第6話 魔王転生者は、覚醒する

「え、あれ、これって拙い?

 泥水で薬を飲ませたの、駄目だった?!」


 ズズッ……。突如、アーシュラの体が発熱し、膨らみだす。


「えっ? えっ?」


 飛び起きたミルが見守る先で、小柄な小学生くらいだったアーシュラの体があっという間に成人魔族並みに肥大化してしまう。倒れたままでも、身長は百八十センチメートルを超えているように見える。首や肩が隆起し、胸板は厚みを帯び、太ももはミルの胴体と変わらぬ太さ。


「ぐっ……」


 アーシュラはゆっくりと上半身を起こす。その体はいつの間にか制服ではなく、ドラゴンの皮革を死に神の肋骨で補強し破壊神の血を塗ったかのように禍々しい意匠の黒衣に覆われていた。発する言葉からは幼さが消え、大陸に覇を唱える驍猛さがあふれ出る。


「口の中が苦い。ミル、何を飲ませた」


「えっと、アーシュラ?」


 顔つきは精悍になり、髪は炎のように赤く染まっていた。生意気な眼差しだけは面影が残るが、虹彩に黄金の光を宿す。もし変化したのが目の前でなければ、ミルは目の前の青年がアーシュラだと信じることはできなかったかもしれない。


「何故、我は地に座っている」


 アーシュラが立ち上がると、ミルは首を上に向けて見上げなければならなかった。


「む。ミル、何故いきなり小さくなった?」


「アーシュラが大きくなったんだと思う……」


「何を馬鹿な。む……」


 アーシュラは己の手を見つめ体を見下ろすが、特に驚いた様子はない。まるで見慣れた姿であるかのように平然とする。


「全盛期にはおよばぬが魔力が戻っている……。それに合わせて体も変わったようだな。ミルよ、何をした」


「何って……万能薬タブレットを飲ませただけだけど」


 ミルの困惑をよそにアーシュラは首や肩など関節の調子を確認する。


「バルテインの葉と万能薬の成分が妙な反応でもしたのか?

 ん? 意識を失っていた我に錠剤を飲ませるとは。

 まさか……。

 この魔王が、乙女の口づけで復活するなど、まるで勇者ではないか」


「あ、うん。

 別に、口づけとか、そういうのなく、泥水で飲ませたんだけど……」


「くっくっくっ。照れるな。

 口づけは親愛の証であったな。そうか、ミル、貴様、そうか」


「大きくなってもうざいの変わらないんだ……。

 そんなことより、変わったの外見だけ?

 見た目相応に腕力も強くなってるの?」


「それなりにな」


「だったら、さっきの子を助けに戻るよ。痛ッ」


 ミルは先導して駆けだそうとするが、足首が痛み、よろめく。


「無理をするな」


 アーシュラがミルの肩を掴んで体を支える。それから、跪き「見せよ」と口にすると、ミルの靴と靴下が忽然と消えてしまった。履いていた物だけが魔法により超短距離転移したのだ。ミルは右足を持ち上げられた不自然な体勢だが、見えない空気の椅子に座ったかのように、お尻に柔らかい圧力を感じた。


「えっ、ちょっと」


「我は回復魔法は使えんがな。体液には、治癒能力がある」


「ちょっと、汚い、ストップ!」


 アーシュラが腫れ上がった甲に唇を触れる。すると一瞬で腫れは退き、痛みが消える。


「安心しろ。汚くはない。

 今生での母が教育熱心でな。きちんと歯磨きをするように躾けられている」


「えっと、そうじゃなくて……」


 アーシュラが足から手を離したので、ミルは裸足のまま地につくわけにもいかず片足立ちしようとするが、いつの間にか靴を履いている。アーシュラが再び超短距離転移魔法を使ったのだ。


「これ、どうやったの……」


「貴様等が魔法と呼ぶ力だ。何も変わるまい」


「物体の瞬間移動? 聞いたことないんだけど」


 人類が使う魔法は単純にいえば、自然界で起こりうる自然現象の再現だ。自身の体内や、自然界に存在する魔素を操って、炎や風を作る。もちろん、靴下の脱着は自然現象ではない。アーシュラが実演したことは、ミルが学校で習う魔法の常識では、ありえないことであった。


「ねえ、魔王の転生って、もしかして、本当なの?」


「信じていなかったのか。ちょうど良い」


 アーシュラが視線を向ける先、地面の複数箇所が隆起し、ジャイアントワームの群が這いでてきた。長大なモンスターが空を覆うようにして陽を遮り、地表にできた無数の溝に黒い影を落として、さながら出口のない立体迷路のような障害となった。


「この程度の小物をいくら屠っても我が魔王たる証明にはならんが、見ておれ」


「待って。さっきの子供、まだ生きているかもしれないんだよ」


 ミルはアーシュラの前に周り両手を広げて攻撃を制止する。アーシュラは自分より小さい位置にある頭に手を乗せ、撫でる。


「問題ない。見ていろ。

 ……不遜な下等生物に魔王アーシュラが命じる。表裏反転し爆ぜよ」


 ただ、呟いただけ。世の魔法使い達が、魔法発動前にするような呪文の詠唱や、魔力の集中や精神統一など、何もなかった。


 バシュンッ!


 水が一瞬で沸騰したかのような音が弾け、ミルが目撃したのは赤黒い靄が広がる瞬間。見えないミキサーに巻き込まれたかのように、ジャイアントワームがすべて液状になるまで細かく粉砕されて散ったのだ。残ったのは、地に落ちた臭いドロッとした液体、そして、一人の子供。


「ふむ。我の言いつけどおり、目と口を閉じ、耐えきったか」


「え? さっきの子……」


「貴様、我がガキを囮にしたと本気で思っていたのか」


「それは……」


「ワームに押しつぶされるくらいなら、体内に隠れている方が安全だ」


「消化されてたらどうするのよ」


「制服の魔法コーティングはそれなりの防御力があるだろう。

 食われたからといって、すぐには溶けん。

 さっき丸呑みにされた我が保証する。

 ただ、臭くてヌルヌルするだけだ」


「うっ……」


「なぜ泣く」


「ごめん、なんか安心したら……。

 ごめん。アーシュラのこと誤解してた……。

 小さい子を犠牲にする人でなしだって……」


「貴様、我を何だと思っている。

 現在の我は魔王の転生体ではあるが、母親の腹から生まれた人間だぞ。

 同族を見殺しにはせん」


「ううっ……」


「怒ったり泣いたり忙しい奴だ。

 まあ、そこが貴様の魅力だろう。

 我は貴様のそういうところが好きだ」


「……っ。馬鹿。

 いったい、どういう意味で言っているの?!」


 好きだと言われてしまえば、その言葉に込められた熱とは関係なく、年頃のミルは頬の紅潮を押さえられない。


「母がな。気になる女ができたら口説けと言っていたからな。実践している」


「なっ」


 突然の告白にミルは弾かれ、利き手を胸の前に持ってくる防御姿勢で仰け反り、アーシュラから距離を取る。


「からかうと反応が可愛いな」


「おっ、女の子に、気軽に可愛いって言うの禁止!」


 ミルは心臓が高鳴ってしまったし顔が熱くて、アーシュラのことを意識してしまった。だが、逆にアーシュラの方は「好き」という言葉の重みが違うらしく、平然とした顔をしているから、面白くない。


「ていっ!」


 ミルはアーシュラの脹ら脛に八つ当たりのローキックを入れた。しかし体格差があり、アーシュラは微塵も揺るがない。


「ていっ! ていっ!」


「やめよ。地味にダメージが入っている。

 魔王の防御力を貫通するとは、貴様、靴に聖剣の破片でも仕込んでいるのか」


「頭叩きたいから元の大きさに戻って!」


「どういう理不尽だ。

 力を取り戻したのだから、我にはやらねばならんことが――」


 眼光の虹彩が怪しく輝き、ポムンッ。間抜けな音が鳴って、アーシュラが元のサイズに戻る。服も元通りになっていたため、ミルはうぶな悲鳴をあげずにすんだ。


「む」


「え?」


 アーシュラは両手や体に視線を落とし、目を白黒させる。


「ミル。何をした」


「何もしてないよ?」


「貴様が元の大きさに戻れと言ったから戻ってしまったではないか!」


「偶然でしょ」


「魔力も消えているではないか。戻せ!」


「やり方、知らないよ?!」


 生意気な少年に戻ったツンツン黒髪のアーシュラは八重歯を顕わに大声を張り、負けじとミルも広いおでこの下で眉を逆立て青銀色の瞳を細める。二人がきゃいきゃいと言い合いをするのは、ジャイアントワームの群を倒して、気が緩んだ反動だ。その姿を、数百メートル離れた植物園の管理事務所の屋上から見ている者がいる。その者の視力は二人の表情まで、はっきりと見てとる。


「一時的にとはいえ、アーシュラ様が力の一部を取り戻された?

 勇者の娘の涙を口にして元の姿に戻るなど、

 人間どもが好むおとぎ話ではありませんか。

 それとも、涙は無関係で、植物と万能薬の成分が反応した?」


 無表情じと目のままヴリトラは角の生えた頭を傾げる。


「後で植物の成分を分析するとして、

 勇者の娘の唾液も採取する必要がありますね。ん?」


 予備動作なしで神速の跳躍。植物園にある最も高い木に飛び移る。直前で魔法による急停止をしているため、木は微塵も揺れない。


「何者かの気配を感じたのですが、誰も居ませんね。

 気のせいでしょうか。

 ……これは」


 枝に白い羽根が一つ引っかかっている。


「鳥? まさか神族? 人間が造った箱庭の中に?」


 周囲の気配を探ってみるが、何も見つからない。学園都市には二千を超える学生がいるため、神族固有の魔力を識別することはできなかった。


「ふむ……」


 ヴリトラは学園都市の中央に振り向く。

 半球状の都市内で頂点に位置にする、最も高い尖塔。そこにはかつて魔王を討伐した勇者アルトール・キーラライト学園都市長の執務室がある。


「私が傍に控えている以上、

 神族や勇者は手出ししてこないとは思いますが……。

 一応、警戒はしておきますか」


 ヴリトラは尖塔から視線を外し、さらに先へ向ける。二つの塔が天高くそびえている。それは、移動型学園都市ヴィーグリーズが一ヶ月かけて辿り着いた地に立つ二つの塔。


 ヴィーグリーズとは学園都市の名前であり、神魔時代に創られた移動拠点型生物兵器の名でもある。学園都市は、山脈のごとき巨大な亀の背に造られており、高いところで標高六百メートルを超える。その位置からでさえ見上げる二本の塔。元々は一つの塔だったが、半ばから折れ、上半分が逆さまになって地面に突き刺さったものだ。

 学園都市は、『神至の塔』と名付けられた塔を元の姿に戻すために、現地点へと移動してきた。


 ヴリトラはかつて、その瞳に塔が折れる瞬間の光景を映した。塔が半ばから二分され、上半分が地面を貫いた理由を知っている。ヴリトラとアーシュラが学園に来た目的も、その塔にある。

 不意に、地面が僅かに揺れた。

 学園都市は現在停止状態なので、本来なら移動による揺れは発生しないはずだ。だが、地震自体は移動型学園都市に住む者にとっては慣れていることなので、誰も気にしない。


 ヴリトラは視線を植物園へと落とす。

 お互いに頬をつまんで左右に引っ張って、何やら言い争っているようだが、仲よくじゃれあっているようにしか見えない。

 胸がチクリと痛む。


「アーシュラ様。胸が痛いです……」


 木の上に立つヴリトラの表情が歪む瞬間を見る者はいない。切なげに瞼は細められ、口は次の言葉を紡ごうとして開きかける。

 ヴリトラは遠くに小さく見えるアーシュラを掴もうと、幼子のように小ぶりな手を伸ばす。 両者の間には隔たりがあるため当然、手は届かない。


「貴方に貫かれた胸の痛みが、日ごとに強くなっています。

 アーシュラ様……」


 瞼を閉じ、空を仰ぐ。太陽の温もりが瞼越しに瞳の奥へと浸透する。

 数秒の沈黙。


「さて」


 瞼を開けばいつもの無表情じと目。

 ヴリトラはアーシュラとミルをからかうために、二人の方へと跳ぶ。

 ヴリトラの胸を刺す痛み、それは、学園都市を襲う災厄の予兆でもあった。




◇ あとがき


ここで第一章の終わりです。

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