第26話
国王のイル六世、愛娘のマリー。
そして詩人のライライとお付きのホムンクルス1号。
計四名。―― 全員逃亡。
タペストリー裏から逃げた者たちを追うべく、魔女ヒルダもまた隠された入り口へと急行するのでした。彼女の瞳は怒りで激しく燃え、逃走者を追い詰めることだけで頭がいっぱいでした。犬歯がむき出しになったその横顔ときたらまるで怒れる剣虎といった
ハーデスの間には未だ魔女の仲間も残っているというのに、そちらへは
それはチームリーダーの資質を問われる態度。
その後姿を横目で眺めつつ、頂天騎士のポオは鼻で笑うのでした。
「はっ、見捨てられたんじゃないのか、お前。二人がかりという発想はないのかね」
「構いやしない。黒騎士オルランドとは違う。俺は単なるロバなのだからな……」
「はぁ?」
ポオと対峙するのは、狼の毛皮を頭から被った野性味あふれる大男です。
ですが、彼はその図体に似合わず
「ロバだよ。ドンキィ、それが俺の呼び名さ。彼女にとっては、荷を背負わせる召使いでしかないということさ」
「おやおや、同じ男として同情するな。黒騎士って奴は? 魔女の交際相手かい?」
「彼女が人生最大の危機に直面した時、黒騎士は戦って囚われたが、俺は恐怖心に負けて逃げ出した。ドゥルドの男でありながら、なんと面目ないことよ。現在の扱いに差があるのは当然だ。それどころか、生かされているだけでも、彼女に感謝せねばならん」
「もしかしてそれは、
「うん?」
「奇遇だな。実は俺様もそうなんだよ。初めて人を殺しちまった罪を克服したくて、魔性の芸術家を目指しているんだよ。その道、いまだ至らず……だ。どうだ? もっと詳しく聞きたいか?」
「いや……どうせ胸糞な話だろう?」
「あたり!」
腹を抱えて笑うポオへ蔑みの眼差しを向けながら、ドンキィは肩に担いでいた得物を構え直しました。
「お喋りが過ぎたか。俺が言いたいのは、たとえ荷馬であろうと通すべき筋と意地があるということだ。この武器はその決意にちなんで『ロバの骨』と名付けた」
それは岩石を削り上げ「動物の下あご」に似せた風変わりな殴打武器で、なるほど言われてみればロバの骨のようにも見えるのでした。装飾の凝ったことに、こん棒にはアゴの歯並びまでもがしっかりと再現されていました。されどポオからすれば、それは機能性を無視した無駄なこだわりとしか思えませんでした。
「くだらねぇ、破壊力を重視するなら両刃斧でも使った方がマシだ。利便性をかえりみない間抜けっぷりはロバらしいけどな! 本気か、そんな物で俺様を殴り殺そうというのかい?」
「いいや、えぐり殺そうというのだ。ババロアをこそぎとるようにな」
それは、ドンキィという呼び名からは考えられぬほどに俊敏な動き。
殺気に背筋の凍ったポオは反射的にバク転で一振りを避けるのでした。
すると、さっきまでポオの立っていた床がえぐり取られてなくなっていました。
その様は正しく、スプーンですくい取られたババロアなのでした。
―― おやおや、悪魔ウコバチの持つスプーンは人の首を狩るというが。ロバの下あごもそれに負けてはいないようだな。見くびり過ぎたか。
胸中で自省の念に駆られながらも、ポオは冷静にドンキィの連撃をよけて、よけて、よけ続けました。圧倒的な体格差があるので、足を止めた
広間のフロアはたちまちえぐれた穴だらけです。身軽さではポオの方が上なので下がって距離をとろうとするも、それを見逃すドンキィではありません。
「逃げ回る奴には、こういう手だってある。もう胞子をばら撒くような隙などくれてやるものかよ!」
ドンキィはスプーンでえぐった大理石を武器ごと振り回し、ポオへと投げつけてくるのでした。それはあたかも攻城用の投石器。それた剛速球が、飾り棚の壺に吸い込まれて台ごと粉々になりました。
―― なるほど、腐っても奴らの一員ということか。これは単純だが大した怪力だ。だがなぁ!
不意にポオの顔面から何かがポトリと落ちました。
それはペストマスクのくちばし部分。キノコの胞子を防ぐために装着していたマスクを、異なる用途のマスクへと付け替えたのでした。
腰のバックパックから出したのは薬が仕込まれた強化用のくちばし。
痛覚を遮断し、人間の眠れる身体能力を覚醒させる魔薬が仕込んであったのです。
ポオがたっぷりと粉を吸い込んでいると、そこへ新たな岩石が飛んできました。
ドンキィの視点からすれは間違いなく命中を確信する軌道でした。
されど、岩の剛球は直撃の寸前で砕けて破片を四散させました。
陰から現れたのは、トゲ付きのメイスを振り切ったポオの雄姿でした。
「ぬう、馬鹿な」
慌てて次々と削り取った岩石を投げつけるも、弾は全て打ち返されるか砕かれるかしてしまうのでした。錯乱したドンキィが直にロバの骨を当てに行くも、振り下ろした一撃は真っ向から受け止められてしまいました。
決して軽くはない、上段の防御で受けたポオの足が床へめり込む程の
「神は、天眼さまは、我に神器と使命をお与えになった。ロバの貴様は知らんだろうが、頂天騎士の全員が特別な力を宿した器物を授かっているんだ。俺様の場合はこのメイスがそれよ、神器ガング・リエイト。その能力は……」
ポオが語る間にも、彼らの足下では不思議なことが起きていました。散らばった岩石の破片が動き出し、フワリと浮き上がるのでした。
「……破壊した物質を好きな形に組み直せること」
ドンキィが驚愕したのも無理はありません。
浮遊した破片が周囲に集まってきたかと思えば、あたかもパズルのように組み上げられてまったく違う形を構築しているのですから。
「もっとも使い手が物の構造を把握していないと話にならんがね。俺様の場合は当然、処刑用具や拷問具となるわけだ。ウンと慣れ親しんでいるからな! 神の偉業はおいそれと真似できんということさ。やはり、その道……いまだ至らずだ」
形を成すは頭を押さえつける拘束具と、その真上に設置された断頭の刃。
そう、出来上がったのは大理石のギロチン処刑台だったのです。
気が付けばドンキィはその内に取り込まれて、もはや身動きも出来ぬ有様ではありませんか。
「バカな、こんなバカな!」
「ロバにも意地がある。それは確かに感じたよ。重い攻撃ではあった」
そこまで言うと床に転がった『ロバの骨』を蹴っ飛ばし、ポオはクルリと背を向けました。そして、演目を終えたダンサーのようにポーズを決めるのでした。
「だが、ロバよ。俺様の相手は荷が重すぎたな」
パチリと指が鳴らされ、ギロチンの刃が落ちました。
たちまち広がる鮮血の絨毯。
「殺人ソムリエの芸術は、本来貴様のような奴を救済するためにあるのだ。これは、救いのない生を歩んできた者へ捧げる せめてものはなむけよ。素晴らしいだろう? つまらぬ人生、せめて最期ぐらいは美しく在れ」
仮面の下に
ですが、それに応えられる者はどこを見回した所でもう誰も居ないのでした。
「……ったく、この芸術に拍手すらないとは」
ひとしきり悪態をつくと、ポオは薬仕込みのくちばしを外して入れ替え、その場を後にするのでした。目指すは、残った異教徒二名と裏切りの王。
「待ってろよ、魔女ちゃんたち。そして、イル六世。お前らにはもっと相応しい最期をくれてやろう……いや、しまったな。ギロチンは王族にとっておくんだった。誰も見てないし、使い回しでも良いか」
ブツブツ言いながら去っていくポオは、とうとう気付きませんでした。
処刑台にかけられたドンキィの遺体。
それが大きな樽を背負っていた事実に。
やがて無人となったハーデスの広間にて。
残されたワイン樽がうごめき、フタが開いて中身が転がり出てきたのです。
「ふひひ、ロバには荷が重いか。確かにそうだのう。我らミッドナイトパレードにおける最重要人物を乗せていたんだからな」
中身の老人は狼の毛皮を仲間の遺体からはぎとり、頭に被るとうそぶくのでした。
「あとは『樽の賢人』であるディオゲネスに任せておけい。パリエスの都に毒の災いを撒く準備なら、もう整っておるわ。犬か、ネズミか。人々から嘲られた世捨て人に、よもや大国滅亡の引き金が預けられるとは! これはまた愉悦よのう」
【 ベルサーユ宮殿、アフロディーテの間 】
タペストリーの裏に隠された通路は、宮殿内の様々な場所に通じていました。
当然、その道程は複雑に分岐し、一本道ではありませんでした。
いくつかの分かれ道を越え、イル六世、マリー、ライライ、1号が辿り着いたのは屋内にもかかわらず噴水が備えられた贅沢な温室でした。様々な植物がプランターで育成され、色とりどりの花を咲かせていました。ツタを誘引するために張られた荒縄や、三角に組まれた支え棒、それらにツル薔薇が絡まり見る者を楽しませる華やかさを有しているのでした。
ライライは人魚像から噴き出す冷水で右手を洗いながらも今後の計画について話し合っていました。紫の毒液が巻きついた、ほんのそれだけで詩人の右腕は痣だらけになっていました。
「いてて……思ったより複雑な通路だったし、敵もすぐにここまでは追ってこれないでしょう。陛下とマリー様はしばらく身をひそめては頂けないでしょうか? 御身の安全を守る為、それが最善かと。いたずらに兵を呼んでも居場所を敵に教えるだけです、恐らくは」
「お手々、大丈夫なの?」
「大したことはありませんよ、マリー様。少し火傷したぐらいで。腐れ毒か、あれがいずれ世界中に満ちるという災厄なのですね? 陛下」
「そうだ。あの魔女は災厄そのものをコントロールできる。おぞましきことよ。彼女こそが邪神に選ばれた巫女なのだ」
「お詳しいですね。ちょうど良い機会です。事情を聞かせてはもらえないでしょうか。彼女について、ご存知なのでしょう?」
「お前はなぜそこまで……深入りすれば命を落としかねんぞ? 判らんのか?」
「詩人にとって
「あの頂天騎士や魔女も大概だが、もしや、お前の頭も狂気に染まっているのではないのか」
イル六世が
「そうですね、多少は。戦場の空気に酔っている自覚ならあります。ですが、私の相棒も今ごろもっと……きっと命がけで戦っているのです。仮面の英雄アルカディオ。彼がやってくれば、もうあの化け物たちの好きにはさせません。約束しましょう、この国をむしばむ病魔をすべて取り除くことを」
「ふっ、そこにはワシ自身も含まれていそうな口ぶりだな。だが、感じ入ったよ。王家の名誉を少しでも回復させる為、話してしんぜよう。せいぜい格好良く語り継いでくれ」
「善処いたします」
イル六世は噴水の淵に腰を下ろし、腕を組んでしばし物思いにふけっていました。
そして、ポツリポツリと重い口を開くのでした。
「ワシが初めてヒルダと会ったのは……あれはたしか遠征調査隊のメンバーを決める選抜会議の時だ。あの頃は、歳相応に内気で大人しい娘っ子だった」
「遠征調査隊? 先ほどの舞踏会で挨拶した船乗りたちと同じ?」
「汚染の根源を求めて、命がけの冒険に挑んだ勇者達よ……」
北の海を、広範囲に渡って汚染する紫の毒。
その発生原因を調べる為には、現地の住民から詳細な情報収集が不可欠です。
されど、北の諸島は未開の土地。そこに住む原住民は言語が古く、一般兵では満足に会話すら通じません。
どうしても翻訳家を調査隊のメンバーに入れなくてはならなかったのです。
そこで白羽の矢が立ったのが、言語学者であるヒルダの父、メイソン。
サーカス団の代表を務める彼は、このスカウトに初めから乗り気でした。
報酬が高額だったこともありますが、メイソンは「ドゥルドの民は北海からやってきたバイキングの末裔である」といった学説を長年温め続けていたのです。ドゥルドのバードが口伝で歌う創生神話には、バイキングの物と共通点が多かったのです。
持論を実証するにはまたとない好機ではありませんか。
半年の約束でサーカス業を休止し、彼は派遣調査隊に同行する事を決意しました。
メイソンの助手や、ひとり娘のヒルダ、サーカスの護衛を務めていたオルランド、身の回りの世話をする団員たちがこの無謀な試みの道連れとなりました。その大半が二度と戻れない身とは知る由もありませんでした。
「ヒルダがどんな目にあったのかは、彼女が帰還後にたっぷりと聞かされたよ。わずか一年程度でまったくの別人になっていた。あの冷たい目、命を命とも思わぬ残忍さ、あれこそ まさしく魔女だった」
とある島で古代遺跡を調べていた所、それまで従順であった原住民の態度が
囚人を待っていたのは、毒を飲まされ邪教徒の一員となる残酷な運命でした。
されどドゥルドの血を引くヒルダには元々の素質があったのでしょう、彼女は毒に適応するばかりか巫女としての才覚を遺憾なく発揮しました。
原住民があがめる主人「腐れ毒の君」そんな未知なる邪神との交信に、幸か、不幸か、成功してしまうのでした。それによって囚われの身に過ぎなかった立場が一変。ヒルダはたちまち誰からもかしずかれる女首領となっていました。
たとえ毒に喉を焼かれ、生まれつきの美貌を損なったとしても……父や大勢の仲間を失ったとしても……彼女は神に選ばれ生き残ったのです。
「そして、彼女は帰ってきた。毒に適応した仲間を引き連れ、死地へとおもむかせた私に責任をとらせるため」
「あらあらあら、それは誤解ですわ、陛下」
不意に追憶が遮られ、かけられた
噂をすれば影が差す、そんなことわざ通りにヒルダは噴水の淵に片足をのせ、その手に所持したティーポットを高々と傾けていました。注ぎ口からは紫の毒が流れ落ち、見る間に噴水の溜池を禍々しい色へと染め上げていきました。
唖然とするライライ達の前で、魔女の肩にとまったオウムのエメロードがやかましくがなりたてるのでした。
「恩知らずね、私達が帰ってきたのは復讐の為なんかじゃない。貴方たちに救いの道を示す為なのよう! F国を中心にいずれ選民の帝国が築かれると約束したでしょ」
「私を信じず、恐れあらがう者どもよ! 見るがいい、腐れ毒の力を。これがいずれお前たちの迎える末路なのだ」
噴水のため池は水路を経て、温室全体の植木鉢へと恵みをもたらすカラクリでした。その水源がいまやおぞましき毒だまり。プランターの植物たちはやがてブルブル震え出し、意志を抱いて鉢植えから身をひるがえしました。
美しいつぼみに亀裂が走り、牙の並んだ大アゴへと変わりました。薔薇のツタが絡まり太さをますことで床を踏みしめる強じんな四肢へと進化しました。雄叫びを発するその容姿はサバンナの肉食獣を彷彿とさせるものでした。
獣じみた咆哮を上げる怪植物の群れ、ライライ達はたちまち化け物の集団にかこまれてしまうのでした。
ヒルダは高々と掲げていたティーポットを下げ、ライライに微笑みかけました。
「どうどう? いかが? このポットは腐れ毒の君に授かった宝器。無限に進化のエキスを垂れ流すことが出来るのよ。貴方たちもきっとご相伴にあずかれるわ」
「ポットとは! 随分とユーモアを解する邪神のようね」
「邪神? まぁ、今の貴方たちからすればそうなのでしょうね。でも、よーく見てごらんなさいな、周りを。大地は腐り、空気はよどみ、水が毒に変わり、あらゆる生き物が怪物と化して牙をむいているわ。こんな世界なら、いっそこっち側に下った方が楽になれるでしょうに」
「悪は未来永劫、悪。変わることなく! 私がきっとそれを語り継ぐ」
「折れないわねぇ! どうしてそんなに諦めが悪いの? 多勢に無勢で逃げ場もないというのに、どうして? まさか都合よく助けが来るとでも?」
ライライは意を決して叫びました。
「来る! ハービィは必ず来る!」
「二代目アルカディオのこと? 来るわけがない。今ごろはオルランドに殺されていることでしょうよ。黒騎士は強いもの、単純な強さなら我々の中でも最強よ。貴方なんかの少年剣士が敵う相手ではないわ」
「ううん、絶対に来るから!」
「ははは、アタシが選んだ男と、アンタの選んだ坊や。どっちが来るか楽しみねぇ。でも、結果を見る前にアンタの心は痛みでも折れないのか……確かめてみましょう。やっておしまい!」
言うが早いか、ヒルダは噴水の傍らから、怪植物がはびこる広間の奥へと引っ込んでしまいました。もしもこの状況をひっくり返す手があるのなら、頭目である自分が捕縛されることだと彼女はちゃんと理解していました。
牙をガチガチ鳴らしながら迫ってくる怪植物。
背後には守らねばならぬ、陛下とマリー。
もはやライライ一人ではどうにもならない絶体絶命の窮地に思えました。
「それでも! アイツはきっと来るから!」
ライライは凛々しく吠えると、服のポケットをまさぐりました。
そこにはオガム文字を刻んだ小石とそれを飛ばすパチンコが切り札として準備されていました。その中から「炎」の文字が刻まれた小石をいくつか取り出すと、陛下と愛娘の周りにばら撒くのでした。
小石から炎の柱が立ち上り、完成する簡易的な結界。
これでしばらくは時間を稼げるはずでした。
そして後は……。
「ホムンクルス1号、波乗りを頼む!」
「ほい来た。出番ですね、姉御」
背景に溶け込んでいた巨大エイが姿を現し、敵の合間を縫って床を泳ぎ始めました。ライライはその背中に飛び乗り、スケボーの要領でバランスをとるのでした。
怪植物たちの噛みつきを左右に動いて避けながら、突進の勢いそのままに1号は床から壁へと駆け上りました。流星のように壁を走る者。ホムンクルスの突撃は見事に敵の包囲網を脱け出し、ライライの体を無警戒な広間の上空へと運ぶのでした。
全神経を集中して高所から睨めば、植物の群れに潜むヒルダの姿が確かに見えたではありませんか。
「そこだ、くらえ!」
パチンコから放たれた奇跡の三連射は見事にヒルダの上半身を直撃しました。
(裏拳で殴りつけた際と同様に)やはり毒水の防御壁が発動したけれど、ライライも最初からそこは織り込み済みでした。発射された石に刻まれたオガム文字は「雷」衝撃や打撃をいかに無効化する水の障壁だろうとも、流れる電気を防ぐことなど不可能でした。
稲妻にうたれたヒルダは大きく上半身をのけぞらせ、膝をつきました。
遠目にも、狙撃が成功した事は明らかでした。
けれど、ライライは大切な点を見逃していたのです。
ハーデスの間から、アフロディーテの間まで彼女たちは逃げてきたというのに。
通路には幾つもの分岐路があり、単調な一本道ではなかったというのに。
どうして、ヒルダは見透かしたように容易く追いつくことが出来たのでしょう?
その答えは「アリアドネの糸」
実は、細くて見えない「水の糸」がライライの拳に結わえられていたのです。糸が結ばれたのは、ライライがヒルダを殴ったその接触時。抜け目のない行動は「絶対にライライを逃さない」という執着心からきたものなのでしょう。(粘着質なこだわりは同じドゥルド族であるがゆえか。女性同士だからなのか。それは誰にも判りません)
そして、水の糸は今もヒルダの人差し指とライライの拳を結び付けていました。当然の帰結として、電流は糸を伝わりライライ自身にも帰ってくるのでした。
「えっ!?? はうっ!」
ただでさえ不自然な姿勢からの空中狙撃でした。
想定外の反撃でバランスを崩すのもやむを得ないこと。
そんなライライが落ちたのは不運にも怪植物のまっただ中でした。
絡まるツタにもがいていると、宮廷楽師に化けようとかぶっていた赤毛のウィッグが落ちて地毛の金髪が露わになりました。怪植物の牙が肩当てに食いつき、きらびやかな上着が引きちぎられました。
窮地を逆転するかに思えた闘志もどこへやら、無防備な肌がさらされるとライライの胸にひりつく恐怖心が忍び寄ってくるのでした。
―― そんな! 嘘でしょ? せっかく何とかなりそうだったのに。ずっとここまで頑張ったのに。ゴミを漁り、下衆野郎におべっかを使って。やっと出会えた素敵な人を信じてここまでやってきたのに! こんな、こんな所で、死んでしまうの? 夢を叶えることもなく、テメーの人生を救うことすら出来ないまま、ミジメな最期を迎えるというの?
染み渡る絶望を噛みしめていると、そこへ更なるダメ押しがやってきたではありませんか。赤毛のカツラを拾って興味もなさそうに投げ捨てたのは、ペストマスクのサイコキラーです。
身動きがとれず涙ぐんでいるライライを目にして、マスク越しでもポオが満面の笑みを浮かべているのがよくわかりました。嬉しそうに肩を揺らしながら、ポオは彼女をここぞとばかりに嘲るのでした。
「おやおや、そこで何をやっているのかな? アンタの匂いを辿ってみれば、随分と可哀想な姿になっているじゃないか。さすが、俺様は持っているねぇ。やはり神は正しい者の味方だな」
「ちょ、ちょっと待って……今は」
「君とは もっと芸術談義をかわしたいと思っていた。丁度いい。俺様の美学を理解してもらうにはまたとない機会だ。たっぷりわからせてやろう」
「あの……嫌」
「時にお前さんは……首のある女と、ない女、どっちが好きだね? 悩むよなぁ、悲鳴は聞きたいし、静かな方がありがたい時もあるよな? さぁ、どっち? より芸術性が高いのはどっちだ?」
「嫌ぁあああ! ハービィいいいい!」
からかうように、ライライの醜態を観察していたポオ。
そんな彼が「自分も見られている」事に気付いたのは次の瞬間でした。
背筋をチリチリ焦がす恐るべき気配と共に、ドスの効いた脅し文句がポオの後頭部へ投げつけられるのでした。
「じゃあさ、こっちからも質問だ」
「……!?」
「首のある悪党と、ない悪党、お前はどっちが好きなんだ?」
「なにっ!」
「答えは、どっちも大嫌いだよ。馬鹿野郎!」
ポオが肩越しに見たのは、空中に浮かんだ八角形の大鏡でした。
更には、黒塗りの木刀をふりかぶった剣士の姿がもう目前に迫っていました。
襲い来るは骨をも砕く一撃。薙ぎ払われ、吹き飛ぶ影。
返す刀は、ライライを捕らえた植物のツタをたちまちに断ち切りました。
涙でかすむライライの視界に映ったのは、差し伸べられた力強い手だったのです。
「悪い、遅くなったな」
「うっうっ……はーびぃいい」
「そんなに泣くなよ」
「もう! 本当に! 遅いよ! 私一人でどんだけ無茶をして、どれだけ心細かったと思って……」
「本当に悪かったよ。でも、安心して。オレ、すっげぇ強くなったからさ」
「へ?」
「つまりさ……やっと君に見せられる時が来たんだ」
「見せられるって、なにを?」
「よぉーく、見ていてくれよ……きっとアンコールには応えられないから」
座りこんだライライに手を貸し、立ち上がらせると……銀髪の剣士アルカディオは踵を返し、待ち構える敵へと向き直るのでした。
ポオが、ヒルダが、受けたダメージから立ち直り、こちらを睨みつけていました。
けれどハービィは何時になく強気に笑い、ライライの耳元でこう続けるのでした。
「時は来た。君の選んだアルカディオが、世界を救う時だ」
「む!!! ちょ、待って。早い! 心の準備が! もう一回お願い」
「……やだよ。また後でね」
あふれてくる涙は何なのでしょう?
安堵、喜び、それとも愛情?
未だ勝利を見届けない内から、どうしてもこらえ切れず、ライライは子どものように泣きじゃくってしまいました。
彼女も以前は信じていなかったのです。
多くの英雄譚に登場するヒロインが、魔物から救われたからといって簡単に「ひとめ惚れ」をした挙句、殿方と恋仲になるだなんて。
そんなの都合がよすぎでしょう?
それはいわゆる「吊り橋効果」という奴に決まっています。
本当はすぐに情熱も冷めてみんな後悔したことでしょう。
私は嘘つき詩人。
お客様に感動してもらう為、さもありなんに歌うけれど。
そんなの絶対、嘘に決まっている。
長らくそう思っていたのです。ですが、死か、あるいはそれ以上に恐ろしい処遇からこうして救われた今、ライライの価値観は急速に変わりつつあったのです。
よどんだ曇り空から雲が引き、虹のかかる青空へと変わるように。
―― もしかすると……私の一生は、彼の歌を作る為にあったのかもしれない。
運命、ライライにもその言葉の意味が判りかけてきました。
そう、二人をつなぐ夢は、いまや世界の命運をかけた希望だったのです。
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