第27話



 目前で展開された光景は、魔女ヒルダにとって酷く受け入れ難いものでした。


 鏡妖精ラミットに右腕の黒騎士を呼びに行かせたのが、つい三十分ほど前のこと。

 ハービィだか、アルカディオだか知らないが、黒騎士オルランドならとっくの昔に若造を始末しているはず。バスチーユ監獄から黒騎士を呼びよせ、こちらの顔ぶれを更に揺るぎないものとして 生意気なライライの心をへし折ってやれたはずなのに。それなのに、この場で起きた事は期待とまったく真逆の現象ではありませんか。

 増援によって追い詰められたのはむしろヒルダの方でした。


 その男が身につけたものは、片身代わり(左右非対称)な囚人服のズボンと看守から失敬した黒塗りの皮鎧。ヤギをかたどる仮面をつけた銀髪の青年は、魔女にとって地獄から来た悪魔のような存在に思えるのでした。


 ―― なぜ、なぜ、あの小僧が此処に居る? それも、転移の鏡から現れただと?



「ラミット! ラミットぉ! お前、どこにいる? いったい何をした!」

「はいはーい、ここなワケ」



 まるで呼ばれるのを待っていたかのように、ラミットはヒルダの後方でソッとひかえていました。慇懃いんぎんに一礼をするウサギの着ぐるみを身につけた少女。いつもはお道化た笑みを湛える陽気な顔が、その時ばかりは神妙な表情を浮かべていました。

 ヒルダは即座にその小さな肩をつかんで怒鳴るのでした。



「なぜ、お前がアルカディオを連れてくるの? オルランドはどうした?」

「負けちゃったワケ。あのね、オル君も頑張ったんだよ、貴方の為に全身全霊を尽くした。でも及ばなかった。自分の選んだ道が過ちだと認めてしまったから。実力はまあまあ拮抗していたけど、その負い目が僅差の勝敗を分けちゃったの」

「そ、そんなはずが。我々の崇高すうこうな使命をアイツが否定するものか」

「それ、本当に信じてるの? 貴方の人生を台無しにした奴、腐れ毒の君なんかの言うことを。実は気付いているんでしょう? 奴の玩具にされているだけだって」

「なにを言うか、否! あの方は忠実な配下を見捨てはしない」

「この世界は腐りつつあるの、わかるヒルダ? 腐ったリンゴが最後にはどうなるか、考えれば判りそうなものだけど。貴方たちは腐った果実にたかる蠅を目指しているの?」



 図星を指されたせいでしょうか。

 ヒルダは苦悶の面持ちでよろめくも、即座に首を振って居直るのでした。



「五月蠅いぞ、裏切り者! 母の代から付き合いがあったのに。子どもの頃からずっと一緒だったのに! なのに、お前ときたら」

「裏切りなんかじゃない。こうするのがベストだと判断したから、こうしたの。皆にとってそう。あの新しいアルカディオや、ライライ、オル君、そして一番の友達であるヒルダにとって最良だと信じているからこそ、そうしたの」

「ならば、その決断が間違っている! お前はいつもそうだ。面白がって人間の恋愛模様を観察したがる。今度は詩人と英雄の痴情に興味が出てきたのか」

「そこは別に否定しないワケ。ヒルダはいつも他所の恋愛をズタズタに引き裂きたがるものね。昔から言ってるのにさぁ、色恋は人の手をくわえた養殖じゃなくて天然物が最高だって」

「あー、そー、かい! 気紛れな妖精なんぞに期待した私がバカだったよ。ならば、すぐ落胆させてやるからな。あの詩人が歌う絆なんて取るに足らないモノだと実証してやる」


「そーそー、ヒルダ。貴方には私が付いている。昔からずっとね、ネッ!」



 オウムのエメロードがヒルダの肩にとまり、何やらうそぶきました。

 ラミットは何か言いたげに口を開きかけるも、結局は舌打ちに留めるのでした。











 その頃、ハービィは同じ広間の一画で頂天騎士ポオと睨み合っていました。

 たとえポオが天ノ瞳教団の幹部であろうとも、ライライを無慈悲にいたぶっていた事実は決して見逃せません。ハービィはポオに人差し指を突き付けると言ってのけました。



「ナメた真似をしてくれたじゃないか。戦いに私情を持ち込むのは剣士としてあるまじきことだが、もう収まりがつかねーよ。アンタはなぁ、徹底して念入りにブチのめさせてもらうぜ」

「ククク、俺様が頂天騎士でもやるのかい、アルカディオ君。これまでは教団と仲良くやってきたじゃないか」

「例え神様であろうと、彼女にした非道な真似を許すものか! アガタさんや、エンデさんも判ってくれる」

「ケッ、客寄せパンダや文官と一緒にするなよ。奴らなんかと俺様はそもそも所属部門が違う。何と言っても、こちとら天眼さま直属の掃除屋だからな。殺しの技術は天眼さまの直伝。つまり、このポオは神の愛弟子ということよ」

「なに? 天眼さまの弟子? お前のような奴が?」

「まったく、神の名のもとに掃除せねばならない輩が多すぎるのよ、この世には。トキに英雄君、君は人権というものを何だと思っている?」

「はぁ? 人が人らしく生きる権利のことか?」

「その通り。ただし、前に注釈がつく。天ノ瞳教団が人と認めた者に限る、とな」



 ペストマスクのポオは高らかに笑うのでした。

 既に木刀の一撃を頭部に受け、マスクのゴーグルは割れていました。

 そこから覗く血走った瞳。宿った狂気は度し難いものに思えるのでした。

 ポオの説教は尚も止まりません。



「信徒であらずんば人にあらず。搾取さくしゅしか考えぬ国や貴族なんぞ頼りにならん。我らこそが民を守る法であり、魂の倫理なのだ。故になぁ、たとえ国王陛下であろうと、魔女に組し、我らに逆らうのなら容赦はしないのさ」

「いやさ、たとえ思っていても、それを王さま本人の前で言うかね……そこに居るだろうが」

「だからどうした? 居るだけなら雑草にも出来るわ。我々という秩序を乱す者は人でない。逆らう者は、オオカミ、畜生。人狼だ! そんな輩は、家を壊し、名誉を奪い、社会的地位を葬り去り、人里から追放するのがお似合いよ。狼はケダモノらしく森へ帰るが良い。お仲間の魔女が待っているだろうさ」



 これはまだ裁判所などというものが出来るずっと前のお話です。

 民衆は揉め事が起きると善悪の裁定をまず教会のさじ加減に委ねていたのです。

 教会が「三権分立の司法」に該当すると言えば、判りやすいでしょうか。


 週末のミサによって語られる説話こそが絶対であり、民の掟。

 それによって共同体の秩序が維持されているという側面も確かにあったのですが、その反面こうして増長する宗教関係者も少なからず居るのでした。

 国王のイル六世ですら教会に破門されれば、信用と面目を失います。どれほどに目の上のタンコブであろうと司法に口を挟むことは出来ません。

 なんせ全ての民が生まれついて、洗礼を授かるのが当たり前だったのですから。


 王権を上回る絶対の権力。今では考えられないことですが、中世の暗黒時代には教会がそれを有しているのでした。

 ハービィにもようやく相手のイカレ具合を察することが出来たのです。


 ドゥルド族に仮面を授かり、ライライの力を借りてここまで邁進してきたハービィなのですから。森の民にとって怨敵であろうコイツを許すわけにはいきません。


 苦虫を嚙み潰したように口角を引き締めると、ハービィは視野狭窄きょうさくな暴走信者にこう応じました。



「なるほどね、ライライがお前らを嫌っていたわけだ。洗礼を受けていないドゥルド族の異教徒なんか、そもそも人ではないというわけかよ。その考えを改めようとしないなら、共闘もこれまでだ」

「クックック、やはり魔女は人を惑わす者。焼き尽くさねばならん」


「野蛮なことを。それなら俺は人狼の英雄で結構。人の道を捨てず、彼女を守る。共同体の追放? 結構だね。お前たちが作る理想郷などこっちから願い下げだ」

「それを許す天眼さまだと思ったか? くたばれ、人の皮を被りしオオカミ! この畜生ども」



 騎士らしい決闘前の流麗な挨拶あいさつなど一切なし。

 口汚いののしり文句と共に戦いの火ぶたは切って落とされました。


 ポオは両手でメイスの柄を握ると、ゴルフのスイングよろしく頭上へ高々と掲げた武器を足下に叩きつけるのでした。

 砕けた床の敷石はあたかも散弾銃のごとき末広がりを見せ、ハービィ達めがけて飛んできました。背後のライライを庇って仁王立ち、ハービィはそれを迎え撃つ構えでした。木刀の刀身を小刻みに動かし、飛来する破片を受けて弾くこと数回。


 ようやくしのぎ切ったと思いきや、ポオの姿が消えているではありませんか。

 その直後、殺意は上空から降ってきたのです。



「ケェーーッ!」



 カラスめいた絶叫を発しながら、跳躍の勢いそのままに振り下ろされるメイス。武器の先端についたトゲ鉄球がフロア全体をも軋ませたようでした。されどハービィは床を転がって飛翔の一撃を避けており、そこからの反撃を試みるのでした。両者は間合いを詰め、次いで起こるは木刀とメイスがぶつかり合う凄まじい乱打戦。


 ひとたび当たれば骨も砕ける一撃が飛び交う中、ハービィが肌で感じていたのは緊迫よりもむしろある種の戸惑いなのでした。


 ―― 頂天騎士? 天眼さまの弟子? コイツ、言うほどか? 強いことは強いけれど。先の黒騎士に比べたらそこまで……。


 何と言う事でしょう。

 最強との戦いを経てハービィの価値観はすっかり塗り替えられていたのです。


 黒騎士戦で用いた「世界樹の祝福」あの桁外れな肉体強化術も、ラミットの鏡へ飛び込む寸前に新しくかけ直してありました。相手が仮面のクチバシに仕込んだ薬物で筋力を強化していようと、活力みなぎる英雄の膂力りょりょくは決してそれに負け劣るものではありませんでした。

 それに相手の太刀筋はやたらと大振りばかりで、彫像などの調度品や床の敷石を「派手に壊してはいるものの」見切って避けるのは簡単でした。



「隙あり! うぉりゃあ!」



 相手がメイスを空振りした隙をつき、ハービィは逆袈裟の一撃を打ち込みました。

 当たりこそ浅かったものの、ポオは肩に強打をくらい大きくのけぞるのでした。


 しかし、ポオの狂気はそれでも収まるどころか、かえって激しさを増すばかり。

 肩を押さえながらも、彼は不敵に笑うのでした。



「ふん、やるな。だが神の力を見くびるなよ。殺人ソムリエの芸というものは、下準備があってこそ活きるものだ。それはもう『済んだ』のだからな」

「なに?」


「ハービィ、気を付けて! 床の破片が動いている。妙な術が発動してるから!」

「なんだって? うわぁ!」



 ライライの注意喚起に気が向いた時は、もうポオの術中にはまった後でした。

 頂天騎士は全員が天眼さまに与えられた神器を持ち、ポオの場合はそのメイス。

 与えられし神の御業は「それで破壊した物を別の形に作り直す能力」


 メイスで砕かれた敷石のカケラがフワフワと浮き上がり、砂糖に群がるアリのようにハービィの所へ集結しようとしていました。異変を察したハービィは早急にその場を離れようとするも、駆けだそうとした途端に靴の裏で何かを踏み抜いてしまうのでした。


 それはトラバサミと呼ばれる狩猟罠と同じ構造のもの。スイッチを踏むと両側から鋭い刃が噛みついてくる形状で、サメのアゴにも似た拘束具でした。足首を痛め付けると同時に、獲物の動きを封じる働きがありました。勿論、事前に仕掛けられていたわけではなく、ポオが床の残骸でたったいま作り出したものでした。


 動けなくなった所に、瓦礫の破片が殺到するのだからたまりません。

 集まった欠片が次々とハービィの身体に張り付いて、瞬く間に赤茶けた鎧を組み上げていきました。出来上がったのは、騎士が着用する全身鎧を粘土で模倣したかのような出来損ないの代物でした。見栄えは悪く、やたら重い上に関節をろくに曲げることすら出来ないので、この鎧に閉じ込められたままだとロボットみたいにぎこちない動きしか出来ませんでした。

 そこへツカツカとポオが歩み寄り、腹部にメイスを叩きこむのでした。

 悶絶するハービィを蹴り倒し、ポオは享楽のにじみ出る声で言いました。



「見たか、これぞ不名誉の鎧。人狼には相応しい武具というワケだな。姦通かんつうの罪をはたらいた者、お喋りすぎる者には醜い『ガミガミ女の仮面』賭け事でイカサマを働いた者には首から下げる『不道徳の重し』その者が犯した罪を誰の目にも明らかとするのが教育的な『反映刑罰』なのだよ。勉強になったか?」

「本当に悪趣味だな、お前も。お前らの神様も。教会がよくやる、さらし者の見世物は昔から大嫌いだった」

「迷信や妖精が人を惑わせる暗黒の時代。人々を導くのに ある種の残酷さは必須なのだよ、アルカディオ君。これでトドメだ、神に逆らう愚か者! さぁ、天の国へ行くがよい」

「ふざけんなよ! お前らの正しさは誰が保証してくれるって言うんだ。いったい、どこの誰が」

「語るに及ばず。神だ」



 ポオがパチリと指を鳴らせば、ばら撒かれた残りの瓦礫が一斉に動き出しました。

 その様は強力な磁石に引かれる鉄塊のような勢いでした。

 向かった先は動けぬハービィの周囲ではなく、居合わせた全員の頭上。

 広間の天井でした。


 動く石片と見えざる大工がそこで組み上げるのは、天井から床まで届きそうな長い長い鎖。そして、その先に結わえられた「大理石の大玉」でした。


 天井付近に出現した「石の玉」は蓄えられた位置エネルギーを解き放ち、暴力的な振り子運動を開始しました。そのサイズはなんと大人の身長ほどもありました。

 そして、その大玉が向かう先には……言うまでもなく動けないハービィの姿があるのでした。



「ハービィ!」



 破れた服をたすき掛けに結び直して、野性味あふれる姿となったライライは、迫る相棒の危機を見過ごせず飛び出そうとしました。それを遮ったのは空を舞う一匹の小妖精でした。



「危ないから止しなって。必要ないから」

「なっ!? 貴方は誰」

「雨妖精のルカ。アルカディオのお友達だよ。それよりも、アンタの仕事はしっかりと見守る事だからね。全てを見逃さず、記録に残すの。それが詩人の成すべきことでしょ」

「で、でも」

「大丈夫。彼は変わったのよぉ。もうアンタの知っている英雄未満じゃない。誰かの助けなんて必要ないからさ」

「え?」

「見届けなよ。あの仮面を渡すことで、アンタが何を生んだのか」



 ルカの静かな叱責が飛んだ直後、大理石の大玉はハービィを直撃しました。


 位置は支点の真下、聞こえたのは肉と骨のひしゃげる鈍い音。

 質量の暴力が地上を薙ぎ払った後、残されたのは血しぶきと完全な無だけでした。



咎人とがびとよ! せめて、美しい最期を! アーハッハッハ!」



 ロックスターかミケランジェロの彫刻じみたポーズをとってポオは哄笑しました。

 けれど、すぐに彼は思い知らされる事となるのです。

 残心(決して気を抜かないという武道の理念)の心得がいかに重要かを。

 確かにそれは並みの戦士なら即死に足る処刑方法でした。


 けれど「世界樹の祝福」が発動中のアルカディオを倒し切るには、いささか力不足でした。あくまでそれは「人を処する為の罰」でしかありませんでした。


 虫のように大理石の振り子へ張り付いたハービィ。

 致命傷を受けたはずの四肢は、流れ込む世界樹のエナジーによって急速に癒えていくのでした。植物の根に似たものが折れた骨を繋ぎ、破れた血管を塞ぎ、次第に消えていく傷とアザ。


 死ぬことすら許されず、その肉体はやがて動き出すのでした。


 玉の威力によって、トラバサミと不名誉の鎧は粉みじんにされていました。

 意識を取り戻したハービィの行動を阻むモノはもう何もありません。



「やれやれ、まったく。英雄術、ミヅチ」



 指先から飛び出す水の縄は、蛇行しながらも勢いよく、されど静かに振り子から地上へと伸びていきました。しまいに縄が絡みついたのは穹窿きゅうりゅう(アーチ型の天井)を支える窓際の円柱でした。


 ハービィは左手で振り子の鎖を掴みながら、右手では水の縄を引くのでした。

 すると、どういう事になるのか?

 そう、大玉に引力が作用し「振り子運動の軌道」が微量ながら変わるのです。


 地上に立つポオの背中を、ハービィは獲物を狙う鷹の目つきで凝視しました。


 ―― 調整、調整、微調整。よーし、この角度がベスト。



「ハハハ、思い知ったか? どうだ神の鉄槌の味は?」



 ポオは迫る破滅に気付きもせず、オペラ歌手のように天を仰いで高笑いを続けていました。そこへ速やかに打ち下ろされる破壊神の鉄槌。


 これぞまさに、神を語る者へ下される「天罰」でした。


 ハービィが素早くフロアに降り立つのと、ポオが振り子にはね飛ばされるのはまったく同時でした。しかし、そこは頂天の名を許された者の意地がありました。

 あるいは、許されざる技術によって施された肉体改造の結実かもしれません。

 致死の大玉受けてなお、ポオの意識は断ち切られなかったのです。



「ぐぉおおお! この化け物がぁ! 神は負けぬ! 神はぁ!」

「へん、見逃しが多い神だ。随分と迂闊うかつだよなぁ、お前の信じる創造主って奴は」



 立ち上がって吠えるポオを、まずは鋭い罵倒で切り捨てました。

 それからハービィは、天井の間際まで上がった大玉を一瞥するのでした。


 ―― おや、また戻ってくるな。使えそうだ。


 小刻みなサイドステップで立ち位置を整えたら準備完了。

 タイミングを見計らうとハービィは最後の突撃を仕掛けました。


 ポオを仕留めるトドメの一撃は、まさかまさかの前後挟撃となるのでした。振り子がポオの後ろに落ちてくるその瞬間、ハービィは踏み込んで木刀を振りぬきました。



「ゴーカイ流剣技、神速・旋風斬り!」



 英雄術・魔風を併用した突進から、その速度を活かした木刀のフルスイング。

 胴を打ち据えた衝撃は、ポオの身体を貫いて背後の大玉をも砕き切るのでした。

 振り子運動の質量と位置エネルギーすらも上回る剣技の冴え。それは、砕け散った大理石の残骸が見事に物語っていました。


 どれほど強固な意志や信仰があろうとも耐えきれるものではありません。

 最初に予告した通り、とても念入りなフィニッシュブロー。

 ボロ雑巾のような姿となったポオは挟撃に吹き飛ばされ、敷石を大きくズラしながらフロアへと転がるのでした。その傍らには割れたペストマスクが落ちていました。



「お前や、天眼さまとやらには、訊きたい事や、言いたいことが沢山ある。そりゃ、あるけどよ。だがまぁ、今はそこで寝ていろ。今夜はやたら忙しくてな。まだ他に先約があるんだ。なぁ、そうだろう? ミッドナイト・パレードとやら」



 ハービィはそう呟くと、呼吸を整えてから振り返りました。

 


「フゥゥ……さぁ、待たせたな。アンタで最後だぜ。どうする? 魔女ヒルダ」



 英雄が見据える先には、開いた扇で口元を隠した魔女の姿があったのです。




 魔女と英雄の遭遇。

 それは歴史の生き証人を目指す吟遊詩人であるならば、決して見逃せない決定的場面なのでした。けれどそれを傍観するライライの心に去来するのは、興奮や喜びよりも畏怖に近い感情なのでした。胸を締め付けるのは、魂をも震え上がらせる超越者への怖れ。



「なに、あれ? あれがハービィ? 前とはまるで違うじゃない。確かにいま骨が折れて……折れたよね?」

「だから言ったでしょ? 手出し不要だって。仮面の力を極限まで引き出して、バケモンみたいに強くなったんだからさ。それって貴方の望んだことなんでしょ? 詩人さん」

「そんな……私は知らない。あんな力、アルカディオのどの歌にも……」

「なによ、今頃。貴方の英雄が決着をつけようという この土壇場に。ここにきて怖気づいたって言うの?」



 ライライの肩に腰かけて、小妖精のルカは意地悪く笑うのでした。

 うつむきかけたライライは、むしろその挑発を受けて顔を上げました。

 その瞳には揺るぎない決意が漲っていました。



「でも……いいえ、そうね。これは私が始めたこと。私達二人が望んで叶えた夢。ここで怖気づくものですか。英雄の隣に立つ女性として、もう絶対に目を逸らさない」

「あら? あらら?」

「彼のひたむきな努力をずっと見続けてきた。だから、ビビらずに誓う。私は、彼の全てを受け入れる。それは、きっと私にしか出来ないことだから」

「たはっ、負けたわ。あわよくばと思ったけど……アタシの負け負け。付け入る隙なんてまったくなし」

「へぇ?」

「いーから、いーから。もう邪魔しない。詩人さんは前だけ見てなさい」



 熱く心を燃やす詩人とは対照的に、魔女の気持ちは底なしに沈んでいました。

 それはもはや、背水の陣に挑む武将の境地というべきでしょうか。両足は震え、少しでも気を抜けば膝をついて幼子のように泣き出したくなるほど。

 どれほど心細かろうが、盟友の死を無駄にしない為にもヒルダは決して逃げ出すわけにはいきません。それがリーダーの果たすべき務めです。


 透けて見えるのは滅びの美学。女性ながらも悲壮感すら漂う覚悟でした。

 温室で育てられた植物の多くは、毒の水を吸い異形の容姿へと変貌していました。その怪植物たちがヒルダの昂りを表現するかのように魔女の周囲で歪な踊りを披露するのでした。


 ―― ポオが此処に来たという事は……足止めのドンキィも倒れたか。あんな奴でも、居なくなると寂しいものよ。樽爺はどうせ生き延びたのだろうが、フン。あてにするだけ無駄だな!


 ―― 黒騎士オルランドも、もう私を守れない。私は独りぼっち。だから、そう。私がやるしかないんだ。


 それでも魔女の胸中に燃えるのは青い炎のような哀しい怒り。孤独の喪失感や、敵への恐怖よりも、みなぎる復讐心が彼女を突き動かしていました。

 調査隊を派遣した国王や、安寧の日々を過ごす世の中への復讐心です。


 ―― 魔女ヒルダとミッドナイトパレード。これにて全滅寸前か。だが、まだ終わらんぞ。今は考えるな、負けた時のことなど。屈するな、体の震えに。目を見開いて敵をよく見ろ、あの若造の実力を。もし、もしも彼を味方につけることさえ出来れば……失った兵を補って余りあるではないか。間違いなく、前例にない最強の手駒となる!


 ―― それに、成功すればライライや、ラミットへの見せしめにもなるな。これぞ一石二鳥の妙手。ならば! 魔女として、これからやることは一つだぞ、ヒルダ。



「魔女の手練手管を見せてやる。奪ってやるぞ、ぜぇーんぶ! 全部だ!」



 蛇の二枚舌を唇からチロリとのぞかせ、魔女ヒルダは独りほくそ笑みました。

 覚悟の吐露は、あたかも自らを鼓舞するかのようでした。


 ヒルダが背負ったもの。

 あまりに重すぎる宿命こそが、定めの魔女の挑む相手だったのです。


 ある意味でそれは、選ばれた英雄と同じ立場。

 これから始まるのは、不屈の意志を抱く者同士のせめぎ合いなのでした。

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