第120話・RTB(リターントゥベース)①

 目を開くと、辺りは真っ暗だった。


 腕や足を動かして見るが、空を切った指先に空気の流れすら感じなかった。自分は立っているのか、寝ているのか、それすらはっきりとしない。


 それなのに、どういう訳か沈んでいくような感覚だけはあった。


 何か嫌な予感がする。このままではいけない。戻れなくなる。


 焦燥がレインを駆る。どうにかして自身を取り巻く闇を振り払おうとするが、闇雲に振り回した手足の気配すら感じない。


 自分の存在が曖昧になっていくような、言い表せない不安が段々と彼の上に伸し掛かって来る。それが更にレインを闇の内へ沈み込ませて行く。


(なんか、これマズいんじゃ……!)


 レインは闇の中、叫び声を上げようと口を開いた。が、声が出ない。喉を動かした感触はある。口を開いた感覚もある。しかし、声だけが出ない。声帯が震えない。


 音が、何もない。


 レインは自分が置かれた状況を俯瞰する。音も無く、周りは完全な闇。腕も足を口も、動かした感触しか感じない。脳から発せられた電気信号が動かした四肢を感じる事が出来ない。


 自分の身体の所在が分からなくなり、自身の生存が疑わしくなる。


 魂は? 意識は? ここにある自分が何なのか、常に問いかけていないと存在が掻き消えそうだ。


(俺、死んだのか……?)


 その瞬間、意識を失う前の光景が頭の中でフラッシュバックした。体を浸す冷たい液体。口の中に流れ込んだ塩辛い海水。吐いた息は泡となって海面へ消えた。


 そこから、どうなった?


 誰か、海へ飛び込んだのだけは見えた。あれは誰だったか。確か、随分と親しい間柄の誰かだった気がする。


 親しい間柄? 違う、そんな物じゃない。


 違う。もっと、何か、絶対に忘れられない人、忘れちゃいけないヤツだ。


 何だ? 誰だ? 思い出せ。青みがかったあの髪。左右で色の違う瞳。大人しいように見せかけて、実はかなり生意気なあの性格。


 その瞬間、酷く寂しい感情が押し寄せて来る。怖い。嫌だ。このままじゃ嫌だ。


 恐怖。はっきりとそれが分かる。俺は今とてつもなく怖い。何が怖い? 


 死だ。死ぬ事が怖い。何故? 今まで死を恐れたことなど無かったはず。


 そうじゃない。死そのものが怖いんじゃない。死ぬとあの子にもう会えない。あの子って誰だ? 思い出せ。


 思い出せ。思い出せ、思い出せ!


「……イン!」


 今聞こえた声の主を! 忘れちゃいけないあの子の名前を! 死ぬのが怖くなったのはアイツのせいだ! 


「レイン!」


 あの子一人向こうに置いて行くわけにはいかねぇだろ! さっさと起きろ! 何時までこんな場所で燻ぶってるつもりだ!?


「レイン!」


 俺を呼ぶあの子の名前は、ナギだ! ナギ・エデルガルド・フォン・リットナー!


 俺はまだ、死ぬわけにはいかねぇんだよ!

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