第71話・新生活②

 洗面所から水を叩く音が聞こえてくる。

 レインはトースターがはじき出した自分の分のパンを、コーヒーを注いだマグカップの上に乗せ、顔を洗うナギの方に目をやった。


 ナギの顔には水滴が滴っているが、まだ目は覚めないらしい。半開きの眼でボーっと鏡に映る自分の顔を眺めている。次に何をするかを決めるまでに一瞬の間があり、思い出したように洗面台の上のコップを手に取る。


 靄が掛かった頭で手に取ったのは、彼女のそれの隣に置いてあった、レインのコップの方だった。


 それに水を注いで口に含み、そしてすぐに吐き出した。そのまま右を向き、洗面所から出て、リビングルームに向かおうとする。


 レインは手に持っていたマグカップをコンロの隣に置いて、フラフラとリビングへ進むナギの方へ向かう。彼女の両肩に手を置き、くるりと身体を百八十度回転させ、そのまま洗面所の方へ押し戻した。


「うあ~」


 抵抗する様子を示さずに、ナギは押される方向へ足を動かす。

 

 レインは彼女を再び鏡の前に立たせ、ナギのコップに立っていた歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を付けた。

 隣に置いてあった彼のコップは、飲み口が横を向いて置かれている。


 歯ブラシをナギの右手に持たせ、レインは言う。


「ちゃんと歯を磨きなさい」

「うぃ」


 蚊の鳴くような声でナギは返事をするが、歯ブラシを口の中へ突っ込んだ後、それを左右に動かすことなく、立ったまま、ウトウトと睡魔に屈服しそうになる。


 レインは溜息を付いて、彼女の手から歯ブラシを受け取ると、言った。


「ほら、口開けろ」

「あー」


 気の抜けるような声と共にナギは口を開け、レインは彼女の歯を磨いていく。


(基地に居る時は、こんな感じじゃないと良いんだが……)


 そんな一抹の不安を抱えるレインとは対照的に、ナギは満足げな表情を浮かべている。




 制服に着替えたナギが、レインの正面のテーブルに座った。彼女の前には目玉焼き三つに、大量に盛り付けられたベーコンが山を成している。そのすぐ隣の皿にはトーストが二枚重ねて置かれていた。


 ナギはコーヒーが入ったマグカップを手に取り、二口飲んだ。糊がきき、ピンと伸びた制服をしっかりと着こなしているが、まだ半分寝ぼけているようで、何処か頼りない表情を浮かべている。

 コーヒーのカフェインも、彼女の中の睡魔と依然格闘中の様だった。


 ゆっくりとした動きでトーストを掴み、小さな口へ運ぶ。歯型のついたトーストを元あった位置に戻し、ナイフとフォークを掴んでベーコンを切り分ける。


「次はいつ帰って来るんだっけ?」


 既に自分の分の朝食を半分ほど食べ進めていたレインが言った。ナギはナイフとフォークを動かしながら答える。


「えっとね……」


 彼女は切り分けたベーコンをフォークで刺し、口に運び、数回咀嚼して飲み込んだ。

 

 レインは自分のコーヒーのマグカップを手に取り、それを口に運ぶ。


 時計の秒針が四分の一程進んだとき、視線に気づいたナギがポツリと言った。


「……何か言ったっけ?」


 レインはコーヒーを吹き出し、マグカップの中の液体が音を立てて泡立った。







 

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