第16話 婚礼

それから二日後、愁陽は遠征での報告書類や新たに領土となった土地の政策など、次期王の後継者としてやらねばならないことも多く、宮廷で溜まった仕事に追われていたが、睡眠も削り何とか片付けると、ようやく一人で愛麗の屋敷を訪れていた。


書類を前にピリピリと張りつめた空気の中で、その形相は修羅のごとくと言われながらも仕事をさばいてく愁陽を、宮中の年老いた相たちは「ご立派になった」と喜んでいた。感激のあまり涙ぐむ者までいたそうだが、書類の山を片付けるや否や、サッサと飛び出して行ったことを知ると「ああ、やはりお変わりない」と落胆した。


今日は愁陽一人で出掛けたのだが、いつも隣りにいることが多いマルはというと、主人の計らいで久しぶりに郷里の山へ戻り、家族とともに過ごしていた。マルも多くの兄弟に囲まれて楽しんでいることだろう。


愁陽は先日愛麗と再会した時よりも軽装で、太陽の光に透くような薄い水色の衣を身につけた姿は、一層爽やかさを増し整った容姿を際立たせていた。


愛麗の部屋まで案内する侍女が、先客がいるがその客人が気になさらなくてもよいとのことですので……と少し上ずった声で説明した。

彼より幾つか年上のようだが、侍女の頬は少し紅潮している。

部屋の前まで案内し終えると、名残惜しそうに去っていった。


愁陽は侍女に礼を言うと、心の中で溜息をついた。子供の頃は侍女の案内など関係なく、庭先から勝手に入ってきたものだが、今は人を通さなくてはならないとは面倒くさい。自分たちも、もうそんな年頃になったのか……と、あらためて思わせられる。


「愁陽?」

部屋の向こうから、愛麗の可愛らしい声が聞こえた。

ああ、そう言えば、先客がいたのだったな。

愁陽は、かしこまって返事をする。

「ええ」

「どうぞ、入って」

愛麗もかしこまった感じがするのは、客の前だからだろうか。けれど明るい声だ。先日の不安は、気のせいだったのかもしれない。相変わらずおしとやかな姫君のような口調が幼馴染みにはまったく似合わないが。


そんなことを思いながら、先客に失礼のないように愁陽は宮中でしか使わないような上品な微笑を浮かべ、扉を開けた。


「失礼します」

ふと目を上げると、そこに居たのは……。


ここにいるはずのない人物。

そして今、ここで、もっとも会いたくないひと


「げっ……!姉さん!!」

思わず愁陽も後ずさる。


そこには、勝ち誇ったような笑みを浮かべる姉姫、翠蘭が今日も艶やかな存在感を放って、そこに立っていた。

今日はお忍びだからだろう。先日よりは地味な萌黄色の衣を身に纏い、髪飾りも小ぶりで紫色の小さな花をあしらったものだ。

「へえ~~~。あんたもそんな顔ができるようになったとはねえ~」


最悪だ……。

愁陽は視線を逸らし、内心舌打ちした。さっきまでのウキウキした気分が、一気に冷めていく。

そんな愁陽の気も知らず、愛麗はニコニコと嬉しそうだ。

愁陽がこっそり愛麗のほうを盗み見ると、先日、久しぶりに会った日の彼女より元気そうで、煌めく大きな黒い瞳は愛麗らしく見えた。よかった。


「愁陽、約束どおり、また会いに来てくれたのね」

愛麗の声も心なしか弾んで嬉しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。愁陽は素直に嬉しいと思う。

「だって、絶対来いっていうから」

「案外、暇なの?」

「いや、決して暇なわけでは……来ないと怒るっていったじゃないか(愛麗、怒ると怖いんだよ…ゴニョゴニョ)」

もちろん、心の中の声は口に出すのは控える。


「……で、姉さん」

愁陽は姉姫と対峙するように向き合って言う。

「今日は、いったいどのような用事でこちらに?」

翠蘭はとぼけるように腰かけた長椅子の背に深くもたれて長い脚を組む。黒い靴先が萌黄色の下から見える。

地味な服を着ていても、翠蘭は翠蘭だ。相変わらず存在が派手だ、と弟は思う。


「まあ、人聞きの悪い。なにってたまたま下山する用があったから、久しぶりに愛麗の顔を見に来たんじゃない」

おそらく先日、自分が話したことで愛麗の様子を気にして来てくれたのだろう。


「そうなの。翠蘭が面白いという本を持ってきてくれたの!」

見れば、愛麗の胸に一冊の草紙が抱えられていた。

愁陽の目が釘付けになる。

「なんでも武将同士の……」


「わあぁーーーーーー!!姉さんっ!愛麗に何、見せてんだよ!!」

愁陽は飛びつくように、愛麗の手から慌てて草紙を奪い取った。


「かか、彼女に、こんな男同士のっ……の…て、え?……三国志?」

翠蘭がニヤリと笑う。

「そうだけど?遠い国に伝わる、武将たちが派遣を争い建国の礎を築いた物語だけど、何か?」

「私にピッタリな物語なんですって」

「愛麗が男なら、きっと偉大な武将になっただろうと思ってね。……で、アンタは、いったい、本と間違えたのかしら?」

姉はその綺麗な片方の眉をあげ、挑戦的にニヤニヤと弟を見る。


「う……」

絶対、わざと間違えるように仕組んだんだ、絶対。わざと、だ。

「ホ~~ホッホッホ、ぃやらしいんだからぁ」

「え、愁陽はいやらしいの?」

「……なんでもありません……」


姉に負けた感ハンパない。

幼い頃から、何度これを味わってきただろう。一生、彼女に勝てる気がしないと、弟はがっくりと肩を落とした。

こんな姉姫に主従を誓い、長年ずっと側で仕えている羅李はすごいと思う。


愛麗が、ふと窓の外の陽気な日差しに包まれた庭に目を向けて、言った。

「あ~あ。翠蘭も愁陽も来てるんだったら、用事なんてやめちゃおうかなあ」

あ、このあと用事があるんだ……。

確かに今日は仕事を片付けたそのままの勢いで城を飛び出し来たので、特に彼女の都合を聞いていたわけではなかった。


「それは駄目だよ、先約の用を済ませてくれば。俺は待ってるから」

愁陽は笑みを浮かべて言った。

一瞬だけ、なぜか愛麗の表情かおが寂しそうに見えたが、すぐに掻き消し微笑んで答えた。

「そうね。仕方ないから、済ませてくるわ」


今のは何だったのだろう…

愁陽はふと疑問に思ったけれど、訊ねる間もなく愛麗がそのまま戸口へと向かった。

そして部屋を出ようとして、もう一度振り返ると、愁陽の知る彼女の強気な笑みを見せた。


「絶対、待っててよ。もし、帰ったりしたら、ぶん殴るわよ」

冗談とわかってても、思わず顔が引きつる。もはや条件反射だ。

「……わかってるよ」


そして、愛麗が去るとともに、春ののどかな静けさに部屋は包まれた。

いまこの部屋にいるのは、姉と弟だけになった。


「弟」

「はい」

「明るいじゃない」

「そうですね」

「帰ったらぶん殴るって言ってたわよ」

「愛麗らしいですね」

「らしいかどうか、帰ってみれば?」

「いやですよ、昔のままの彼女だったらどうするんですか。恐ろしい……」

「……そうね」


そこで、二人揃って小さな溜息をついた。

庭からは、可愛らしい小鳥の声が楽しげに聞こえる

翠蘭は庭へと目を向けながら、再び長椅子の背に深く凭れて、つまらなさそうに口を開いた。


「……あんた、あの子の用事って、何か知っているの?」

「いいえ?」

「婚礼衣装を決めることよ」


「えっ⁉」


姉は冗談をいっているのだろうか?

また悪戯で自分を騙そうとしているのか。けれど、姉はそんな類の質の悪い嘘はつかない人だ。

冗談なのか⁉いったい誰の婚礼か⁉

怖くて訊ねることが出来なかった。

すべての音が消えて、時が止まった気がした。


一気に口の中が乾いた感じがして、うまく言葉が出てこない。なんとか絞り出した声は掠れていた。


「…………それって……」


「噂で聞いた縁談の話は本当だったわ。もともとは彼女の姉に、幼い頃から決められていた縁談話のようだけど。姉の代わりってことかしらね」


「そん、な……まさか、愛麗が……」


自分の意志を強く持ち、かつて『空になりたい』と笑って話した幼馴染が、そんな婚礼を受け入れるなんて信じられなかった。

愛麗に限って、親同士が決めた家同士の婚礼などあり得ない。信じたくなかった。

何より、愛麗が自分以外の他の男のものになるなど、今まで一度も考えたこともなかった。それは自惚れだと言われても仕方がない。けれど、どこかで愛麗は自分を選ぶと思っていたことを否定できない。

今になって何もしてこなかった自分が情けないし、自惚れに腹が立つ。


彼女に婚礼が決まっても不思議ではない。年頃なのだから、当たり前じゃないか、別に愛麗が早すぎるわけではない。何故、今までこうなることに気づかなかったのだろう。

何やってんだよ、俺はっ……


「……姉さん、婚礼の相手の男は」

「確か、愛麗の姉より十は上って言ってたかしら」

だとしたら、三十近いということだ。李家には跡取りがおらず、愛麗の結婚相手が家に入るのだろう。

「なんでも遠縁にあたる男だそうよ」

翠蘭が口にした男の名を、愁陽は聞いたことがあった。武芸に秀でてなかなかの槍の使い手であり、豪傑で熊みたいな男だ。そんな男がまだ十六歳の愛麗の相手だというのか。


愁陽は俯き唇を噛んだ。

俺は、さっき愛麗になんて言った?婚礼衣装を決めに行くことをやめようかと言った彼女に、予定どおり行くことを勧めてしまった。

あのとき、一瞬彼女の表情が曇ったのは、本当は結婚を望んではいないからではないのか。


翠蘭は話しを続けた。

「あんたが来るまでの彼女は、確かに愛麗らしくなかった。微笑んだまま、お手本のような言葉しか話さない。いかにも大貴族のお姫様って感じで、そこには愛麗はいなかったわ」

翠蘭の奇妙とも思える表現は、それでいて的を得ていると愁陽は思った。自分も遠征から戻り、愛麗に久しぶりに会ったとき、同じようなことを感じたから。


「でも、あんたが来た途端、それまでの彼女が活き活きと変わったわ。まるで別人のよう……いいえ、それが愛麗なんだと思えたわ。それまでが別人なのよ」

翠蘭が組み上げた脚に手をかけ身を乗り出す。そして、上目遣いに挑戦的に愁陽を見る。


「愁陽……あんたなら、彼女を救うことができるかも知れない」

「彼女を、救う?」

「彼女が囚われてる、何かから」


「……囚われている、何か…」

彼女は何に囚われているというのだろう、何を恐れて何に怯えているというのだ。

あまりに彼女の側を長く離れ過ぎていた。もっと早くに気づいて、気にしてやればよかった。

愁陽は横に垂れた掌を握りしめ、地面に視線を落とした。


「いや……俺には、そんな力は、ないですよ…」

「あんただからこそ、解かることがあるはずよ。あんたにしか出来ないことが、きっとね」

翠蘭の言葉に、愁陽はゆっくりと視線をあげる。


「……俺にしか、出来ない……」

彼女は深くゆっくりうなずくと、口端をひきあげた。

高く組んでいた脚を下ろし、すくっと立ち上がると、愁陽の前にゆっくりと歩み寄った。弟の視線を真正面から受け止め、翠蘭もまた、弟の目を真剣にまっすぐに見る。

「愁陽、しっかりなさい」

ポンっと彼の右肩を右手でぽんっと叩いて通り過ぎた。


「じゃ、私は帰るわ」

さっと長く萌黄色衣の袖を翻し戸口へ向かう姉の背に、愁陽は慌てて振り返ると声を掛ける。


「姉さん!帰るって、どちらへ」

翠蘭は振り返り、肩越しに答える。

「あ?さあねえ、もう少し町をぶらっとして、山へ帰るわ」

そう言って部屋を出て行こうとする姉に、愁陽は一歩踏み出して口早に言う。


「待ってください!たまにはウチにも帰られたらどうです?」

「ウチ?」

立ち止まって意外な言葉を聞いたというように聞き返す姉に、愁陽は少し表情を和らげて言った。


「そ。私たちの。母さんは、姉さんの部屋だけは誰にも掃除させず、ご自分がなさってますよ」

翠蘭は僅かに目を瞠った。そしておかしそうに、また嬉しそうに口元に笑みを浮かべる。


「……いつから、キレイ好きになったんだろうね、あの人は」

そう言って、姉は部屋をあとにした。


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