第4話 愛麗の夢 2

夢の中で、愛麗は十六歳の今の自分に戻っていた。


あたたかくて、楽しかった幼い頃の思い出。

なのに、いまは鼻の奥がツンと痛くなって涙が出そうになるのは、なぜだろう。

もう少しあたたかな思い出に浸っていたかったと、夢の中でそう思っている自分がいた。


あの頃、愁陽が隣にいてくれるときは、いつも笑っていた。

十六年間の中で、もっとも幸せだった頃かも知れない。

楽しくて、とても幸せな気持ちで居られたことを思い出す。


いま、彼はどうしているのだろう。

もう随分と久しく会っていない。


どうして会えなくなったのかはあまり覚えていないが、いつの間にか会えない日が続き、その後いつの頃からか気軽に会えなくなってしまった。男と女だというだけで、自由に会うのが難しくなった。

彼はこの国の後継者で、自分は貴族の娘で。

身分や互いの立場なども考えると、自分たちの気持ちだけで、幼い頃のように気軽に会うことは出来なくなっていった。


そのうちお互い成長して、愁陽は武将として辺境の地へ赴き、もうずいぶんと長く月日が過ぎる。自分はというと、屋敷の奥で一人静かに過ごすだけの日々。幼い頃のように外へ出ることはなくなった。


……ほんとに、あの空になれたらなら。


そうすれば、再び愁陽に会えるのだろうか……。


愛麗は夢の中で今の自分を思い、そっと目を伏せると小さく諦めの吐息を吐いた。


つぎに長い睫毛を震わせて伏せた目を上げたとき、それまで自分を纏っていた優しくあたたかい空気が一変していた。


どういうこと?


驚いて、キョロキョロとあたりを見回す。


なに、これ。……ここは、どこ?


周囲の景色も空気も温度も、すべてが変わっていた。


自分の住まう屋敷でもなく、王都でもない。

いったい、ここはどこだというのか。今まで見たことのない風景。

ひどく殺風景で色のない世界。いや、そうではなく、色鮮やかな王都の中しか知らない彼女には、なおさらそう見えたのだ。


乾いた世界。何もかも乾いている。地も空も、乾いた土に似たような色。見たことのないような色褪せた空が、地上や自分に重くのしかかってくる。

地と空の境目が、ぼやけてひどく曖昧だ。


そして今、愛麗がいるのは荒涼とした地を眼下に見下ろす小高い岩山。足元には、大きくごつごつとした岩が剥き出しになっている乾いた土。

自分の足元で、その場所にはまったく不釣り合いの薄桃色の上質な長い裾が風に捲れ上がっている。

吹き付けてくる風が冷たく、耳に風音が轟々と煩い。


「ここは……、どこ?」


愛麗の小さなつぶやきは、瞬く間に風の音に飲み込まれていく。

長い黒髪が風に吹かれて頬に煩わしいくらい纏わりつくのを、白くほっそりとした手で押さえつける。

髪は吹き付けてくる風に十分に冷やされて冷たくなっていた。


これは夢?……やけに現実的リアルで、怖い。


砂埃に目を細め、ふと見やると、自分の立つところより少し離れた崖のすぐそばに一人の青年が立っていた。彼は崖の上から眼下に広がる大地を静かに見つめている。その表情には、なんの感情もないように見えた。


土と岩ばかりの荒涼とした景色のなか、その人物は対照的な鮮やかな青の外套マントを身に纏い、その景色と表情とは裏腹に華やかな姿に目を奪われる。均整の取れた長身で背を凛と伸ばし、全身に緊張を纏って静かに立っている。


愛麗は、その男の顔をよく見ようと目を凝らした。

が、すぐに目を見開き息を吞む。


会いたいと思った。その願いが、叶ったのだろうか……


もう何年も会っていないけれど、間違えない。きっと、この青年は……


そのとき荒涼とした色のない大地には不釣り合いな青の外套マントが風に大きく翻る。

少し細身の腰に佩く太刀があらわになった。柄のところに、蒼の王の家のものである証の青い玉と双龍が交差する紋章がはっきりと見えた。


やっぱり愁陽!

最後に会ったのは、確か四年前の春だろうか……。

愁陽が武将として父王の代わりに戦で辺境の地へ赴く前に、一度だけ愛麗の屋敷に会いに来てくれた。けれど、そのときは愛麗の体調が優れず、せっかく来てくれたのに御簾越しに形式張った挨拶を一言二言交わしただけで、それも愛麗は扇で顔を隠していたので、愛麗自身も愁陽の顔をろくに見ていなかった。

あとになって、この日のことを随分と後悔した。


今、目の前に立つ愁陽はずいぶんと背が伸びた。もともと綺麗な顔立ちをしていたけれど、今も見える横顔からだけでも整った顔をしてるのだろうことはわかる。けれど、以前のような少女っぽさでなく、精悍で端正な横顔をしている。


彼の成長ぶりに、場違いにも胸が高鳴るのを愛麗は止められなかった。

けれど……。


愁陽はなぜこんなに辛そうな表情かおをしているのだろう。

彼の、こんな表情かおは見たことがない。

愛麗の顔が曇った。もう一度、あたりに視線を移す。

今、目にしている光景は、今の彼が置かれている状況なのだろうか。


ゴウッと風邪の音がして、その後、耳に唸り声のような風の音が飛び込んでくる。そんな煩い風に混ざって地を這うように怒号も聞こえてきた。見下ろす先に広がる平原は、戦場だった。


土埃の中、多くの兵士や馬、青と黒の旗が入り乱れている。まとまって勢いのまま突き進む青に比べて、黒は散り散りに後退しているようだった。


ここが戦場を見下ろす崖の上であることを愛麗は理解した。

その瞬間、吹き付ける強い風の唸る音に混じって、兵の叫びや怒号、剣やもののぶつかり合う音、馬の鋭いいななき、愛麗が今まで耳にしたことのない様々な音が形となって、すさまじい勢いで耳に飛び込んでくる。


これが、愁陽が見ている景色?


「愁陽さま!」


少年 の、愁陽を呼ぶ声がした。


一人の少年が、こちらに向かってごつごつとした岩も気にすることなく、身軽に岩から岩へピョンピョンと渡りながら、素早く駆け登ってくる。

歳は、十一、二歳といった感じだろうか、ふわりとした銀髪と大きくまあるい蜂蜜色の瞳が印象的だ。この辺りでは見たことのない珍しい髪色と瞳の色だ。


「マルか」

愁陽が少年のほうへ静かに振り向いた。マルと呼ばれた少年は愁陽の傍に駆け寄ると、片膝を地面に付きこうべを垂れた。


「只今、我が軍が敵の砦を打ち破ったとの知らせが入りました」

「……そうか。やったか」

「これで、不落と云われた城が落ちるのも時間の問題でしょう」

「……そうだな。」


愁陽は、微かに吐息を漏らした。勝利が見えたというのに、彼は浮かない顔だ。

むしろ辛そうに見える。


「マル」

「はい」

「敵将に使者をたて、もう一度降伏をお勧めしろ。できるかぎり、無駄な血は流したくない」

「秋陽さま……」


マルは蜂蜜色の瞳で、感情の見えない主の顔をまっすぐに見つめた。感情が見えなくとも、自分の主がどういった人間かはよく解っている。


「御意」


マルは頭を下げて一礼をすると立ち上がり、すばやく身を翻すと駆け登って来た道へ向かおうとして、ふと足を止めた。そしてもう一度振り返り、主へと顔を向ける。


「愁陽さま……このボクが使者となりましょう。そして、必ず、説き伏せてみせます。ですから……」

続きの言葉は、飲む。


風に吹かれた髪が愁陽の顔を隠していて、いま彼がどんな表情かおをしているのかよくわからない。


「……ああ。頼む。」

一呼吸おいて愁陽が低く答えた。


「そして、帰りましょうね!故郷に」

「ああ……そうだな。帰ろう。故郷へ、ともに」

「ハイ!いってまいります!」

マルは元気づけるように明るい笑みを見せ、危なげもなく素早く駆け下りていった。


ふたたび風の音と眼下の怒号が再び耳に響く。あとに残された愁陽は、ゆっくりと戦場の広がる崖のほうへと身体を向けた。故郷では珍しい青の瞳はいつもは光を映す深い泉を思わせるような綺麗な瑠璃色なのに、今は光の届かない湖底のように暗く、ひどく辛そうだ。

愁陽はどんよりとした空を見上げると、小さく息を吐いた。


「……愛麗」


いきなり彼に自分の名を呼ばれて愛麗は驚いた。自分の姿が見えているのかと焦る。けれど、やはり彼には自分のことは見えていないようだ。


「きみは子供の頃、世界を見たいと言っていた。俺は、多くのものを、この目で見てきた。ずいぶん旅をして、こんな遠くまで来たけれど、でも……俺が今まで見てきたものは……きっと、きみが望んでいたものではないのだろうな……」


そう言って、今にも落ちてきそうな色のない空を見上げる彼の横顔は、まるで泣いているようにも見えた。


「きみに会えたとき、俺は何を話せばいい?俺が見たものは、辛く悲しい現実ばかりだ。きっと俺は多くを見てきたかわりに、見たくないものも多く見てきたんだ」


愁陽は小さく息を吐いた。

「そう、見すぎてしまったのかも知れないな……。もし、きみと一緒なら……、それらもまた違って見えたのだろうか」


彼は自分の右の掌を見る。

そこに何が見えているのだろうか。


眉根を寄せる彼の辛そうな表情に、愛麗も強く胸が締め付けられるような気がした。今まで見たことのない幼馴染みの姿に、思わず手を伸ばす。あの幼かった彼が、こんな表情かおをするだなんて。どんな辛い現実を見てきたのだろうか。

だけど彼に彼女の姿は見えていないし、伸ばした手も届くことはなかった。


愁陽には、自分の右の掌が、今も血で真っ赤に染まっているように見えていた。どんなに冷たい水で洗っても、何度も何度も拭っても、決してそれは消えない。

そっと握り締めた手が情けなく震える。震えを止めるように、左手で右手首を押さえる。それでも震えは止まらず、血は消えないのだ。右の拳を左の掌で包み込み握りしめる。

「この戦乱の世は、いつまで続くのだろうか」


彼の言葉はむなしく嘲笑うかのような煩い風にのまれて消えていった。


愁陽は憂いを断ち切るかのように掌を強く握り締め顔をあげると、外套マントを翻し戦場へと向かうため、マルが消えたほうへと歩み出す。


愛麗と愁陽の間に別空間が流れ込むように歪んだかと思うと、愛麗の意識はそこで途切れた。


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