第28話



 次の相手こそが、国家転覆を目論む敵集団の首魁しゅかいにして最後の一人。

 だが決戦を前にしながら、ハービィは気分の高揚よりも どこか戸惑いを隠せずにいました。


 言うまでもなく、相対するヒルダが女であったからです。

 果たして、平和の為に木刀で殴り倒すことは許される行いでしょうか?


 もし放置すれば、国を亡ぼしかねない魔女だとしても?


 迷える英雄の目前で、ヒルダが口元を覆う扇をパチリと閉じました。

 するとどうでしょう。そこから現れたのは、亀裂の入った頬と剝き出しになった歯茎……ではなく、林檎のようにツルツルのほっぺたではありませんか。


 ―― あれ? 黒騎士やラミットに聞いた話とはだいぶ違うぞ?


 ヒルダは指をスベスベの右頬に押し当てながら、小首を傾げてみせるのでした。



「あら英雄さま、緊張していらっしゃるの? 遠慮はいらないわ。ヒルダって世界を毒沼に沈めようとした悪い子ですもの。これじゃ殴られても仕方がないわね。さぁ、存分にいらっしゃって」

「……??」


「ハービィ!」



 見かねたライライが声を張り上げました。

 ハービィが目を向ければ、彼女は自らのコメカミ辺りを 人差し指で軽く二度ほど叩いていました。あれは二人の間で決めた符丁の一種。

 意味する所は「もっと頭を使え」


 『そいつは嘘をついているぞ、気を付けろ』のサインなのでした。


 いくら朴とつな好青年ハービィだって、このブリッコが魔女の素でない事ぐらいは分かりました。ハービィはうなずいて見せると、気を引き締め直すのでした。

 ヒルダに木刀の先を向け、ハービィは警告がてらの脅しをかけました。



「なんのつもりか知らないが。こっちも必死なんでね。アクドイことを企んでいる奴は身動きも出来ないよう縛り上げるまでだ。これ以上抵抗するなら痛い目にあうのは覚悟しろよ」

「……フン、お優しいこと。殺せる時に、すぐ首をはねれば良いものを」

「なんだと」

「よろしい、アンタの性格は把握できた。このヒルダはお前ほど甘くはない。男に後悔する暇など与えはせぬ。そんな余裕なんて、もう、これぽっちもないんだ! 何もかも お前のせいで!」



 メカクレの前髪からのぞく鋭い眼光。

 その迫力はそれなりに場数を踏んだハービィすらもひるませるものでした。


 ヒルダは扇を投げ捨てると、空いた掌を温室中央の泉へとかざしました。



「ポットよ、来い」



 泉のフチに置かれたティーポットが呼び声に反応し、ふわりと浮き上がりました。空中浮遊を経て主人の手元へと馳せ参じる神器のポット。ヒルダが奇妙な武器を構えると、注ぎ口から紫色の液体が噴き出し、スライムのような滑らかさで毒水が膨張・収縮を繰り返しながら形を変化させていきました。


 地面に流れ落ちもしない謎の表面張力に保護された毒液がかたどったのは阿修羅像を連想させる多腕の戦士。

 なんと八本もある腕にそれぞれ曲刀を握っているではありませんか。『魔法のランプ』の精霊よろしく、阿修羅の下半身は紐状の流水となってポッドの注ぎ口に繋がっています。



「黒騎士なしでも、戦える所を見せてやる」



 遠まわしにハービィをとがめる啖呵たんかと共に、ヒルダは襲いかかってきました。阿修羅の上半身が振るう曲刀はそれぞれが別個に動き、とても足を止めた剣戟けんげきで誤魔化しきれる量ではありませんでした。ハービィが床を転がってどうにか避けると、毒水の刃が広間の柱をバターみたいに易々と切り裂くのでした。しかも、斬られた箇所が毒の成分によって溶け出し、滴る花崗岩が哀れな姿をさらしていました。


 ―― もし斬られたら『世界樹の祝福』でも回復できるかどうか。確かに強いことは強いのだろう。でも、それでも、屈強な上半身を支えているのはやっぱり女性の細腕だ。


 ハービィは度胸を固めると、両腕で木刀を握りしめ相手の懐へと飛び込みました。手数の多さに立ち向かうなら、全ての小技をねじ伏せる圧倒的なパワーこそが最適解。世界樹の祝福で強化された筋力をフル活用してハービィは斬撃をくりだしました。

 床をかすめる切っ先が砂埃を舞い上げたかと思えば、コンパクトなアッパースイングが曲刀を複数交差させた阿修羅の防御姿勢をも容易く打ち抜き、急所を貫き破るのでした。阿修羅の水像はアゴから頭部を瞬く間に打ち砕かれました。



「見たか。ゴーカイ流剣技、地ずり昇月!」



 千ものシズクとなって飛び散った阿修羅像。たとえヒルダがその残骸を操作し、再生できるとしても問題ありません。ハービィの狙いはヒルダの体勢をひとまず崩すことなのですから。


 技の衝撃がポットまで伝わり、ヒルダは腕ごと引っ張られてお手上げ状態でした。

 体幹を鍛えていない魔女では、戦士との接近戦など無茶が過ぎる様子でした。

 ハービィの伸ばした指がそこへ突き付けられ、噴出した水の縄がヒルダの首に絡みつきました。



「英雄術ミズチ! 終わりだ! 締め上げられて気絶するのが嫌なら、降伏しろ」

「……はーん、貴方も水の術を使えるのね。何だか親しみが湧くわ」



 巻き付いた水の縄に片手をかけるとヒルダはせせら笑うのでした。



「まさか! 水の術で勝てるつもりだとはねぇ! この私にィ!」



 直後、ヒルダのとった行動は恐るべきものでした。

 自ら下唇を噛み切ると、紫の鮮血をにじませながらミズチに口づけをしたではありませんか。毒の汚染はあまりにも速やかでした。たちまちの内にミズチの縄は紫へと染まり、己の手元まで迫りくる鮮やかで毒々しい色にハービィは唖然とさせられました。




「なっ、俺の術だぞ!?」

「いいえ、もう私のもの。この縄も、そして貴方自身も」



 魔女は唇の傷をペロリとなめて呟くのでした。

 ヒルダの首から外れた紫色の縄は百八十度首を反転させ、逆にハービィへ襲いかかる毒蛇と化しました。それはあまりにも予想外で突発的な出来事。ハービィに出来た対策といえば首が絞まらないよう腕でガードするのがやっとでした。

 毒蛇はハービィの首回りへ幾重にも巻き付くと、仕舞いに隙だらけの耳へと狙いすませました。スルリと耳の穴から頭の中へ。猛烈な吐き気と嫌悪感を感じたのは一瞬だけ。たちどころに猛毒がハービィの脳へと到達するのでした。



「ククク、有無を言わせず私を殴り殺していれば、こうはならなかったのだぞ? あまり魔女を舐めるなよ、坊や」



 もがき、のたうち、急激に薄れゆく意識の中で、最後に聞こえたのはライライの悲鳴とヒルダの嘲りだったのです。



「そう心配するな、殺しはしない。若い才能を愚鈍なゾンビにするのは惜し過ぎるからな」










 ふと気が付けば、ハービィはどこかの街道に立っているのでした。

 爽やかな日差しの下、柔らかいそよ風が彼の銀髪を揺らし、道沿いの雑木林では小鳥がさえずっていました。何とも長閑のどかで心地よい風景でした。



「……ここは? 俺はなんでこんな所に?」


「うふふ、えいっ! だーれだ?」



 ぼんやりする頭を抱えたままで立ち尽くしていると、不意に背後からハービィの両眼を塞ぐ者がいるではありませんか。こんな真似をする相手は一人しかいません。



「おいおい、悪戯はやめろって……ヒルダ」

「そう、私はヒルダ! 貴方の大切な相棒。良く言えました。えらいぞ~ボク」



 両目を塞ぐ温かな障壁しょうへきが取り除かれると、そこに立っていたのは吟遊詩人の装束に身を包み、骨製の竪琴を背負ったメカクレ系女子でした。



「さぁさぁ、王都パリエスはもうすぐそこよ。田舎と違って沢山の人が居るし、色んな事件が起こるからね。そこで腕を磨き、私のナイトとして相応しい男に成長して頂戴な? ねっ!」

「お、おう。……えーっと、そんな約束したっけ?」

「なに言ってんのよ! 『ヒルダの夢』を叶える為に戦ってくれると約束したじゃない。私達二人で『世界を救う』んでしょう? もしかして忘れちゃった?」

「い、いや、そうだったよな、すまん」



 確かにどこかで似たような約束をした気がします。

 でもハービィがそれを誓った女性は、本当に、この相手だったのでしょうか?


 ヒルダに手を引かれるままハービィは王都パリエスへとやってきました。


 パリエスで最も標高の高いモンマルトラの丘には素朴なレンガ造りの工房アトリエが立ち並び、そこでは芸術家の卵たちが夢を追いかけて日夜活動に励んでいました。


 青年と魔女が辿り着いたのは、下町の一画に居を構えたアトリエ。連れ込まれた所は桃色のベッドに熊やウサギの人形が並ぶ乙女チックな部屋でした。



「なんとぉ、男の人を部屋に通すなんて初めてだから、ヒルダとっても緊張するぅ! キャッホウ!」

「あ、あれれ、こんな事をしている場合じゃない気がするんだけど。それに君は……たしか」

「いいの、いいの。『昔のこと』なんて思い出さなくても。大切なのはいつも二人の未来なんだから。私達はお互いのことを良く知る必要があると思わない? もっと深く、体と心の奥底まで」

「……それは同感。理解は大切だね。分かり合う為にも、相手を救う為にも」

「嬉しい、やっとヒルダに興味をもってくれたんだ」



 優しく、されど発言の節々にアクセントを置いてヒルダは話し続けました。

 それはどことなく聞き手へ暗示をかけるような強い口調なのでした。

 互いの狙いは異なれど。一組の男女は寝台に腰かけ、傍目には仲睦まじい様子で情報収集に勤しむのでした。


 ハービィが聞く姿勢を見せると、ヒルダは心のせきが切れたように喋りだしました。天ノ瞳教団に聖地を焼かれ、父と母が流浪の民となったこと。幼き時に母が病に倒れたこと。母から譲り受けたオウムのエメロードと鏡精霊ラミットだけが友達だったこと。サーカス団の花形として各地を転々としたこと。言語学者の父が国王の命令を受け、北方調査隊に参加したこと。原住民に囚われ毒を飲まされたこと。

 そして、腐れ毒の君に見初められた者だけが生き残り『魔女ヒルダとミッドナイトパレード』の一員となって活動を始めたこと。



「全ては! 毒沼に世界が沈む日の備え! 怠るな、人類に救済をもたらすため」

「選択の余地なし……か。過酷だな。そうかい、大変だったんだな」

「判ってくれる!? そうなの、ヒルダはとっても可哀想な子! 世界中の人はね、私の発言に理解を示した上で、皆もっと私に優しくするべき! 絶対にそう! そうだって!」



 悲劇という歴史から悪党が生まれるのはありがちな話なれど。

 自分からそれを猛アピールするヤカラなんて、そうは居ません。なにやら頭痛がするのは、頭に毒を流し込まれたせいばかりとは言えないようです。


 押し黙ったハービィの態度を、感銘でも受けたと誤解したのでしょうか。

 ヒルダはもうすっかり上機嫌です。両手でリズミカルに膝をタントン叩き、ピアニスト気取りで鼻歌を奏でているではありませんか。街道を往く間にも何度か聞かされた曲で、どうも彼女のお気に入りのようです。



 森へ散歩へ行こう

 おおかみさんがいないうちに

 おおかみさんがいたら

 ぼくたち食べられちゃう

 でも、おおかみさんはいないから

 僕ら食べられずにすむよ


<子どもらしい無邪気な調子で>

 おおかみさん、どこにいるの?

 聞こえる? いま家で何してるの?


<声色を変えて裏声で>

 待ってね、今はシャツを着てるんだ。出かける準備をしてる。



「ふーん、愛らしい歌だね?」

「昔、誰かに教わったのよ。『森の小道、散歩へ行こう』ってタイトル。正直、誰に教わったのかさえまったく思い出せないんだけど。歌詞だけは今でも耳に残っているの。たぶん旅先で楽師の演奏を聞いたのかもね」

「へぇ」

「子ども達が狼さんに呼びかけて、その度に狼がレスポンスを返すんだけど。二番、三番と歌が進んでいくごとに返答の中身がドンドン変わって、最後に何か素敵なオチがついた気もするんだけど。お生憎様、そこまでは覚えてないわ」

「狼が現れて食べられちゃうとか? 子ども向けの歌でそんなオチにしないか」


(作者注:元ネタはフランスの童謡です)



「それじゃあ理解が深まった所で、騎士サマの剣を私に捧げて頂戴」



 言うが早いか、寝台にハービィを押し倒すとヒルダは馬乗りになるのでした。

 逆らおうとしても、ヒルダが指をパチリと鳴らした途端に凄まじい頭痛が襲ってくるのでどうにもなりません。



「本当はじっくり全部の思い出をグチャグチャに、甘酸っぱく上書きしたかったんだけど。現実世界で貴方の彼女がムキになって暴れているわ。そっちを牽制けんせいしながら貴方とデートするのも大変なのよ」

「いて、痛っ、イテテ……話すだけ話して、こっちの都合はお構いなしかよ」

「あらら? 何かご不満? 美女に押し倒されて」

「当たり前だ! アンタのしている事は結局、この世界を滅ぼそうとしている邪神に媚びへつらう行為だろうが。悪に屈するなんて! 正義には最も無縁な行いだ」

「くっだらない、ガキの正義ごっこ!」

「それにだ、毒を飲んだ人の大半は、適応できずにそのまま死んでしまうんだろう? そんな非道を許すわけには……痛い、ウゲェ!」

「言ってなさい。毒の蛇が脳の中枢に居座っているのよ。本能を刺激するなんて容易いこと。人の愛なんてその程度。所詮、脳内物質の放出に過ぎないのだから」

「ふ、ざ、け、る、な、よ! 黒騎士オルランドが泣くぞ!」



 たちまち、ハービィの頭痛がピタリと止みました。馬乗りになって英雄を抑えつけようとしていた魔女が、顔面蒼白になってオロオロしていました。



「え? いや、違う。そんなつもりは……だって、これは必要なコトだから」

「なんとまぁ。なぁオイ、その素直な気持ちも脳内物質かい? ちょいと失礼」



 なんとチョロい。

 逆に驚いたのはハービィの方。ですがこの隙を逃す手はありません。

 ベッドのシーツごと一回転。

 ハービィはヒルダをはねのけると、素早く床へ降り立ちました。


 そして五本の指を自らの眉間に突き付けて叫ぶのでした。



「奪われたモンを取り返してやる! 俺に従え、英雄術ミズチ」



【 ベルサーユ宮殿、温室の間 】


 気が付けば、狼狽するヒルダの顔が目の前にありました。幻術の化粧はすっかり剝げ落ちて、亀裂から食い縛った歯がのぞく魔女の風貌が露わになっていました。


 ハービィは彼女をはねのけると起き上がり、天を仰いで口を大きく開くのでした。

 そこから飛び出したのは脳内に巣食っていた紫色の毒蛇。放物線を描きながら床に落ちた蛇は、相互の術から解放されて毒の水溜まりへと変わりました。


 汚れた口元を拭うとハービィは魔女を睨みつけるのでした。ずっと後方では燃え盛る怪植物を蹴り倒しながらライライが歓声をあげていますが、そっちに応じるまでの余裕はありませんでした。ハービィの目はただ魔女に ――。



「勉強になったよ。君の手口はとても参考になった。水の術で毒の回りを操作しようなんて、そんな発想は俺の中にこれっぽっちも無かったからさ。でも、お陰で気付けた。上手くやるとこれは『解毒』にも使えるってね」

「くそがっ、集中力さえ途切れなければ!」

「黒騎士と魔女の美しい絆に乾杯だ。俺は英雄として責任をとらなきゃいけない。交わした約束通り、アンタにはどうしても改心してもらうからな!」

「うるさい! うるさい! 犠牲になった仲間たちの為にも……今更救済をやめられるものか! こうなったら、かくなる上は……」



 ヒルダのティーポットから毒水が噴き出し、今度は豹の姿をかたどりました。



「F国の全土を『腐れ毒の君』の領地に変えてやるから! 最後までこの国は残して利用するつもりだったが、もういい! ここから計画変更だ」



 物騒な言葉を吐くと、ヒルダは豹にまたがって一目散に逃げだしたではありませんか。



「どこまでも めげない奴だな! まだ何かあるのか?」

「ハービィ、これを使って」


 ライライの呼びかけに振り向けば、ハービィの足下にエイのような生き物が滑り込んできました。出番を心得ているお調子者、ホムンクルス1号でした。



「ちいっす、兄貴。背中にお乗りくだせぇ。良い仕事しますぜ」

「君の、上に? ……なんだろう、英雄ってのはスポーツ万能でないといけない決まりがあるのかな。やれやれ」











【 ベルサーユ宮殿、庭園 】



 ベルサーユ宮殿の庭園には実に千四百もの噴水と巨大な溜め池があります。

 元々この宮殿は狩猟用の館として郊外に建てられたもの。

 狩場に相応しい土地であっても、手頃な川や沼が近くにあったわけではありません。


 では溜め池の水をどうしたのかと言えば、わざわざ水道橋を築いて遠くのセイヌ川から引っ張ってきたのです。恐るべきは、自然すらも従わせる王制の絶対的権威。庭園の完成までに四十年もの月日を要したというのですから、この設備がどれだけ贅沢の極みであるか。ご想像頂けるのではないかと思います。


 そして今、ため池のほとりには、そんな権威なんぞものともしない不謹慎な反逆者が二人も並んでいるのでした。豹に乗って駆け付けた魔女ヒルダと、その従者である「狼かぶりの老人」ディオゲネス。

 そしてディオゲネスの肩には、いつの間にやら戦場を離れていたオウムのエメロードが居るのでした。オウムはヒルダの姿を目にして軽やかな声を発しました。



「おっ、やっと来たのねヒルダ。命令通り準備しておいたよ」

「ヒッヒッヒ、地下の貯水槽からポンプで引っ張ってくるのは骨が折れました」



 ヒルダはかしこまった会釈で部下の献身に応えると、肩越しに月を湛える水面を見やるのでした。



「ハン、自然をも従える王の権威だと? 下らない」



 庭園の美学を鼻で笑いとばすと、ヒルダはうそぶきました。



「真に自然を従えるとは、こういうことだ」



 上弦の月を抱きかかえるかのように両腕を広げ、ヒルダは主人である腐れ毒の君に深淵の祈りを捧げるのでした。


 するとどうでしょう。

 黒ずんだ池の水がのたうち、津波のように鎌首をもたげたではありませんか。

 月明りに照らし出された水は紫に染まり、夜空へ食らいつかんばかり。

 そう、溜池の水は全て腐れ毒へと入れ替わっていたのです。



「小さき人の王よ、我らがアルジの力、とくと その眼に焼き付けるがいい」



 ヒルダの叫びに呼応して毒の津波はこぶしを形作り、振り上げた拳で庭園の中央部を第一の標的まとに定めました。宮殿の正面に位置するひと際大きいその建造物は「ラトナの泉」と呼ばれるもの。ギリシャ神話をモチーフとした円形噴水で、真ん中の女神像を彩るように幾つもの石像と噴水孔を配置した国宝級の芸術品でした。


 その芸術品が天から振り下ろされた拳によって無惨にも粉みじんとなったのです。

 ヒルダの叫び声がそこへ追い打ちをかけます。



「アポロンの母ラトナ。水を飲ませてくれなかった農民たちを、激情のままカエルに変えてしまった女よ。お前の仕事は私が引き継いでやろう。万人の恵みたる毒水を惜しみなく、民畜生へくれてやる。安心して眠るがいい」



 惨劇は尚も収まりません。

 高笑いをあげるヒルダの背後、溜め池から何体もの巨人が立ち上がってきたのですから。もはやその規模は魔女の術という枠組みを超えた「神のみが成し得る奇跡」と言うべき物でしょう。


 毒水から生まれた巨人の一体がその大きな掌をそっと地上へ差し伸べました。

 ヒルダ達がその手に乗ったかと思えば、彼らの身はたちまち標高数十メートルの地点まで運ばれていました。


 くるりと回って素晴らしい夜景を充分に堪能してから、ヒルダは遠くに見える街の灯を指さしました。



「さぁ、次は王都パリエス。その後にF国の水源、全てを潰す! たったそれだけでこの国は成す術なく我らの手中に落ちるだろうよ」

「ヒッヒッヒ、それで何人死ぬか、楽しみですなぁ」



 一方、宮殿内の温室で部下の報告を受けた国王イル六世は、思わず床に膝をつき動揺を抑えきれない様子でした。ようやく護衛を固め身の安全が保障されたかと思いきや、間髪入れずにまさかの悲報。自業自得とは言え、歳月をかけて成した偉業が瓦礫と化すのは受け入れがたい事態でした。



「よ、四十年を費やしたワシの庭園が……」

「お気持ち、お察しします。同じ芸術家としてマルシー兄弟の偉業にこれっぽっちも敬意が払われなかったことには憤りを感じますから。ですが……今は」



 ヒルダの後を追ったハービィになり代わり、ライライが国王に声をかけました。

 お前は国を代表する彫刻家と肩を並べるほどの大芸術家なのか。そう突っ込める人間はこの場に誰も居ませんでした。なんせ、国王陛下と愛娘の命を救った恩人なのですから。護衛の兵士たちが恐れ慄くのを無視して、ライライは無礼講の物言いを続けました。

 


「お察しはします。ですが、形ある物ならいつか再建することも不可能ではありません。民と優れた指導者が残りさえすれば、国はずっとずっと続くのですから」

「……ふっ、優れた指導者か。道化師でもそこまでの皮肉は言うまい」


「お父様! 王家の者は、いつだって民の献身に報いなければ」

「判っているよ、マリー。ワシだけはない。お前の命も救ってくれた人たちだ。仮面の英雄と詩人殿には深い感謝しかない。ライライとやら、これを持って行け。王家の紋章が入った短剣だ。これを見せれば兵士たちも従うべき相手が判るだろう」



 畏まって短剣を受け取りながらも、ライライは心の中でガッツポーズを決めました。働きが認められた。即ち、これでアルカディオが王家公認のヒーローとなったのですから……故郷をひとり飛び出し、裏路地でゴミ漁りをして、ヒルダ達に敗れて一度は挫折を味わい、ハービィと出会い幾多の戦いを潜り抜けて……苦労を越えた分だけ喜びもひとしおでした。


 ―― うっっしゃあぁあ!! やったよ、ドゥルドの皆。私達の英雄が、この国の運命を託されるまでに! 見たか、母さん、私だってやれるんだからね!


 感激を噛みしめるがあまり、周りが不審に思うほど跪き受け取った姿勢のままで長時間硬直していたのも仕方がないことなのでした。ですが、ライライ自身が述べたように今は些細な喜びを噛みしめている場合ではありませんでした。さようなら、個人の小さな承認欲求。

 鼻血が出そうな程の歓喜をグッと押し込めて、ライライは顔を上げました。



「身に余る光栄です。では陛下、早速その権利を行使させては頂けないでしょうか?」

「つまり、何か入用かな?」

「まずは移動用の馬を。それに囚人用の手かせと縄をお借りできませんか。あの魔女を捕らえるのであれば特殊な物が必要となるでしょう」



 『封印』を意味するオガム文字を刻んだものであれば、毒血を駆使する魔女を拘束できるかもしれません。



「成程。だが、生け捕りは殺すよりも遥かに難しいぞ」

「覚悟は出来ています。本当の意味でこの国を救う為には、ヒルダが知る『腐れ毒の君』とやらの詳細な情報が必要でしょうから。それに、私の相棒がそれを切に望んでいます」



 背後から話をうかがっていたラミットも、これには頬をほころばせるのでした。ちょいと横やりを入れて、ライライにお礼を述べずにはいられませんでした。



「ありがとう、君たちは奴からヒルダを救ってくれるつもりなのね?」

「この世は持ちつ持たれつよ。そっちがハービィを連れてこなかったら、きっとここが私の墓になっていたもの。もちろん御礼に出来る事はするわ」

「出来る事かぁ……ラミットも なるたけ協力したいんだけど、腐れ毒の君にマークされてしまうと転移空間が遮断されるから出来ることは限られるワケ。さっきのは裏切りがまだバレてなかったから、やれただけで。つまりね、ここからはテレポート禁止なの」

「裏切りがバレてなかったって? 奴らの神にも突ける死角があるってコトじゃない。逆に有益なネタと言えるわね」

「頼もしいじゃん! ハービィとはまた違う意味で」



 ラミットはそこで腕を組み、少し考えてからある提案をするのでした。



「時にライライちゃん。アンタもドゥルド族の詩人なら『森の小道、散歩へ行こう』という歌をご存知ない? ラミットも必ずや役に立つワケ」






【 王都パリエスの城壁 】


 パリエスを囲むように作られた都市城壁の歩廊。(人が歩ける通路)

 そこにはベルサーユ宮殿を眺める二つの人影がありました。

 まず一人は望遠鏡を手に立ち尽くす、頂天騎士のアガタ。もう一人は、歩廊の手すりに腰かけ……いや寝そべっている礼儀知らずのリス人間、ラタ・トスクでした。



「まるでこの世の終わりだな。信じられるか、ラタ? 巨人の群れがこっちに向かってくるぞ? こうなると、お前の太々ふてぶてしさがうらやましい」

「へっへっへ、別に大したことじゃございませんよ。僕はハービィ達がやられたとは思いませんね。ポオからの連絡が途絶えたのは、むしろ吉兆。報せがないのは良い報せってね」

「ポオの性格からして、異教徒と手を組んだりはしないだろうからな……しかし、まさか、あの少年がそこまで……? 頂天騎士を倒したと?」

「土壇場で成長したんでしょ。英雄とはそういうもの。ほらほら、どんなサーガだって、そう歌っているじゃないですか。エンデ様の使いっ走りだって、そう言っていますよ~」

「何でもお見通しか、ラタ? ならば訊くが、あの巨人に我々はどう対処する?」

「なぁに、コッチには天眼さまが付いていますから。王都への到着が間に合って本当に良かった。お陰でアガタ様も無事に退院できたし。ねぇ、そうでしょう?」

「確かにそうだが」



 天眼さまがもたらした奇跡の秘薬によって、黒騎士に負わされた重傷は嘘のように癒えました。それは事実。施療院のベッドから起き上がれた時は、間違いなくアガタも喜びで心が震えたものでした。ですが、その小さな奇跡と眼前に迫った絶望が釣り合うとはどうしても思えないのでした。



「我らが神に、アレを退ける御力があると?」

「おっとっと! 教団への背信ですか~? 聞かなかったことにしましょう」

「別にそうではないが……」

「大船に乗ったつもりでいれば良いんですよ、僕みたいにね。天ノ瞳教団の敬虔な信徒であるなら、そうであるべきです」

「……そう、なの、だろうか?」

「敵対する神が、邪な奇跡を示した。あの巨人こそがそうです。ならば次は我らの神がそれをパパっとしりぞける番ですよ。聖戦の時は今! どっちが勝つか? 楽しみじゃないですか! 信仰が試されるなぁ~、まさか怖れをなして逃げ出す不届き者は居ないでしょうね? クックック」



 教団に入って以来の長い付き合いですが、そのアガタをもってしても時折このリス人間の狙いが判らなくなるのでした。それはもう空恐ろしい程に。

 されど、アガタは天眼さまに誓いを立てたテンプル騎士。騎士たちの頂点に立つ存在なのですから、職務を放棄して逃げる事など許されないのでした。



 民を守らねば。

 存在意義を問われる時が来たのだ。


 アガタは恐怖をねじ伏せ、大剣の柄を固く握りしめました。



「まったく真面目なんだから。真面目過ぎる人はコロっと騙されますよ? 誰にとは言いませんけれどね、へーーっへっへ!」



 ラタは尚も笑うのでした。

 空では明けの明星が輝き、夜明けがそう遠くない事を示していました。


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