第10話

 柱時計がボンボンと十一時を知らせる。聞き慣れた音のはずなのに、今夜は何故かいつもと違った音色に聞こえてしまう。家を漂う空気の色も違って見える。それにしても奈美恵のいないこの家は、なんて広いのだろう。

 風呂から上がった芙美子は、真っ白なバスタオルを体に巻いて居間の絨毯にへたり込んでいた。


 ボクハキミニヒカレテイル

 ぼくはきみにひかれている

 僕は君に惹かれている


 ちひろのセリフが背中に張り付き、洗っても洗っても拭えなかった。背中に受けた瞬間、全身を駆け抜けた熱い電流、あれは何だったのか。芙美子は、ちひろの苦渋に充ちた横顔を思い出した。

 冷蔵庫からビールを取り出し、缶の口をあけてそのまま一気に飲み干す。酔いが急に回り、頭がクラクラしてくる。


 わたしも、あなたを父親だと、思えそうにないわ。だから、次、会った時は他人同士よ。


 芙美子はバスタオルを巻き付けて、鏡の前に立った。パラりと足元にタオルが落ちる。鏡の中の見知らぬ女が自分を見ていた。背後に男が立っている。もやがかかっているようにおぼろげだが、やはり裸体のちひろが、女の胸に両腕をからめ、まだ濡れている長い髪に口づけした。


 なんて想像を。


 芙美子は我に返り、母への申し訳なさで胸がいっぱいになる。しかし自分の心を自分でさえ、どうにもできなかった。


 私は孝雄から離れた。それと同じで、ちひろも母から去ったのだ。


 芙美子には、ちひろを責める気はもうなかった。その資格すらないと思った。

 二階に駆け上がって、ベッドに横たわり天井の灯りをつける。橙色の光がひどく眩しい。さなぎから抜け出した蝶が、太陽の光をはじめて見るように。

 今はただ眠りたかった。

 素っ裸で布団にもぐりこむと、芙美子はすぐに小さな寝息をたてはじめた。

 その寝顔は幼な子のごとくあどけない。禁断の、甘い蜜をなめた、蝶の顔だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まどろむ蝶たち オダ 暁 @odaakatuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る