"What's the matter?"
「金はあるのか。タダではやれない」
さては物乞いかと思い、さっさと話を終わらせようと、わざとらしく睨んだ。
向こうは一瞬怯んだ様子で耳をぺたんと下げた。
しかしながら、もう一度俺の目を見つめた。
「ここへきたのは、服を着て、西の森に棲まうという魔女のもとへとゆくためのだ。私は人間になりたい」
「魔女に…。お前にはなんの義理もないが、やめておけ。魔女にまともな奴はいない」
「金はたしかにない。それならなにか労働をさせてくれ。それでどうにかならぬか。服がなければ人間にはなれない」
「人間という体に固持しているようだが、期待するほど良くもない。兎よりかはいくぶん生きるくらいだ」
問答の間も、ずっと目を見つめて離さない。
「それでも、それでも…」
「なんでもといふのか」
兎は激しく頭を縦に二回振った。
退屈しのぎにはよいだろうか。
そんな気持ちに徐々になっていた。
「家事を手伝え。服誂えがたて込んでいて、できるだけ無駄なことをしたくない。できるか」
兎は大きな声で2つ返事をして俺の手をぎゅっと握ってきた。
なんとまぁ、厚みのある手なのだろう。
ごわごわした毛の生えた甲と、皮目の掌というべきか肉の部分のぬくもりよ。
兎はコキノと名乗った。
住み込みで働くといって聞かない兎は、勝手に一階に"寝床"を儲けて、一日中忙しなくしている。
なにができるわけでもない。
それが歯がゆいのか、なにもないところでただ縦に跳躍するのである。
床がそのたびに軋むので、気が気でなく、その度に注意をする。
退屈は凌げるが、余計な感情に振り回される。
裁縫などを丸1日あきらめて、掃除や洗濯、料理など細やかに教えた。
一度で覚えやしないと思っていたが、掃除などは丁寧にやるようで非常に助かった。
食事の仕度は指の形状と膨らみの高低差により、握る動作がしづらいようだ。
食事を定時に食べるわけではなかったので、結果的に自分で準備をした。そのほうが効率がよかったからである。
つぎに、言葉を覚えたいというので、-言い出すとずっとそのことばかり話すため、こちらが根負けをする- 合間をみて、朝や夜の寝る前に簡単な本を読んでやることにした。
単語が載っているだけのものと、異国のことが描いてある歴史書や物語をその日の気分で読んでやる。
細かいことは説明しない。そのために単語の本がある。
朝の読書は自分にとっても、内向的気分の発散の場となり、作業に対する気持ちが少しだけ高揚するのを感じた。
月日が流れた。
とある日の朝、「不思議の国のアリス」という本を読んだ。
「 それは黄金の昼下がり… 」
子供向けであるし不思議な話なのでおもしろいかと思い、いつもより大げさに演技するように読んだ。
「おうちのまえの木の下には、テーブルが出ていました。そして三月うさぎと帽子屋さんが、そこでお茶してます。ヤマネがそのあいだで、ぐっすりねてました。二人はそれをクッションがわりにつかって、ひじをヤマネにのせてその頭ごしにしゃべっています。「ヤマネはすごくいごこちわるそう。でも、ねてるから、気にしないか」とアリスは思いました。」
読みすすめてゆくと、突如コキノは耳をぴんと立てた。
「これだ!」
そう叫んで、本の一文を指さした。
「これは私たちだ!」
それは、兎と帽子屋が茶会をしているところであった。
「ああ、ようやく理解できた。
両親が人間によって食肉にされたにも関わらず、この私は人間にならないととぼんやり思っていたのが、ハッキリとなにもかも見えるようになった。
私はアリスに逢うために人間になる。急がねばならない。明日にでもアリスが来てしまうかもしれない」
突然、椅子から飛び降りたかと思えば、椅子の上に立ち、その上でぴょんぴょんと跳ねた。椅子は壊れそうな軋み方をしている。
そこから無理やり引きおろして、なんのことか問い詰めてみたものの、コキノは目が空を捉え、なにか見えないものの力で拘束されたように、何度も同じ言葉を話す。
俺の声は上澄みのみを汲み取られ、長い耳奥まで届かないようだった。
夜になり、いつものように湯浴みを済ませ、様子を伺いに一階に降りてみると、兎の姿はない。
「コキノ」
返事はない。静かで、誰もいない。
寝床も空であった。
まさか。俺の見立てが甘かった。
魔女のもとへと行ったに違いない。
なにを根拠に!
なにを理想として!
こんな浅ましい人間風情になろうというのか。
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