第14話 新たな死体
結局、灯が家に戻ると日付が変わっていた。明日が休日なら良かったのに思いながら、床に入る。ぐっすり眠った気がしないまま、会社に行って仕事をした。しかしそれは、決して完璧とはいえない。
「……先輩、どうしたんすか」
件の頼りない後輩にすら、心配される始末だった。今日は素直に弱音を吐いてもいいかもしれない。
「昨日、寝るのが遅くてさ」
「先輩、彼女いないですよね? ひとり寂しく何やってたんすか?」
殴ってやろうかと思ったが、すんでのところでこらえる。人なつこいとか気安いとかではなく、こいつは単にデリカシーがないのだ。当たり障りの無い回答にとどめるべきだったと、後悔する。
「知り合いのトラブルに巻き込まれたんだよ」
「浮気? 寝取られ?」
「なんでもかんでも女性に結びつけるな」
こんな調子で邪推され、うだつが上がらないまま一日を終えた。心ない後輩のミスのおかげでだらだらと残業し、倦怠感の残った身体を引きずるように歩く。一体、なんの罰だろう。この前ましだと思った気持ちは、もう跡形もなく消えていた。
……深夜は、苦手だ。体力には自信があるが、いつも早く寝ているせいで眠気がひどい。灯は家に着くと、胸元を緩めただけでそのままベッドに入った。
夢すら見ることなく、眠り続ける。ふと目が覚めたときには、枕元の時計が午前二時をさしていた。
部屋の中が暗い。倒れ込む寸前に電気だけは消したのかと思うと、妙にその判断が現実的でおかしかった。
中途半端な時間だが、眠りが深かったおかげで頭が冴えている。だいぶ元気が戻っているのを感じ、息を吐いた。日中もこれくらいの状態なら、恥をかかずに済んだのだが。
苦笑いをすると同時に、聞き慣れない音が灯の耳に飛び込んできた。男性が低い声で、一定の抑揚をつけてなにかを唱えている。
「え……」
信じられないことに、部屋の隅、北側から読経が聞こえてくるのだ。
もしかして……死んだ? 最悪の予想をしてしまい、灯は激しく頭を振った。しかし、それでようやく今まで失念していた事実に気付く。
おそるおそる、声の方へ顔を向けた。
「常暁さん?」
一瞬、読経が止まった。その反応だけで十分である。
跳ねるように起きて灯は壁へ寄り、手探りで電気のスイッチを押す。一気に部屋が明るくなって、妖しい雰囲気はかき消えた。
八畳間のド真ん中で、常暁がしきりに目をしばたいている。「何をする」と言いたげに、灯に顔を向けてきた。
「なんでいるんですかッ。不法侵入で訴えますよ」
灯は声を荒げた。
「疲れていたのか? 玄関が開けっ放しだったぞ。誰かいた方がいいと思ってな」
「あ」
「入ってきたのが俺でよかったな。なんにも手を触れてないぞ、玄関以外には」
血相を変える灯とは反対に、常暁はしれっとした顔で言う。灯は喧嘩をする気も失せて、立ち上がった。
「ついでに、なんか低級な霊がいたから追い払ったぞ」
「……ありがとうございます」
礼がてら、茶を入れることにした。そもそも、自分の不注意が招いた事態だ。
茶の香りがたつと、少し灯の口元がゆるむ。いつになく良い香りだ。
丑三つ時だというのに、常暁は乱れのない手つきでそれを飲んだ。表情もきりっとしている。一体、いつ寝ているのだろうと灯はいぶかる。
「……僕を訪ねてきた理由は、まだ教えてもらってないですよね。普通の理由だといいんですけど」
「朝になれば報道されると思うが。船戸の遺体が見つかった」
灯は目を閉じた。昼間の話を聞いてから、頭の隅にずっとあった推測。それが、現実のものになったのだ。自分のせいではないとわかっていても、やはり一抹の無念さは残る。
「……どこから?」
「山沿いに路上駐車されていた車があった。その後部座席に、ガラクタと一緒に放置されていたよ。ガラクタは、発見を遅らせるための目隠しだろうな」
その光景を想像して、灯の胸がむかついた。詳しい話はいらないと、最初に布石をうっておく。
「心配するな。どうせ解剖待ちだ。……しかし死後二日ほどだろうと言われている。岩田が死んだしばらく後に、殺されていたわけだ」
残酷な事実から目を背けたくなるのをこらえて、灯は聞いた。
「……どうして」
「初めから標的だったのか、巻き添えなのかは分からない」
常暁はそう言って、茶を飲み干した。
「明日の夕方、検死官からの報告がある。一緒に聞け」
「……怖い話はなしですよね?」
「そんなわけないだろう」
常暁はそう言って読経を再開した。
経を聞いているうちに、灯は二度寝していた。常暁はいつの間にかいなくなっている。
『玄関の鍵は開けっ放しだが、不審者が入ると呪われるようにしておいた。目覚めて何もないなら、泥棒はいないから安心しろ』
そう達筆で書かれたメモが残っている。灯は怖々室内を見たが、変わったところはなかった。無事が確認できると、夜に交わした会話が蘇ってくる。
検死官から報告、といわれた。しかしどんな職業かぴんとこない。
気になった灯は、寝そべったまま検索サイトに単語をうちこんでみた。
『検死官:警察官の中でも、死体の検分を専門に扱う。彼らが変死と判断した場合、監察医や法医学者が解剖を行う』
ざっと読んで灯は息を吐いた。ドラマだといきなり解剖になっていることが多いが、その前の段階があるということだ。死体を一番最初に見るなんて度胸のいることを、一体どんな人がやっているのだろう。……おっさんであることは間違いないとしても、興味はわく。
「それにしても、二人目か……」
朝のニュースで続報がないか見てみようとした時、紗英から電話がかかってきた。
「見た!? 二人目よ、しかもまた近所」
「……知ってるよ」
灯は生返事をした。すると姉は、ますます勢いづいてまくしたてる。
「今度は若い男性だって。あんたも犯人を見かけたら……」
「うん」
「ブチ倒すのよ」
姉の為人がおかしい。
「どうして、そう思考が好戦的なの。やんないよ、そんなこと。逃げる一択。……姉さんちに遊びに行くのも、しばらく延期にしようかな」
熱心さの方向を間違っている紗英にため息をつきながら、灯は受話器を握り直した。決して嫌いじゃないのだが、野生ともいうべき極端な思考には時々驚く。
「まあ、被害者は学校の先生。僕と接点はないけどね」
「あら、それどこのニュースでやってたの。こっちじゃそんなこと、言ってなかったわよ」
灯の口の中が、急に苦くなった。姉は相変わらず、鋭い。……野生だから。姉弟なのに、どうして自分にはこの血が受け継がれなかったのだろう。
「ネ……ネットニュースで見たんだよ。あれが一番速く更新されるから」
とっさにろくでもない言い訳をひねり出した。姉は不自然さを感じ取って「ふうん」と低く唸ったが、とりあえず納得したようだ。
「とにかく、こっちは大丈夫だから。また電話するよ」
通話を切って、灯は胸をなで下ろす。
最前線と報道には、かなり情報の量に差がある。単純に、事件の話はしないのが一番だ。姉を裏切っているようで気が進まないが、仕方無い。今後は気をつけようと、灯は割り切った。
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