第16話 女尊男卑
「死斑が何かは分かるか?」
「……推理ドラマ程度の知識なら」
人は死ぬと、身体の下部に血液がたまる。それがまだら状の変色として見えるので死斑と呼ぶ。死斑は死後一~二時間で出現し、半日たつと固定される。それまでは時間によって動いていくため、死後の経過時間を計るのに役立つのだ。
「そうだ。死斑は、たいてい暗い紫色をしている」
「……死んだ後の血液ですもんね」
「だが、今回は鮮紅色──鮮やかな赤色だった。こういう死に方をする例は、限られてくる」
常暁は指を折りながら、語り始めた。
「はじめは凍死。真冬に屋外に放置されていたなら、その可能性も有るが……今の気候ではその条件に一致しない」
「はい」
「次は青酸毒。しかし、毒物反応が出なかったのでこれも違う」
「じゃ、何なんですか?」
「一酸化炭素中毒だ」
一酸化炭素。無色・無臭・可燃性のガスで、空気より軽い。酸素より血中に入りやすいため、必要な酸素が全身に回らなくなる。重篤化すると、中枢神経が麻痺し死亡する。
車の排気ガスやストーブの排気など身近なものからも発生するため、よく事故の原因になっていると常暁は言った。
「よくわかりました。えっと、次の……」
「心臓の中の豚脂様凝血」
「それです。それが一番分からなくて」
正直、どんな漢字を書くのかすら分からない。
「心臓に残っていた血液の中に、豚肉の脂のような塊ができている状態だ」
「うえっ」
冷蔵庫にしまってあった五キロの豚バラ肉を思い出して、灯はえづいた。明日は大好きな豚丼にしようと思っていたのに、嫌なことを聞いてしまった。痛いのは慣れているが、こういうグロい話には耐性がない。
「……ふ、普通はできないんですか」
割れた声でようやくそれだけ聞いた。
「ああ。速やかに死亡した場合、血液は暗い色になるが流動性がある。死ぬのに時間がかかった場合だけ、血液が固まるんだ」
常暁は淡々と続ける。
「ほとんどの殺人は急死だ。ゆっくり殺そうとしたら、相手に逃げられてしまう可能性があるからな。今回のように出るのは、珍しい」
「まあ、睡眠薬を飲ませてガスで殺したのなら、できてもおかしくないですね……」
吐き気をこらえて灯が言うと、常暁が手をうった。
「その通りだ」
「となると、誰が容疑者になるんでしょう。また、スーパーの店長かな」
「いや。彼は確かに岩田を恨んでいたが、船戸はどうでもよかったはずだ。烏合の衆に押されて結論を急ぐな。他にも容疑者が出てくるかもしれん」
常暁がそう言うと同時に、部屋からどっと人が出てきた。
翌日は、常暁から休みを言い渡された。土曜日だったので、灯は一日自由に時間を使える。
「今日のうちにおかずを作っておこうかな……」
冷凍しておけば、忙しい日でもご飯を炊くだけで済む。灯はレシピサイトから適当なものを拾って材料を書き出し、軽い足取りで、近所のスーパーに向かった。駅から離れているが、その分いい品揃えだと姉が褒めていたところだ。
前評判通り、スーパーの前には人がたくさんいた。近所にある駐車場も、ほぼ埋まっている。ぴかぴかに磨かれた硝子窓からは、明るい店内とぎっしり並べられた商品が見えた。建物の左と右に一つずつ入り口があって、カートが積んである。
カートの前まできて、灯は足を止めた。
「あ、ここ……」
店長が容疑者のスーパーだ。まさか店内で襲いかかりはしないだろうが、顔を覚えられるかもしれない。他に行ってもいいが、ぱっと見ただけでもここが一番野菜の質がいいのは間違いない。
板挟みになった灯は何も買わないまま、店内をうろうろと彷徨った。
「……悪いんだけど、そこの人。ベビーカー、通してあげてくれない?」
灯はそう言われて、我に返った。視界が広くなる。確かに、通路の真ん中に陣取っていた。慌てて道を譲る。会釈をして去って行く若い母親の後から、見覚えのある顔が現れた。
「三代川さん」
「あら、鎌上くん……」
髪をおろしてラフなジャージ姿になった三代川がたたずんでいた。臭いもなくなった彼女は、昨日より大分話しやすそうな雰囲気だった。それでも、時々女性たちから賛美の視線が飛ぶ。同性の方がよく見ているというのは事実だと、灯は思った。
しかし三代川はそれに慣れているのか、動揺した気配も見せない。きっと生まれた時からこの調子で注目されてきたのだろう。
「君も買い物?」
「はい……でも、店長が……」
商品を手に取るのをためらう灯を見て、三代川は笑った。
「そんなの気にしてたら、生きていけないわよ。さすがに、商品に毒は盛らないでしょ」
よく考えてみれば、そうだ。灯は気を取り直し、山盛りになった玉ねぎを景気よく籠にぶちこむ。カートがあっという間にひとつでは足りなくなり、下の段にも籠を置いた。
「常暁とつるんでる割には、気が小さいのね」
つるんでいるわけではない、と灯は言い返したが、軽く流された。
「でもね、私に言わせてもらえば……店長は犯人じゃないと思う」
移動し、カップラーメンをいくつも籠に放り込む三代川。聞けば、料理などすること自体が稀だという。
「そのスタイルはいったいどうやって維持してるんですか……?」
「私こそ君に聞きたいわよ」
上下てんこ盛りになった灯の籠を見ながら三代川が言った。
「……これくらい普通ですよ」
いぶかる灯の思いをよそに、三代川が持論の続きを述べた。
「店長は店が大事でしょ? 嫌な客を追い払いたいとは思うだろうけど、殺して自分が捕まったら、それこそ本末転倒じゃない」
「そりゃそうですけど……」
声をひそめて三代川は言った。
「悲しいけど、こういうのって意外と身内の犯行が多いのよね……私は少なくとも、被害者とは親しい仲だった可能性を押してるんだけど」
「手がかりはあるんですか」
「発見された船戸の携帯に、本人じゃない指紋が残ってたことくらいかしらね。まだ、誰のものか特定はできないんだけど。今、メールの復元作業に回してるわ」
分析を待つ間、関係者には、丁寧……というかしつこいというか、とにかく徹底的な聞き込みと調査がされているらしい。ご愁傷様、と灯は心の中で手を合わせた。
「おお、美しい方。このソーセージを試食していきませんか?」
灯がしんみりしているところに、急に明るい声が割って入る。驚いた灯は、後ろにのけぞった。いつの間にか物語に出てくる小人のような男がいて、感慨無量といった顔で三代川の横顔を注視している。
「あ、そっちに男もいるな。残った油でも食え」
「いらないです」
同じ声の持ち主が、非常に雑な調子で灯に試食をすすめてくる。傷ついた灯は憮然として、断った。男とは言え灯も客なのに、なんたる差だろう。
「あ、和知店長」
「これが!?」
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