第42話・コールサイン『ロードランナー』③

 目の前が暗転し、鼻先に鈍い痛みが奔る。切れた口から血反吐を撒き散らしながら、後ろへ吹き飛ぶ。滝の様に吹き出す真っ赤な鼻血のせいで、呼吸がままならない。


 「おい? どうした? 起きろよ、中尉殿」


 嘲りが混じった声が、情けなく床に倒れ込んだザイツに向かって浴びせられた。何もつけていない上半身には、吹き出した彼自身の血飛沫がそこら中に飛び散り、既に赤黒くこびりついたものまである。

 その痩身には痛々しい青あざが所々に浮かび上がっていて、はれ上がった瞼のせいで、左目は既に開かない。

 

 まだ動く右の瞼を薄く開き、彼は自身の身体を左へ回す。ボディスーツ姿のレーナとカイエが、客車の隅で震えながらボロボロのザイツを見下ろしていた。

 震える足がいう事を聞かず、立つこともままならないようだ。


「おいおい、もう音を上げたのか? なら、少し休憩させてやるよ」


 そう言って、彼をのしたクゥエルの兵士が笑みを浮かべ、その視線を少女二人の方へ持って行く。ザイツとは比べ物にならない程、筋肉の凹凸が目立つそいつの後方には、十数人の取り巻き達が控えていて、皆、いやらしく歪めた顔で目の前のショーを楽しんでいた。


 喧嘩大会。目の前で行われるそれを、クゥエルの連中はそう呼んでいた。


 喧嘩と言ってしまえば、まだ聞こえはいいが、実際は弱そうな捕虜を立たせ、屈強なクゥエル兵士がそれを一方的に痛めつけているだけの催し物だった。

 本質的にはリンチと何ら変わらない。


「おし! 立て、黒いの! 緑髪の中尉はもう無理だとよ!」


 屈強な肉体を晒す兵士ががなりたてる。カイエは震える喉から、弱弱しい蚊の鳴くような声を上げる事しかできなかった。胸に抱いたレーナの啜り泣きと、震える身体が一層恐怖を駆り立てる。


「立てっつってんだよ!」


 クウェル兵が痺れを切らし、側にあった花瓶を彼女等に向かって投げつける。陶器の割れる暴力的な音が、カイエの身体をビクンと大きく揺らした。


 彼女は地面に手を付き、震える足で何とか身を持ち上げようとする。


 その時、ザイツの唸るような声が、微かに響いた。


「……めろッ……」

「あぁ!?」


 クゥエル兵が威圧するような、ガラの悪い声を上げる。ザイツは痣だらけの身体を重々しく引き起こし、フラフラの状態で、曲げた腕を上げ、弱弱しくボクサーの構えを取る。握り拳を顎の下へ持って行くが、既に力が入らないのか、完全に握りこめていない。


「……まだ……終ってない……!」


 血反吐を吐き捨てながら、ザイツは精一杯の虚勢を張った。顔に無理やり笑みを張り付け、目の前のクゥエル兵を対峙する。


「どうした!? かかってこい! お前等の様な下衆共に倒される僕だと思ったか!?」

「ザイツ! もうやめろ!」


 カイエが震える声で叫んだ。


「いいよ……! 私、代わるから……!」

 

 彼女は震える足で立ち上がり、ザイツに懇願する。


「だから、お願いだ! 少し休んで――」

「うるさい!」


 日焼け肌が似合う少女の声を、緑髪の少年は一蹴りし、言った。


「そんな腰の入ってない構えで、戦えるわけないだろう?」


 得意げに言うザイツの構えも、おおよそ戦う者のそれでは無い。が、彼はそう言い切った。


「座っていろ、カイエ。心配は要らない」


 ザイツが言うと、クゥエルの取り巻きからのヤジが飛んだ。神経を逆撫でするような指笛が響き渡り、冷やかしの言葉が彼を挑発する。


「泣かせるねぇ! んじゃ、第五ラウンドだ!」


 眼前のクゥエル兵が拳を打ち合わせると、ザイツはそれに合わせて己を鼓舞するような叫び声を上げる。


 敵が身を半身に引き、大振りの右を振りかぶった、その時だった。


「選手交代だ」


 低く響いた声は、ここに居る誰の物でもなかった。いや、ここに居るはずの無い男の声だったと言っていい。


 その声と共に、ザイツの身体は後ろへ引かれ、彼は再度地面へと倒れ込む。


 斜めになった視界の中、緑髪の少年が見たのは、黒い短髪の、あの不吉なミリタリージャケットに腕を通した、異国の退役兵の姿だった。


  


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