第15話 検死官は美しき

「来たか」


 時折人の話し声が聞こえるロビー。相変わらずそこで浮いている常暁が、灯に向かって手を上げた。その後ろには、金崎が厳しい顔で佇んでいた。金崎の方が少し背が低いから、見上げる格好になる。それがいかにも面白くなさそうだった。


「ご一緒でしたか」

「金崎が勝手にいるだけだ。出世が確約されているから、ヒマなんだろう」


 馬鹿にした様子で突き放す常暁。その言葉を聞いて、金崎の眉がつり上がった。


「ほら、嫌われるようなことを言うから」

「あいつが俺を嫌っているのは、最初からだ」

「何か恨みを買うようなこと、しました?」

「俺はあいつとほとんど会わない。逆恨みだ」

「……そのわずかな時間で喧嘩を売るじゃない、あなた」


 頑なに非を認めない常暁に向かって、涼やかな女性の声がした。灯はそちらに顔を向ける。


 キャリアウーマンの理想形、と言ってもいいくらいの女性がそこにいた。つやのある黒髪をきっちりとまとめ、化粧っ気はないのに白い肌が美しい。


 理知的な黒い瞳が印象的で、この人の話を聞いてみたいと思える雰囲気だ。女優と錯覚するほどの存在感と相まって、こういう人こそ本当に『美人』というのかもと灯は思った。


 しかし彼女が近づいてくると、灯は顔をしかめた。単に洗っていないとか服が古いとか、そういう次元ではない強烈な腐臭がするのだ。浮ついた雰囲気が吹き飛ぶ。


 灯は困り果て、常暁と金崎を交互に見る。二人とも困っていないどころか、珍しく嬉しそうだ。


 どこから来て、何をしている人なのだろう。強張った顔で、灯は必死に愛想笑いをする。その時、ふっと女性の顔が緩んだ。


「いいのよ、無理しなくても。解剖帰りだから、なかなか強烈でしょ」

「は、はい……」

「その足で来ちゃったからね。シャワーくらいは浴びるべきだったわ」


 女性は形のいい口をあけて笑う。


「また、丁寧に全部見ていたのか」

「当たり前よ。そうじゃないと分からないもの」


 胸を張る女性に対し、常暁がからかう。その横で、金崎は真剣なまなざしで彼をにらみつけていた。なんとなく、この人がやたら常暁にからむ理由が分かった気がした。


「あの、解剖医なんですか?」

「ううん、検死官よ」


 灯は首をかしげた。昨日調べた時は、検死官の決定を受けて医者が解剖すると書いてあったのだが、その情報がデマなのだろうか。それを女性に聞いてみた。


「間違ってないわよ。はじめの検死は私たちの大事な仕事だけど、その後の解剖に立ち会い義務はないの。監察医の報告書だけ読んでる人も多いわ」

「つまりこの人は、必要がない顔出しをする希有な方だ」


 常暁は相変わらず憎まれ口をたたくが、不思議と悪意は感じなかった。むしろ、戦友として認めているような口調だ。灯は初めて見る彼の対応に、目を見張る。


 しかし彼女はそれを当然のように受け止めていた。


「だって、知りたいじゃない。検死が合っていたかもすぐ分かるしね。犯罪を見逃すのと臭くなるのだったら、私は後者を選ぶわ」


 灯は素直に感謝した。彼女のような人がいるから、殺人犯が野放しにならずに済むのだ。


「すみませんでした。えっと……」

三代川みよかわ三代川幸乃みよかわ ゆきのよ。そろそろ、行きましょうか」


 三代川が動き出す。男たちはそれに続いた。


 捜査本部は、ごく普通の会議室にあった。長机にパイプ椅子、ここにサラリーマンが座って資料を広げれば、灯の会社で見慣れた風景になる。


 しかし今は、報告を聞くためにやってきた刑事たちでごった返している。どの面々も目が据わっていて、全方向から圧迫されている気分だ。まるで異世界、緊張で身がすくむ。灯は席につくと、拳を握って下を向いた。


 三代川はそんなものものしい空間に臆した様子もなく最前列まで進み、ホワイトボードの横に立った。管理官がそれを見て、声をかける。


「残念なことに、新たな犠牲者が出てしまった。検死官よりその詳細を報告してもらう。三代川くん、始めてくれ」


 三代川はうなずき、淡々と話し出した。


「被害者は船戸大志。三十四歳、職業は高校教諭。死亡推定時刻は三十六時間前。胃の内容物はなく、少なくとも十時間以上は絶食であったと考えられます」

「では、岩田さん殺害後すぐ、拘束されていたのか」

「その可能性はあります。二人には性的接触があったため、一緒にいたところを襲われたのかもしれません。ここの検証については、地取り・鑑取りの方々にお任せします」

「ジドリ? カンドリ?」


 不思議な言葉の意味が分からず、灯は首をひねる。


「聞き込みのことだと思っておけ」


 常暁がつぶやいた。灯は無言で頭を下げる。


「死斑は鮮紅色。ただし毒物反応はありません」

「なら、一酸化炭素か?」

「はい。血中飽和度八十パーセントになっていました。これが死因です」


 三代川が言うと、そこここからメモを取る音が聞こえてきた。


「車にガスを引き込んだのか?」

「いや、目張りがなかった。あれじゃ死なないよ」

「別の部屋で殺して捨てたんだろう」


 刑事たちが囁き合う。灯は視線をあげて、隣の様子をうかがった。常暁はじっと目を閉じたまま、微動だにしなかった。


「最大の特徴は、心臓中にあった豚脂様凝血です」

「亜急性死か」

「死因はガスですから、不可能ではありません」

「途中で被害者が起きたら、どうするつもりだったんだろうな」

「血中から、クアゼパムが検出されています。長時間作用の睡眠薬ですから、これを服用させてからガスを放出したのでしょう。──現時点での報告は以上ですが、何か質問がある方は?」


 部屋のそこここから手があがる。しかし灯はプロではない。飛び交う専門用語についていけず、ひとり目を回していた。


「……外に出るか」


 常暁が灯の肩をたたく。灯は一も二もなく、足早に部屋を出る彼に続いた。


「いいんですか」

「聞くべきことは聞いた。あとはお前に知識を与えてやる。さっぱり分からないって顔をしてたからな」

「おっしゃる通りです」


 灯は素直にうなずいた。


「知らなくても無理はない。俺も慣れるまで分からなかったからな」


 軽蔑されるかと思っていたが、以外と常暁は優しかった。懐に入れた人間には甘くなる性質のようだ。


「……ありがとうございます」

「まず、始めのところはいいな」

「はい。死斑、ってところから、急に話が進み出して分からなくなりました」


 記憶を必死にたぐりながら、灯は答える。

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