"コキノ"
慌てて二階へ戻り、長羽織を持ち出し寝間着のまま外へ出た。
本来ならば、俺も魔女には会いたくない。
ただ、平穏に日々を暮らしたいだけ。
伝承ごとの真実かもわからぬ言い伝えには、魔女というものは人を惑わし、言葉巧みに操り、こちらの意思すらねじ曲げて使役するという。
そうなったのなら、自分は抗えるのだろうか。戦う術はあるのか。
なにも持たざるただの人はこの身。
よくわからない魔法というものにそれで立ち向かうなら、それは空虚だろう。
森の中を走ってゆくと、見たことのないうねった枝枝が四方に伸びていて、生きているような捻れ方で、木の上には無数の光る目がこちらを監視して、走るほうにと動いているのがわかる。
なんだ、これは。
空から、大きな雫が落ちてきた。
きらりと、不純物が混じっているように、ざらざらしたものが水溜まりとして形成される。雨ではない。少し粘り気のある液体。
月を見上げると、そこから落ちてきている。
うそだ。
月が近い。
うそだ。
月から何滴も雫が落ちてくる。
とにかく夜の森を駆ける。
地上に這う木の根を避けながら、
無数の光る目を掻い潜りながら、
島の中央までようやくたどり着いた。
森が空洞化していて、あったはずの木々は移動したようにズレている。
地面は平らにならしてあり、夜空が抜けてみえた。
夜の色がさめて、その空間は薄明かりになっていた。
時間は経っていないはず、
家を出たのが午後8時だからだ。
まだ夜はこれからだ。
おかしい。
森の奥からなにやら裸の人がのろのろと歩いてきた。
歩き方がぎこちない。
それを見た刹那、走った。
裸の人に近づいてゆき、
「コキノ!」
咄嗟に自分の長羽織で体を覆わせる。
「ねぇ、君、みてよ! 私は人の形を得たのだ、これで私はアリスに並んで立つにふさわしい姿に近づいたのだ! 」
羽織の中から、手足を交互に差し出して、見てくれと言う。
嗚呼、俺こそ、変化を望まない愚鈍だ。
「このくだらない世界は私の思うままに!
アリスにふさわしい私!」
コキノはひきつった顔で笑っている。
「アリスなんて」と言うと同時に
「君! 君にアリスの名前を呼んでほしくない、私がアリスの伴侶足り得る者として生まれた、だから人間として器を得た。
金輪際、私のアリスに口出しはしないでいただきたい。私の、私のアリスなのだ」
次に言おうとした言葉は、仕舞うことになった。
アリスなんて、いるはずがないだろう。
だがしかし、絶対にいないともいえない。
毛玉の白兎が人間になったという摩訶不思議な現象が起こりうるのだから。
理屈は理解しがたいし、根拠もないが元に戻ることがなくなってしまった事実を受け入れるほかないのだった。
嗚呼、世界が変わった。
「明日から私は王家に仕えることにした。衣服は賜るから心配に及ばない。もちろん日常では君の衣服に頼ろう。新しく作りなおしてくれないか」
「阿呆」
言いたいことは山ほどあるが、言葉にならなかった。自分の臆病さと、コキノの身勝手さに手が震える。
魔女の家に戻るにしても、もうすべて取り戻すことはできないことは理解していた。
共に家に戻り、いつものように食事をした。だいぶ夜更けの晩飯だった。
いつものように、夜を過ごしたが、眠ることはできず朝がくるのを目を瞑りながらまちぼうけた。
目覚まし時計が鳴った。
だがしかし、窓から光が差し込んでこない。
時間はたしかに、午前7時。
曇り空にしては暗すぎる。
一階に降りて、図体のでかくなった兎だった者を起こした。
今までの寝床から四肢がはみ出て、寝づらそうだ。
寝床の側に座り、耳元で囁いた。
「朝だ」
「んん、朝? 」
寝巻きを自分のものを貸したのだが、体のサイズはふた回りくらい小さく、衣服が有り余っている。
電灯の光に透けて、赤い瞳がチラチラと輝く。頬は血が透けるような白さで、髪は光沢が少ないキナリに近い白の毛で、ふわふわとした元の造形を残していた。
彼の幼い顔立ちは平坦だが、丸い目つき、赤い唇が美しく見える。
顔を覗きこんでいるうちに、やがてやわらかな頬を撫でるように左手が触れていた。
体の奥から、その赤の瞳を目掛けて、なにかが湧きあがってくるような気配を感じる。
それがなにかわからないが、その目から視線を外すことができない。
「なにを呆けている」
「…解を探している」
「おかしなやつだ」
「……貴様もな」
抗えない根元的な事象を求めている、と感じた。
人はこの國にあまた住んでいるが、こんなにも気にかかる存在に出逢ったことがない。
「今日は新しい衣服の布を調達しに。
共に来るか」
「無論。ただし午前は宮殿へ挨拶に向かう。午前9時半には家を出て、午後にはお暇をいただくことにしている。王には伝達鳩を遣ってるから心配ない」
「そうか」
はじめての朝食を共にし、取り急ぎ仮に誂えたオリエントの着物を羽織らせ、中には白の襯衣と洋袴と、簡易的であるが宮中好みでありそうな着合わせにした。
仮なので、サイズは全く合っていないのが口惜しい。洋袴は革の胴締を二重に巻いて、上の襯衣は背中で繰り寄せて、かなり窮屈に腹部周辺を固定している。
身支度を手伝っている間も、靄からチラチラと強い光が射すのと似た刺激がなにやら気持ちが落ち着かない。
これは気持ちなのだろうか、それとも体調の崩れなのだろうか。
コキノのことばかり案じてしまう。
他人に興味など持ったことがないのに、どうしたものか。
彼に触れたい、というこの気持ちを形容できる言葉を持っていない。
深くため息をついた。
不明瞭というものはずいぶん不快感がある。
彼の身なりを整え、提灯を持たせると宮殿へ送り出した。
午前9時。
外はいまだに夜中のように暗く、かといって雨や雷の予兆があるわけではない。
この時点においては、世界が狂ってしまったことをまだ理解しきれていなかった。
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