第17話
俺はピンセットで摘ままれたタールの欠片に見入った。白い霜のようなものに包まれているが、確かに真っ黒だ。そこだけ光が差していない。いや、その空間だけ真っ黒に塗りつぶされている、というべきか。
まあ、これだけカチコチにされていれば脅威ではなさそうだが。
俺が拳銃を下ろそうとすると、こつん、と背中を小突かれた。
「なんだよ、フィーネ?」
「油断大敵にゃ、イサム。こいつは未知の物質だにゃ、凍らせたくらいで危険性がなくなったとは言い切れないにゃ」
「フィーネの言う通りですわ。こういう時にこそ、緊張感はつきものですもの」
「そ、そうだな。悪い」
俺は銃口をピンセットの先に戻した。
「では、低圧高温機で解凍を致しますわね」
いつになく真剣な眼差しで、キュリアンが告げる。
一昔前の電子レンジのような機械に、タールの破片をそっと置いて起動させる。
「このまま三十秒ほどで、解凍の第一段階は終了――」
と、キュリアンが言いかけた、その時だった。ばごん、と空気を震わせて、何かが医務室中を飛び回り始めた。
「なっ、なんなのにゃ⁉」
「タールの破片だ! 溶けて動き出しやがった!」
しかしその動きは、俺たちが昼間、地上で見かけたものと同種の物体とは思えなかった。床やら壁やら天井やら、滅茶苦茶に跳ねまわっている。まるでゴム毬のようだ。
「二人共伏せろ! 畜生が!」
俺はなんとか狙いを定めようとするが、流石にこんな的を相手にした射撃訓練は積んでいない。それに跳弾の危険がある。広いと言っても、ここは密閉空間だ。発砲してもし外れたら危険すぎる。
「くっ……」
俺が奥歯を噛み締めていると、ぎゅるり、とタールがその軌道を不可解に変えた。
「何だ⁉」
と声を発する頃には、タールは一直線に向かっていた。フィーネの手首に。
「にゃにゃ⁉ にゃんだこれは⁉」
「振り払え! 腕を振り回すんだ、フィーネ!」
「むにゃっ!」
何をする気なんだ、タールは? いや、それよりフィーネに害は及んでいないのか?
これほど『撃ちたくても撃てない』という状況に陥ったことは未だかつてない。
「野郎!」
俺は拳銃を放り捨て、フィーネのそばに屈み込んだ。こうなったら、素手ででもむしり取ってやる。
そう思って腕を伸ばしたが、俺は慌ててそれを引っ込めることになった。
「うっ!」
灼熱感を覚えて見てみると、細くて赤い線が真っ直ぐに手の甲に走っている。皮膚を切られたらしい。
はっとして目を戻すと、タールの破片から先行偵察機のアームが中途半端に生えていた。
コイツ、まさか偵察機の構造をコピーしてたってのか……?
タールから伸びたアームの先端が、じりじりとフィーネの眉間に近づけられる。
「ま、待て!」
俺の声に、動きを止めるアーム。って、あれ?
「お前、俺たちの言葉が分かるのか?」
すると、アームがくるりとこちらを向いた。それはまるで首肯するかのように揺れている。
「お前は、一体……?」
僅かな沈黙。それを破ったのは、フィーネの悲鳴だった。
アームが溶けて引っ込み、代わりに小型のドリルが形成されたのだ。これも偵察機の装備の一つだ。
俺は自分の腕のことなど構わず、飛びかかろうとした。しかしその手は空を掴む。
フィーネの身体を引きずるようにして、タールが跳躍した。ドリルを医務室の壁に刺し込む。瞬く間に、人間大の穴が空いた。
「待て! フィーネッ!」
「イサム! 皆をよろしく頼むにゃ! あたしの任務は失敗――」
「フィーネッ‼」
俺は飛ぶ勢いで、フィーネの足先を掴んだ。
任務失敗? 皆を頼む? そんなことはどうでもいい。今助けなければならないのは目の前のフィーネだ。
しかし、彼女の細い足はするりと俺の手をすり抜けた。
「ッ!」
慌てて外壁に空いた穴から顔を出す。すると、タールの破片とフィーネは、地面に広がった真っ黒な池、タールの本体に呑み込まれていくところだった。
「う、あ……」
俺はその場に膝をつき、がっくりと項垂れた。
※
「フィーネの生存は絶望的なのか」
「そ、それは……」
「……」
バリーの問いに、言い淀むキュリアン。無言で俯く俺。
高度一千メートルからの自由落下だ。それも、地球とほぼ同じ重力下での。生きている方がおかしいだろう。そう、おかしいんだ。決まってるじゃないか。
俺は危うく、そう喚きながらバリーに飛びかかるところだった。
それを防いだのはリュンの存在だ。流石に仲間が生死不明とあっては、皆で集うべきだと彼女も思ったのだろう。ブリッジに来てくれている。
「取り敢えず、フランキー大佐に報告する。我々の任務中で殉職者が出るのは、極めて稀だからな。皆、いたければここにいてくれ」
そう言って、クリスは艦長席に座ったまま、手元のコンソールを操作した。すっと起立し、皆もそれに倣って背筋を伸ばす。
レーザー回線はすぐに繋がった。
《こちらゼンゾウ・フランキー大佐。どうかしたかね、バリー・ハミルトン大尉?》
「はッ、フランキー大佐。件の惑星探査に向かったのですが……仲間が、フィーネが生死不明となりました」
《それは――残念だ》
「厳密には、惑星探査中のことではありません。惑星に生息していた、液状の敵性生物によって引きずり落とされたのです」
《な、何?》
「大佐、あの惑星には恐るべき生物がいます。即座に調査を中止し、また、接近を回避するよう、軍民問わずあらゆる船舶に要請するよう進言致します。これ以上、犠牲者が出る前に」
《そうか……。それほど危険な星なのだな。うむ。フィーネくんのことは残念だった》
――ん? 待てよ。微かな違和感が、俺を捉える。
フランキー大佐はもっと情に厚いというか、涙もろい性質だったはず。ユメハやキュリアンが嗚咽を堪え、リュンやエリンまでもが落ち込んでいるこの状況を見て、『残念だった』の一言で済ませられるだろうか?
俺が胸中の靄を晴らせないでいるうちに、いつの間にか通信は終了していた。
※
その日の夕飯は実に味気ないものとなった。それはそうだ、ムードメーカーがいないのだから。
リュンは既に整備ドックに戻っており、食堂にいるのは五人だけだ。
俺は敢えて、皆から見えるようにバリーに向き直った。
「なあ」
「……ん?」
「今回の探査任務、妙じゃないか?」
「ああ」
「おい、ちゃんと聞いてくれよバリー。メイドたちはいるわ、宇宙海賊に襲われるわ、タールのいる惑星の調査を命じられるわ。お前、何か聞いてないか?」
「馬鹿! 大事な仲間が消息不明なんだぞ、イサム! 彼女たちのことも考えろ!」
決して示し合わせたわけではない。だが、会話は俺の狙い通りに進んでいた。
ユメハ、フィーネ、リュン、キュリアン、それにエリン。
彼女たちが一体何者なのか。俺はそれを探ろうとしていたのだ。
もちろん、それが残酷なことに繋がってしまうのではないか。それは危惧している。だが、得体のしれない存在を『仲間』と呼べるだろうか?
海賊を容赦なく死傷させたことといい、オペレーション遂行時の迅速さといい、彼女たちは少なくとも普通ではない。
そう思って見ていると、ユメハが俯きながら、肩を震わせていた。泣いているのだろうか。
やはり伏せておくべき事柄なのだろうかと、俺が椅子に座りなおしたその時、
「コホン」
あからさまな空咳が、沈黙を破った。続く声の主は、キュリアン。
「わたくしたち、人間ではありませんの」
「……は?」
唐突な告白に、そしてその意味脈絡のなさに、俺は耳を疑った。
そりゃあ、軍事施設の育ちなんです、とか、実は特殊工作員でした、とか、それなりの返答は予想していた。
しかし、どういう意味だ?
「人間じゃ、ない……?」
俺がそう呟くと、がたん、と派手な音が響き渡った。
ユメハだ。勢いよく立ち上がり、椅子を蹴倒したのだ。
「ちょっと、ユメハ!」
キュリアンが引き留めようとするのに構わず、ユメハは会議室を後にしてしまった。
ドアが封鎖される直前、ユメハが勢いよく腕で目元を拭うのが見えた。
「キュリアン、それ本当?」
「そうですわ、エリン。あなたは幼いから、知らされていなかったのね」
「どういう意味なんだ、キュリアン?」
「そうですわね、どうお話を始めたらよいか……」
冷静に問いを投げたクリスに向かい、キュリアンは指先を顎に当てながら俯いた。
※
元々、キュリアンは自身が人間でないことを知っていた。自分が怪我をして僅かに出血した際、その血が赤ではなく、やや紫がかっているのに気づいたのだ。
静脈血なら、そういうこともあり得る。しかしその血は、あまりにも純粋な紫だった。
既に科学的知識が豊富だったキュリアンは、自らの血液を検査にかけた。そして確信した。自身を構成している遺伝子が、ゲノム編集されたものだと。
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