第8話 天敵の差し金
結局、その日の灯は色々と考えてしまい、ろくに眠らなかった。
「なんせ殺人事件の捜査に協力するんだもんなあ……」
あんな話を聞かされたまま、たやすく眠りにはつけない。
灯は妙に高揚した気分のまま、出社した。今日はサボリ癖のある後輩を見ても、「人殺ししないだけこいつは偉いな」と思えるようになっていて、なんだか落ち着いて仕事が出来る。
「鎌上くん、なんか今日は優しいね」
「病み上がりだから、調子出ないんじゃないか」
同僚たちのからかいに対し、灯はあいまいな笑みを返す。彼らは灯が事件に関わったことも知らないし、副業の件も聞いていないのだろう。
仕事を終え、いつものように連れだって退社しようとした時、灯のスマホが鳴った。
「はい」
「山手署の
常暁とは違う、本物の刑事。灯の身体に衝撃が走った。何か疑われているのだろうか。取り乱しそうになるのを、すんでのところでこらえる。それでも、一瞬喉が硬直した。
大丈夫だ。悪いことはしてない。変なことを言わなければ、大丈夫。
駆け抜けた予感をなだめるために、灯は何度か深呼吸した。
「はい、僕がそうです」
「この前はどうも。機捜の──というより、常暁の天敵と言った方がわかりやすいでしょうか」
思いを巡らせる。灯の脳裏に、渋い刑事の顔が蘇った。
「お、お疲れ様です」
常套句を述べる灯に、黒江は笑いを返す。
「ありがとうございます。私は初期捜査担当なので、これから先は捜査本部と常暁に委ねるわけですが……一言君にお礼が言いたくてね。いや、常暁と一緒に社長に談判しに行った甲斐がありましたよ」
「え?」
「常暁ひとりでまともな交渉ができるとお思いで? まあどうせ、自分の手柄のように君には語ったでしょうがね」
黒江の笑い声を聞きながら、灯は常暁がこの男を苦手とする理由が分かった気がした。自分の行動を見透かしてくる相手というのは、気持ちいいものではない。
「交渉、ありがとうございます。でも、お礼を言われるほど役に立つかは……」
「常暁のお守りができるじゃありませんか。あれは結構な範囲の常識がない。あれに付き合うのは、体力と気力、それに愛嬌が要りますよ。あなたはそれをお持ちだ。私もできなくはないが、あれにずっと付き合うのはごめんですからね」
黒江は淡々と言う。
「……というわけで、今から署にいらしてください。奴は六時に戻ってきます。今日一日単独行動をさせてみましたので、きっとおも……困ったことになっていると思いますから」
「……でしょうね。お金のためですから、精一杯やりますよ」
「本当にそれだけですか?」
黒江が低く笑った。彼は、灯の内心をも見透かしている。金はもちろん欲しいが、誰かに面と向かって必要だ、すごいと言われたのは、久しぶりで……それも少し嬉しかったのだ。
きっといつか後悔するのだろう。心に任せて行動したことを、若気の至りと思うようになるのだろう。それでも、このままの生活を続けるよりは自分のためになる気がした。
しかしそれを素直に認めるのも癪に障る。
「今はそういうことにさせてください」
「承知しました。それでは」
心の動きを了解したように通話が切れた。黒江の含み笑いだけが、妙に耳に残っている。
「今の、誰から?」
「い、いや。叔父さんから」
同僚の無邪気な質問に、灯は冷や汗を流しながら嘘をついた。
「さあ、来ちゃったよ……」
市内のやや北側。市を貫く大きな道路に面した警察署。
金作りの桜が入った門を前にして、灯はため息をつく。古びたコンクリートの四角い建物を想像していたのだが、想像以上にきれいなものだった。上から下まで薄いグリーンの硝子窓が並び、白い壁に映えている。
オフィスビルといっても通りそうな外観を見ながら、灯は自動ドアから中をのぞく。すぐ中は円形のホールになっていて、白い待合椅子が置いてある。壁面に案内窓口があり、不慣れなものはここで聞いて目的地に向かうのだろう。
仕事は五時に終わった。今、五時半をまわったところ。常暁の帰還まで時間をもて余した灯は、中をぶらぶら歩いた。あてなどないから、ただ廊下と階段を歩くだけだ。階段ですれ違うスーツ姿の人々。黒とネズミ色が目立ち、色彩が沈んで見える。慶事に関わることが少ない部署だから、それが当然のように見えた。
ひととおり回って再度ロビーに足を踏み入れた時──その広い空間のド真ん中で怒られている誰かがいた。
「また苦情か」
「今日だけで何件だよ、勘弁してくれよ」
「お前も公職の端くれなら、少しはものの言い方を覚えろ」
「すまないとは思う。が、説明しろと言われても理由が分からない」
唾を飛ばして怒っていたのは、背広姿の男……刑事たちだろう。そして謝りつつも姿勢良く突っ立っているのは常暁だった。
頭を下げるとかうつむくとか、そういう卑屈なところがないせいで、全然謝っているように見えない。泰然としている様に刑事たちも徐々にトーンダウンしていく。
「全く……相棒はどうしたよ。あいつがいないと、話が通じねえよ」
ひとりの刑事がため息混じりに言う。彼に悪気はなかったろうが、常暁がそれを聞いて悲しそうな顔つきになった。
「いなくなった」
そしてぽつりと一言だけこぼす。言い訳をしている素振りはない。かえってあれこれ言わないのが、傷の深さを物語っていた。あれだけ怒っていた刑事たちでさえ、ばつが悪そうに顔をそむける。
「じゃあ……他の誰かに手伝ってもらえよ」
たしなめられて、常暁がそっぽを向いた。その時、ねじ曲がった首の先にある顔が灯をとらえる。
大げさに手招きされた。しかたないので、足音をたてて出て行く。
「……誰?」
「鎌上灯といいます。常暁さんのお手伝いに来ました」
灯がそう言った途端、場が湧いた。歓声ともいっていい勢いに、灯はたじろぐ。
「なんだ、いるんじゃないか」
「よろしくお願いしますよ、ほんと」
刑事たちはスーツ姿の灯を見るなり、ほっとした顔になって頭を下げる。逃げ場がないから来ただけだったのだが──誰かの役に立っている、活躍できている、と思うと再び胸が高鳴った。
しかし腹立たしいことに、常暁は彼らがいなくなるまで一言も謝罪しなかった。
「さっき叱られていた件ですが」
「全く、大層に騒ぐ奴らだ」
「いや、真剣に受け止めた方がいいと思いますよ。一言一句忘れず」
そうでなければ困るのは常暁である。そう訴えても、常暁は自分に責任がないといわんばかりの顔をしていた。
「……なぜ、ここに。今から連絡しようかと思っていたんだが」
眉間に皺を寄せながらまじまじと見つめられたのは、周囲に人気がなくなってからである。やっとそのことに思い至ったか、と灯はため息をついた。
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