第22話 憂い

長閑な春の昼下がり、愁陽は山間に流れる静かな川辺の大きな岩に腰かけ、釣り糸を垂れていた。

少し離れた岩場では、マルがのんびり沢蟹と戯れている。


マルは主に付いて戦に出れば最前線でこうもしていられないが、本当はまだあどけなさが残る歳でもあり、オオカミの血も流れるからか自由気ままなところがある。


愁陽は本当なら一人で訪れたかったが、何度もマルを巻こうにも今日は失敗に終わり、結局マルと二人ここにいる。


さわさわさわ……

小さな水音を立てながら流れる渓流の音を聞きながら、静かな水面に浮かぶ浮きをぼんやり眺める。時折、何かの獣や鳥たちが鳴き声だけで、ここは静かだ。


愛麗に会いに行ったあの日、結局、婚礼衣装を決めるため席を外した彼女は夕刻になっても戻ることなく、愁陽も城を抜け出して来ていたため会うことは叶わず城へと戻った。

あの日以来、答えの見つからない問題を考えては、ずっと溜息をついている。

だから城を離れ一人考えたいと、今日もこっそり城を抜け出してきたのだった。

マルには何度も見つかり、結局くっついて来たが……。


数え切れない何度目かの溜息をついたとき、いつのまにか傍に来ていたマルが声をかけてきた。


「愁陽様」

「ん?」

「カニ」

マルは捕まえた沢蟹を愁陽の目の前に突き出す。


「は?」

「カニです」

「見りゃわかるよ」

これは、犬が捕まえた獲物を主人に自慢気に見せにくるという、あれか?


愁陽は考えているところを邪魔されて、あきらかにイラっとしたように横目でじとっとマルを見やるが、マルはお構いなしに朗らかに笑って、手のひらに小さな沢蟹を乗せている。


「こんなに小さくても一生懸命生きてるんですねえ。毎日、毎日、大切に」

マルの裏表のない素朴な言葉に、愁陽の感情から毒気が抜かれたように苛立ちが消える。マルがそっと沢蟹を岩場の影に帰してやるのを、愁陽はなんとなく見ながら……そうだな、とぽつりと答えた。


さわさわさわ……


静かに水の流れる音だけが静かな山の合間にこだましている。

マルはずっと気になっていた疑問を主に問いかけてみた。


「ねえ、愁陽さまは、愛麗さまをお好きなんですか?」

「え⁉」


少しの沈黙のあと、愁陽は慌てて言った。

「な、なな、なんだよっ」

唐突な従者の問いに、愁陽は声がひっくり返った。

「い、いきなりだなっ!」

「そうですか?ボクは愛麗さまにお会いしてから、ずっと思っていました。愛麗さまは、愁陽さまにとって、きっと大切な方なんだろうなぁ~って。あ、でも、お会いする前から、愁陽さまが愛麗さまのお話しするときは、すっごく嬉しそうだなぁって思ってましたよ!」


そう言って、愁陽を真っすぐに見つめるマルの大きくまるい目は、純粋という言葉がぴったりと当てはまりそうでキラキラとしていた。

ま、まぶしい……

愁陽はそんな真っすぐで純真で無垢なマルの視線を眩しく感じながら、今は自分を誤魔化したくはない、そう思えた。


「露骨だな…」

「いけませんでした?」

「いいや。俺も、お前のその素直でまっすぐさが欲しいよ」


少し自嘲するかのように、愁陽は伏せ目がちに笑った。

そんな主人の言葉に、マルはきょとんとした表情を見せて、首をほんの少しかしげた。

「愁陽さまは、いつも真っすぐでいらっしゃるじゃないですか。武将としての判断は素早く、遠く広い目をお持ちで優れていらっしゃる。どんな時も皆の先頭に立ち、勝利へと導いていかれる。公平で曲がったことが嫌いで、いつも前を向いて進んでゆかれるから、皆もついてゆけるのだと、老将も仰ってました」


清らかな水面を静かに見つめながら聞いていた愁陽は、ふっと小さく自嘲し吐息を零した。

「武人として誉められても、あまり嬉しくはないな」


そして顔をあげると、マルをまっすぐに見る。

「なぁマル。俺は……、生きることにひどく辛い時があるよ。……お前も、あるか?」


マルは光を受けて輝いている蜂蜜色のまあるい目を、さらにいっそう大きくして言った。

「あったりまえじゃないですかぁ!そりゃあ、ありますよ!お腹が空いてるのに、食べ物がない時なんか、ほんと辛くなってきますよね」


「…………食べ物、ねぇ……」

意外な解答だった。


「生きることはもっと素朴なことなのに、人間って欲張りです」

「ハハ……そう言われると辛いな」

「でもね、愁陽さま。ひどく辛い時もあれば、とても嬉しい時も同じくらいあります。本当は、もっとそれ以上にあるかもしれない。だけど不思議で、辛い気持ちはハッキリ感じるのに、嬉しい気持ちは笑ってる間にサラサラ~て流れていっちゃうんですよ。だから、いま幸せだよねッ!って感じるの、忘れちゃうことあります。よぉく見れば、ちっちゃな幸せも、いっぱい、いっぱいあるのに」


マルの真っ直ぐな言葉が心の中にストンと落ちてくる。


「……マル」

彼の蜂蜜色の瞳は、曇りがなく透き通って綺麗だった。

「お前も、たまにはいいこと言うな」

「ええ~、たまにですかぁ!?」

マルは不服そうに口をとがらせる。ついでにブゥ、ブゥなどと言っている。


「まあ、ボクには難しいことはわかりませんが、人間とは、ときに面倒臭くってややこしい生き物だと思います。だから愁陽さまが愛麗さまを想って、なぜ素直になれないと仰るのか解からないですけど、でも、愁陽さまは愁陽さまなんです」


俺は……


国の第一後継者としてではなく、一人の男として、素直になってもよいのだろうか。


そんな簡単なことのように思える考えを、忘れていた。

婚礼の決まった姫君に言うのは困らせるだけかも知れない、もう遅いかも知れない、だが皇子としてではなく、一人の男として伝えてもよいのだろうか。

それは二人にとって、伝えなければいけないことのようにも思える。


「あ、そういえば、愁陽さまはボクのお昼寝の場所に似ています」


「は?」

唐突なマルの発言に、現実に引き戻された。

「昼寝の場所って……」

「緑の木々の間から、お日様の光がこう、ぱあぁーっと差し込んできて、あったかくて、やわらかい草の上で眠るんです。そりゃあ、もう、最高に気持ちの良い場所なんです。愁陽さまは、そのボクが大好きな場所に似ています!」

マルはなぜか得意げに胸を張って言う。


「なんだかね~、それって、誉められているのだろうか…」

「もちろんですよっ!」

「そっか。それは嬉しいな」

「ふふん」

「お前と話していると、いつも元気を貰えるな」

愁陽の口元にも笑みが浮かんだ。


そのとき、水面に浮いたままの浮きがピクピクと動いた。

「あ!愁陽さま!」

「よしっ」

しなる釣り竿を引くと、虹色に光る魚が水しぶきをあげる。

「わあ~い!晩御飯~!!」

両手をあげて喜ぶマルと愁陽も手を合わせ打つ。


「……ねえ、愁陽さま。愛麗さまはちっちゃくても、幸せを感じることがあるのでしょうか」


愁陽は愛麗の笑った顔を思い出す。屋敷の奥に閉じこめられる姫君のような、作られた笑顔を見せる彼女の幸せとは何だろう。小さくても幸せを感じられているのだろうか。


「……そうだな」

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