第23話 春の庭

愁陽が愛麗の屋敷を訪ねると、懐かしい歌が聴こえてきた。

歌声のするほうへ庭をすすむ。そこには愛麗が庭先に立ち、満開の桃の花の木を見上げながら、一人口ずさんでいた。


青い空 光に満ちて

吹く風は やさしく過ぎる……

白い羽 この背に抱いて

飛び立とう 遙かなる時空ときを超えて ……


愁陽の声が愛麗の声に重なる。

驚いて振り向いた彼女は愁陽の姿を見つけると、すぐに嬉しそうに満面の笑みを見せた。

華やかに咲く桃の花みたいだ。

愁陽は思った。満開の桃の花を背にしても、愛麗の美しさは見劣りしない。

今日は薄桃色の衣を身に纏い、少し頭の上で結い上げた黒髪に桃の花をあしらった髪飾りをつけ、残りの黒髪が背に長くゆるやかに下ろす彼女の姿は、まるで今、桃の木から抜け出てきた桃の精のように見える。


「愁陽!」

「懐かしいね、幼い頃、よく一緒に歌っていた」

「最近、よくこの歌を思い出すの。大好きだったわ、この歌」

「うん、俺も」

愁陽が愛麗に向き合うように立つと、愛麗が空を見上げた。


「空を見ていたの」

「空?」

愁陽もその言葉につられて、愛麗と並んで空を見上げる。


「長い間、見上げていなかったなって思って。……子供の頃、草の上に寝転がって、よく一緒に見上げていたね」

「ああ……そうだね。今は空を見上げることも、減ってしまったな」

「私、愁陽に会うまで忘れてたわ。空がこんなにも高くて、青くて広いってこと」

「確かに、俺も。いつのまにか、空を見上げる事も忘れてしまっていたみたいだ」


愁陽と愛麗が並んで一緒に空を見上げる、その青い空の中を白い雲がゆったりと流れていく。愛麗は、子供の頃に見上げた空も、ちょうどこんなふうにふわふわの白い雲が浮かんでいたことを思い出した。なぜだか子供の頃のことは、今まであまり思い出さなかったのだけれど、愁陽に再会したからだろうか……、久しぶりにあの頃のことを思い出した。


「なんだか久しぶりに子供の頃を思い出しちゃったな」

「ああ。あの頃は、楽しかったな」

「ほんと!その日何して遊ぶかが、もっとも重要な問題だった!」

「あぁ~それなっ。毎日、なんでも一生懸命でさ」

「遊ぶこと、生きることに!」


二人顔を見合わせ笑い合う。

クスクスと嬉しそうに話す愛麗の笑顔は、あの頃と何も変わらないように見える。


「ねっ、愁陽っ!」

「ん?」

「夢、覚えてる?」

「夢?」

「うん」

「大人になったら、どんな人になりたい、とか」

「ああ、……なんだっけな」

愁陽は自分の夢が何だったのか覚えていない。なんだったのだろう……

父王のように、立派になりたいとでも言ったか?

彼が思い出せず首を捻っていると、愛麗が覚えていた。


「あなたは馬に乗って、いろんな地を駆け巡りたいって言ってたわ。世界というものをこの目で見て周りたいって」

「ああ……、そうだったかな」

「そして、今は夢を一つずつ叶えてるのね」

そう言って、愛麗はにっこりと笑った。


馬で各地を駆け巡る。確かに今も愛馬で辺境の地まで駆けた。

けれど、その夢は形は似ているようで、まったく別物だ。自分が子供の頃に思い描いたものとはまったく違うものだった。

なにか喉に苦いものがこみ上げるような気がした。


愁陽は小さく息を吐いた。

「そんなに、いいものじゃなよ」

思わず声の調子が低く暗くなってしまった。あ、まずい……と愁陽は思う。

愛麗が不安げに彼の表情かおを窺う。

「愁陽?」


少しだけ重くなってしまった空気を切り替えるように、愁陽は顔を上げると意識して明るく言った。

「愛麗は空になりたい!って言っていた」

「ふふ…、バカなことよね。なれるわけないのに、空なんて!」

愛麗は右手を空に向けて翳し仰ぎ見て、笑った。眩しい陽射しに目を細める。


「えー、俺は結構好きだったけどな、豪快でさ」

それは、本当のことだ。なかなかあの雄大な空になりたいなんて、大きな夢で気持ちがいい。自分には空になるのが夢だという勇気がない。それを素直に言える愛麗が羨ましく、キラキラと輝いて見えて、そんな彼女が眩しくて。大好きになった。


「まあ、姫君の発言とは思えないけどね」

と、ニヤリと笑って片目を瞑る。

「豪快だなんて。姫君にむかって失礼ね」

彼女はわざと姫君らしく答えてツンと横を向く。

「あ、一応、自覚あるんだ」

「もちろんよ。まあ、たまに忘れるけど」

「たまに、ねえ?」


愁陽は、たまに忘れるのではなく、ごく稀に姫君を思い出す、の間違いだろうと訂正しようか思ったが、ここではやめた。


か……ずいぶん大きな夢だったのね」

溜息混じりに空を見上げて彼女は言ったが、ふと隣に立つ愁陽を見て言った。


「私は駄目だったけれど、愁陽ならきっとなれるわ!」

「っ、……」


愁陽が愛麗のほうへ向くと、彼女は大きく黒い瞳に強い光を宿して、彼をまっすぐに見つめていた。彼女が本当にそう思い、なんの疑いもなく心から言っていることが分かる。


愁陽はまっすぐ返すことができず、そのまま視線を反らした。

唇を噛み締める。ただなにも言えなくて俯くしかなかった。

地面に視線を落としたまま何も答えない愁陽に、愛麗は何か気に触ることを言ってしまっただろうか……と不安になった。


「愁陽?……どうかした?」

彼が地面に視線を落としたまま、何か小さな声で吐くように言うが、よく聞き取れなかった。

「え?」


「……俺も、なれないよ」


俯いたまま顔をあげようとしない。こんな愁陽を初めて見た。身体の横に落とした両方の掌は強く握り締められている。

「愁陽?」

「空には、なれないと思う」

「……どうして?」


「……なぜなら、俺は……俺はっ」


その先の言葉を言おうとして言い澱んだ。

愁陽は震える両の掌を見る。やっぱり、だめだ。

自分の手は、赤くドロリと染まっていた。

強く握った拳が震える。震える右の拳を左手で包んでも、愁陽にはその震えを止めることが出来ない。そして、彼は絞り出すように掠れた小さな声で言った。


「俺は人を……、たくさん、殺した」


「っ!!……愁、陽」


震える両方の手を合わせ包み込みこんでいても、どんなに拭っても拭いきれないものが、自分の掌の中にある。

喉に突き刺さるように何かがこみ上げてくる。

けれど一度吐き出された言葉は、もう止めることも出来ない。


「多くの者たちの命を奪い…、多くの者たちから家族を…、愛する者を、奪った……」


夢の中で見た、眼下の戰場いくさばを辛そうに見ていた愁陽の表情かおと重なる。

愛麗は、泣きたい気持ちになった。なぜ愁陽が苦しまなければならないのか。


「でも、それはっ。郷里を守るため、私達を守るために」

「そうだよ、愛麗。だけど、その平和を守るためと言いながら、嘆き悲しむ者たちがいるのも本当なんだ。そして、また、そこから多くの憎しみを生み出している」


長い睫毛で瞳に翳を作り、自嘲的に小さく笑みを浮かべる。

「平和のためと言えば、すべてが正当で大儀なものに思える。本当は、人の命を奪うなんてこと、出来やしないのに。戦場いくさばに出るとわからなくなるんだ。おかしいだろ?確かに剣を握り、この手で人を斬り、目の前で命を奪っているのに。いま、自分が斬っているのは人ではなく、モノのようにすら思えてくるんだ。この手は血で濡れているのに……こんなにも、濡れている」


今まで誰にもこの気持ちは言ったことはなかった。ずっと言えずにいた。

その胸のうちを今はなぜか愛麗に話している。

なぜだろう……こんな姿、彼女に見せたくはないのに。

彼女に話すつもりなどなかったのに。

彼女が自分のこと怖がるかも知れない。

けれど、苦しかった胸の内を吐き出すように愁陽は静かに続けた。


「……でも、らなければ、自分がられる。自分が生き残るために、人の命が消えるんだ……そんな自分に嫌悪するよ。何故、人は命を守るため、平和のためと言いながら、殺し合わなければならないのか……戦も、人殺しも、同じだ」

ふたりの間に沈黙が落ちる。吹き抜ける風が前髪を揺らしていく。


「愁陽……」

愛麗はなんて言えばいいのか考えた。取り繕った言葉でなく、自分の言葉を紡ぐために。眼の前で苦しむ幼馴染みのために。

戦場いくさばを知らない自分は、何を言っても想像でしか言葉を紡げない。

彼の言うことは正しいのだと思う。

けれど、きっと何かが違う。

彼だけが、こんなに苦しむのは違う。

そう思えて仕方がないから、彼に伝えたい言葉を探す。


「……あなたの、言う通りかも知れない。正義や大儀という言葉を借りてしていることは盗人や人殺しと、何も変わらない。略奪、虐殺、そうして築き守ってきたものを、別の者たちが破壊していく」


彼女は静かに話しを続けた。

今、自分は愁陽にとって、ほんとにひどいことを言っていると思う。けれど、彼に自分の心の底からどうしても伝えたいことがある。


「でもね、ひとつだけ違うことがあるわ」

「ちがう?」

愁陽が眉根を寄せて愛麗を見る。

「そうよ。あなたが、そのことを思って、こんなにもココロを痛めてるってこと。勝利に喜ぶ者がいれば、愛する者を失い、嘆き悲しむ者がいる。平和を求めるのに、憎しみが生まれてゆく。その矛盾の狭間で、あなたはとても、とても苦しんでる」


愁陽は静かに黙って愛麗を見つめている。

「あなたは、そんな事実から目を背けることもできない。これからも、ずっと……。けれど、それがあなたの強さなんだと思う。愁陽は、周りの者たちを照らし守ってゆける太陽のような人。だから、みんなもあなたにならついてゆける。ついてゆきたいって、思うのよ」


「……そんなに、……やさしいものじゃ、ないよ」

彼はぽつりと呟く。

「そうね。ヒドイこと言ってるわ。戦場を知らない私にはあなたの本当の辛さが解からない。想像でしかないから……。でもね、愁陽。雨が降っても、止まない雨はないわ。いつの日か晴れる」


愁陽の固く握った冷たい両の手を、愛麗はそっと優しく両手で包む。

彼の怯えや苦しみ、そういったすべてを彼女自身のすべてで包み込むように。

「だから、涙もいつの日かかならず乾く。そうすれば、悲しみもやがて薄れ、やがて笑顔になれる。憎しみに満ちていたココロも、いつの日か穏やかになれる。きっと、そんな世がやってくる……」


綺麗ごとだと言われるかも知れない。けれど、そんな日が必ず来るって信じたい。きっと愁陽なら出来る、そんな平和な世を築いてくれる。そう思えるから。


「……ほんとうに、…そんな日が、来るのだろうか」

彼の声が僅かに震えている。

「来るわ」

愛麗がきっぱりと力強く答える。


そのとき、すぐ傍の桃の木の幹に黒い染みが滲み生まれたことに、まだ二人とも気づいていなかった。


愛麗が愁陽の握りしめていた両の掌をそっと優しく開く。

愁陽が自分の掌に視線を落とすと、さっきまで赤く血にドロリと染まり震えていた自分の両の掌が、今は血も消えてなくなり震えも治まっていた。


「愛麗……」

愁陽は自分に言い聞かせるように話し始める。


「長い歴史の中、人々は平和を願い、国を滅ぼし国を新たに築き、けれど、そうして得た平安もやがて崩壊し、泰平を願った国もまた滅ぼされる。歴史はそうやって繰り返されてきた。きっと、それはこれからも変わらないのだろう……。俺たちの、いま生きている時間は、長い歴史の中で、ほんの一瞬にしかすぎない」


「でも、自分自身の歴史は生きている間すべてだわ。だから私達のしていることは決して無駄ではない。そう思うと、長く精一杯生きることも、なかなか意味あることに思えない?面白い感じしない?」

愛麗の真っ直ぐな眼差しと視線がぶつかる。


そっか…彼女の言う通りかも知れない。

やはり、愛麗と自分は違う。

彼女には敵わないな。いつも救われてばかりだ。

思わず、目を伏せた愁陽の口元が綻ぶ。


「……なるほどね」

「そ!」

愛麗の声は明るく自信に満ちている。


先ほどからじわじわと桃の木の幹にできた黒い一点の染みはみるみる広がり、今も禍々しく黒く滲み続けている。けれど、まだ誰も気づかない。


「愛麗らしい答えだ」

愁陽の顔にもようやく薄く笑みが見えた。


愛麗は思った。いつも優しく聡明で爽やかな笑顔がよく似合っていた幼馴染が、そんな苦しんでばかりなのは嫌だ。

これが大人になるってことなのかも知れないけれど……

それならば、大人になりたくない、と。


そう思えたとき、なぜか自分の胸の内にあって自分を覆い隠していた何かが溶け出し、本当の自分に久しぶりに会えたような、そんな不思議な気持ちがした。

覆いかぶさっていた霧が晴れていくようだ。

そう思えるようになったのは、それは、おそらく愁陽のお蔭だと思う。

「愁陽、私ね。あなたに久しぶりに会えて……」


そこまで愛麗が口にしたとき、彼女はようやく気付いた。

すぐ側の桃の木の幹に、禍々しく女の黒い影が浮かんでいるのを。


きゃ、愛麗が小さく悲鳴をあげ、両手で口元を覆った。彼女が気づいても、黒い影は溢れるように滲み広がり続け、形を作り上げている。

言葉を失くし、表情から笑みが消え蒼白となった愛麗の異変に、愁陽も気がつき彼女の視線の先を追った。

愛麗の視線の先にある、桃の木の幹を見る。


「愛麗、その桃の木がどうかしたのか?」

愁陽は、桃の木を見ても表情を変えることなく、不思議そうに愛麗を見る。

愛麗は息をのんだ。


「愁陽……あなたには、見えないの?」

「見えないって、何が。桃の木がどうしたんだ?」


愛麗は慌てて桃の木を振り返る。影は今も滲み広がり続けていて、それはもう女の形だと認識もできるのに、愁陽には影が見えていないようだ。

見えているのは、自分だけということなのか。

愛麗は言葉をのみこんだ


「……あなた、誰、なの?」

影は、ゆらゆらと動きだす。まるで桃の木から出てこようとするかのように。


「あなたは、誰!?」

彼女の声に緊張が走る。


「愛麗、いったい誰と話しているんだ!?」

愁陽が桃の木と愛麗の間の身体を滑り込ませ、桃の木との視線を遮った。怯える彼女の両肩を掴む彼を愛麗は手で制すると、恐怖で声が震えそうになる自分を律し、語気も強く彼の背の後ろを覗き込んで声を荒らげた。


「いつも話し掛けてくる、あなたはいったい誰なの!?」


けれどそこには先程の黒い女の影はなく、穏やかに満開に咲く桃の木が立っているだけだった。

愛麗に言いようのない恐怖が込み上げてきた。

あれは、幻影などではなかった。

恐怖が、闇が、生み出されたのだ。

なぜかわからないが、自分にはわかる。

あれは異なるもの。

こんな自分を、愁陽には知られたくない。


「愛麗?大丈夫か?」

愁陽の声に愛麗はハッとした。

彼が心配そうに顔を覗き込んでいる。知られてはいけない。

「あ…、うん。誰か、そこにいるような気がして」

愁陽も桃の木を振り返り確認する

「さっきから誰もいないけど」

「そ、うね。寝ぼけてたのかな」

困ったように笑う彼女に、愁陽はなにか腑に落ちない気はしたが、それ以上深くは聞くことはやめた。

なぜなら今日、愛麗を訪ねたのは大切な話をしたかったからだ。

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