ある晴れた日に

チカチカ

1話完結

ある晴れた日に、私たちは水平線の遠くに一筋の煙が立つのを見る

そしてそのあとに、船が現れる

白い船は港に入り、あいさつをとどろかせる

見える? 彼が来たわ。

でも私は会いに降りてはいかないわ、丘のふもとで座って待つの。


――目を閉じながら私は美しいソプラノの声に聞き入る。よくもまあ、ここまで大きな声を出すことができるものだ、と、歌い手が聞いたら「え、そこ? 」と怒られそうなところに感心してしまう。

 たいしてオペラに興味のない私でも聞いたことがある、プッチーニの「蝶々夫人」のアリア、「ある晴れた日に」。何年か前に、有名な女性フィギュアスケーターがこの曲で滑っていたっけ。

 あのときは歌詞の意味なんて分からなかったので、日本語訳を検索してみた。それを片手にもう一度アリアを巻き戻して再生する。まあ、要するに、長年自分を放っておいた男が「ある晴れた日に」帰ってくるのを夢見る歌ということだろう。どうにも夢見る夢子さんの歌、という気がして、これ以上聴いても私には分からん、そう思って再生を止めた。


 プッチーニやオペラファンには申し訳ないが、私は昔から「蝶々夫人」が嫌いだ。ヒロインの蝶々夫人も、ピンカートンも嫌いだ。

 蝶々夫人は地に足が着いていないというか、現実を見ていないというか、ちょっと考えればアメリカに帰って音沙汰なし、ということは自分は捨てられたということが分かるだろうと思うのに、周囲の言葉に耳を貸さずひたすらピンカートンを待ち続けるという、前向きなんだか後ろ向きなんだかよく分からない恋愛脳。

 ピンカートンに至っては言うまでもない。遊びで現地妻を作って飽きたらポイ。きちんと別れてやればいいものを、それもせずに本国に帰って別の女性と結婚。蝶々夫人に子供がいることを知ってようやく後悔。アホか。後悔するならもっと早くしろ。

 アホの恋愛脳二人よりも、私は本国の妻ケイトと蝶々夫人の子供に同情した。

 急に夫が、実は現地妻との間に子供がいました、その子供を引き取りたいと思います、と言われたケイトの心境やいかに。

「はあ!? 」と言いたかったろう、いや、言ったかもしれない。ついでに部屋に置いてあったランプや花瓶をアホの夫に投げつけたかもしれない。いや、投げつけろ。

 恋愛脳の母ちゃんとアホの父ちゃんに振り回され、あげくの果てに置いていかれた坊やの心境やいかに。ポカーンだろう。物心が付いていない年齢で本当によかった。うん、君ならアメリカで強く生きていけるさ、いや、生きろ。


 いやほんと、プッチーニとファンの方には申し訳ないが、初めて蝶々夫人のストーリーを知った学生時代はそう思った。

 それでも今日は晴れた青空を見ながら、ちゃんと歌詞を理解してアリアを聴こう、そうすれば蝶々夫人の気持ちを理解できるかもしれない、と思ったのだ、思ったのだが――。

 やっぱり無理だ。私には理解できない。

 まあ、蝶々夫人の年齢設定を見て、この若さなら仕方ないかとも思った。当時なら成人扱いだったのかもしれないけれど。


――さて、行くか。

 私はため息をつきながら、車のキーを手に取り、立ち上がった。夫との待ち合わせには十分に間に合う。


――ごめん。君には黙っていたけれど、俺、再婚だったんだ。

  前の妻との間に3歳になる男の子がいる。

  前の妻が、再婚するから、この子を育てられないって、そういって泣くんだ。

  俺が引き取ろうと思う。

  君にも協力してほしい。


 アホ男、いや、夫の顔を思い出してまたムカムカしてきた。その場にあったクッションではなく、皿の一つも投げつけてやればよかった。だめだ、皿がもったいない。

 なんであいつは黙っていたのか。そういう大事なことは結婚前に言っておくべきだろうに。そうすれば私も、いつかそんな日がくるかもしれない、と覚悟できていたかもしれないのに。子供がいたことを知らなかったピンカートンの方がまだマシな気がしてきた。


 あの後、「蝶々夫人」の幕が降りた後、ケイトはどうしたんだろう。坊やのことは大切に育ててあげただろうか。アホな夫と恋愛脳の現地妻に呆れて、せめてこの子は私が立派に育てよう、そう思ってくれたならいいが。とりあえず、今、私はそういう心境だ。


 ――そうして、ある晴れた日に、私は母親になった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある晴れた日に チカチカ @capricorn18birth

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ