教室や自習室には、カードキーをかざさないと入れないようになっている。しかし岩田は塾生とくっついていて、腕を組んで一緒に入ってくるのだ。塾側も、それを完全に制限できるほど強固なセキュリティにはしていない。


 ……つまり、船戸とその学生で、二股をかけていたわけだ。なんでそんなに自らトラブルを背負い込むのか、灯には理解できない。


「でも、岩田さんは塾生じゃないんだよね。先生に言えば?」

「無駄ですよ。あいつの彼氏んち金持ちだから、塾にとっちゃいい客です。どうせ、叱られるのはこっち」

「そんなにうるさいの?」

「ささやき声ってところかな。でも、あれを静かな部屋でやられると、ものすごく苦痛なんですよ」

「分かる」


 灯は仕事を忘れて、学生に手を差し出した。これは同士に対しての友好の気持ちである。


「えっ」

「聞こえるか聞こえないかくらいの、あの蚊の音みたいなやつだろう?」

「そうです!」


 男子生徒が、灯の出した手をがっちり握り返してくる。気持ちは通じたようだ。灯は嬉しくて、頬が緩むのを感じる。


「気が散るんだよな、あれ」

「……耳栓でもしたらどうだ」


 全く理解できない異生物を見る目で常暁がつぶやくが、それではダメなのだ。集中するのには、耳に異物がない方がいい。ものが詰まった感覚は、予想以上に足を引っ張るのである。


「効率が落ちるんですよ。気持ち悪くて」

「そうですよ。それに、なんでこっちが我慢しなきゃいけないんですか。ねえ」

「わかってもらえて嬉しいです」


 盛大に盛り上がり、二人とも立ち上がる。男子学生との友好度は最大に達した。灯は口角をあげる。常暁が虚ろな目をしているが、聞くべきことを掘り出そうと決めた。


「じゃあ、岩田さんと一緒に来ていた人の名前を教えて。相手にも君にも、迷惑かからないようにするから」

「いいですよ。あんな奴、迷惑かかったって。さんざん大きな口たたいたあげく、国試に落ちて現実を思い知ればいいんだ」


 男子生徒は実にあっさりと、先輩を売り渡した。人間、いらぬ恨みは買いたくないものである。


「……楡木智則にれき とものりさんね」

「せっかくだから、似顔絵も描きましょうか」

「いや、そこまでは……」

「絶対捕まえてくださいね!」

「わかった。君が安心して勉強できるように頑張るよ」


 男子生徒は、鼻息荒いまま帰っていった。あとの生徒からは大して情報は得られず、そのまま終了となる。


「楡木か。本部に伝えておこう」

「よろしくお願いします」

「……俗世には色々な人間がいるな」

「あなたも大概ですけどね」


 灯はそう言って、大きな伸びをした。





「こんにちは」

「あ、三代川さん」


 思わぬ遭遇であった。灯は目を丸くする。


「一昨日はありがとう。情報が得られて、みんな喜んでたわ」


 灯が後輩と共に電車待ちをしていると、スーツ姿の三代川が現れた。彼女もこれから家に帰るのか、気楽な雰囲気である。しかし灯は、心持ち三代川から距離をとる。


「なに?」

「すいません、ちょっと鼻風邪で……うつすと悪いかなって」

「あら、お大事に。何かあればまた連絡するわ」

「はあ……」


 灯は気の抜けた返事をした。三代川が嫌なわけではなく……横にいる男の興奮が伝わってきたからである。三代川の魔力、恐るべし。すでに、十分なほど彼の関心を引いていることは間違いない。飛びかかったりしたら、即座に押さえつけなければ。


「せ、先輩。いつの間にあんな美人とお知り合いに!?」


 案の定、三代川が消えると同時に後輩が聞いてきた。鼻息荒く、雄としての本能を丸出しにしている。


「……ちょっとな」

「なんですか。合コンですか。なんで俺も呼んでくれなかったんですか」


 もう説明するのも面倒くさいので、灯は呆けた顔のまま合コン説を採用した。すると、嫉妬の視線が矢のように降ってくる。


「次は絶対呼んでくださいよ」

「真面目に仕事してたらな」


 絶対に手の届かない存在だ、と言うことはたやすい。しかし灯はこの好機を最大限に利用してやることにした。


「いやー、それにしても先輩がねえ……」


 後輩は帰社するまでずっと、同じような台詞をつぶやいていた。その雑音は困るが、今日は妙に素直だったので助かる。部長も彼の優等生ぶりに、目を丸くしていた。


 考えてみれば、彼は灯をからかう時も女性をネタにしていた。そんなに異性を気にしているなら、それをダシにしてみればもう少し動いてくれたのかもしれない。


 それに気づけたおかげで残業も少なかった。また黒江から呼び出しが入っていたので、灯は軽い足取りでバス停へ移動する。





「今までに地取り、鑑取りで判明した容疑者──楡木智則の情報を共有しておこう。第一の被害者である岩田さんとは、特に関わりが強いようだ」


 正則管理官が口火を切り、ホワイトボードを見る。室内の刑事たちの目も、今日はしっかりと開いていた。


「では、捜査の貴公子である僕からお伝えしましょう」

「誰がそんな名前で呼んだ」


 眉根を寄せる常暁のツッコミを、金崎は無視した。さすがにみんなの前の発表だと、肝がすわるらしい。


「楡木は山手塾に通う、医学生です。岩田さんのSNSアカウントのひとつに書き込みの記録が残っており、ネットを通じて知り合ったものと思われます」

「医学生?」

「大学に受かってるのに、なんで塾に通うんだ」


 室内から声が上がる。金崎は「やれやれ」とつぶやきながら、わざとらしく肩をすくめた。


「医学部は、卒業しただけじゃ話にならないんですよ」

「国家試験ね」


 三代川が納得した様子で言う。すると金崎が、大きく手をうった。その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。

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