第24話


【バスチイユ監獄、午後八時四十分】


 目を覚ませ、寝ている場合じゃないんだよ。

 大変なんだって。

 オルランド、オルランド。ねぇ、起きて!

 朝はまだまだ先だけどさ。


 どこか遠くから男の名を呼ぶ声が聞こえてきました。

 うつ伏せに倒れた黒騎士オルランド、彼の指がかすかに震え、小雨に湿った土塊を強く握りしめました。


 泥にまみれた顔が持ち上がり、焦点の定まらぬ両目が虚空へと向けられました。

 するとそこには八角形の大きな姿見が宙に浮かんでいるのでした。

 それは黒騎士にとっても見覚えのある鏡でした。


 鏡妖精のラミットが「転移魔術の出入り口ポータル」として作り出すものです。

 かつて街中で頂天騎士のアガタを襲撃した際には、黒騎士も逃走に用いて、お世話になったもの。鏡面にはウサギの着ぐるみをまとった少女の姿が映っているではありませんか。


 ―― いつ見ても戦場には場違いな奴だ。


 心の中で毒づくと、黒騎士は血に染まった唇で辛うじて言葉をつむぎました。



「な、なんだ? コッチは今お楽しみなんだ、邪魔をするなよ」

『よく言う! アタシが声をかけなかったらそのまま気絶していたクセに。それにさ、大変なんだって。コッチでは非常事態宣言が発令中なの。もうヒルダの眼前まで敵が迫っているワケ』

「……! ディオゲネスの奴は何をしている」

『敵にちょっと手強い奴が居てさ。考えあぐねているみたいよ、あの頭でっかち』

「ぐっ、どこもかしこも。わずらわしい!」

「それが社会に喧嘩を売るってことなんじゃないの~。さて、オルランド君はどうするのかな? カラーは黒でも、ハートは騎士なんでしょ?」



 オルランドは獣のように吠えると、痛む四肢に鞭打って立ち上がりました。


 驚いたのは独りで勝利を確信していたハービィです。

 ガッツポーズを崩して振り返る姿は少々間抜けでしたが仕方ありません。


 ハービィは、続行か、降参かを問い質しました。



「お前、まだやる気なのか?」

「……いいや。もう、やらない」

「え?」

「決闘遊戯はおしまいだ。ここからは、お前を瞬く間に葬り去り……誓いを立てた淑女ひめぎみの下へと馳せ参じねばならない」

「なっにぃ!?」

「許せよ。せっかく人知を超えた力の持ち主ふたりが出会ったというのに、もっと力比べを楽しみたかった。この力をズルいと言われずに済むのは、いったい何時いつ以来なのか」



 思いがけぬ言葉にハービィが戸惑っていると、黒騎士は改めて腰を落とし身構えたのです。



「だが、もういい、そんなことは! 来い、全ての闇よ。蹂躙じゅうりんの時間だ。あらゆる光をここに消し去らん」



 黒騎士の宣言に呼応するかの如く、風が吹き始めました。

 初めはゆっくり、徐々に速く。大気の流れは黒騎士へと向いていました。


 付近のあらゆる影が強風に吹き飛ばされオルランドの足下へと集まっていくかのようでした。影が一つ足へと吸い込まれる度にオルランドの身体は闇に侵食されていき、爪先から膝、膝から腰へと渦巻く漆黒がむしばんでいきました。


 そして吹き荒ぶ風が止んだ時、オルランドの全身が再び闇の鎧に包まれたのです。

 いいえ、辺りの影をかき集めて吸収した為でしょう。以前とは異なり太腿や腕、胸板などが恐ろしいまでに肥大し膨れ上がり……もはや人のサイズを保っていません。ゴリラを思わせる肉付きだけでなく、鋭利な爪が伸び、腰には尻尾、背中には包丁じみた背ビレが生えているではありませんか。


 臓腑をえぐるような雄叫びを発し、悪鬼と化したオルランドが襲ってきました。


 目で追うのすら難しい速度で目前に迫り、腹部へ強烈な蹴り。

 上空に蹴り上げられたハービィが落ちてきた所へ回り込み、烈風の裏拳。


 この世のモノとは思えぬコンビネーションによって、ハービィは中庭の壁まで殴り飛ばされたのです。

 『世界樹の祝福』によって肉体が強化されていなかったら、呆気なく潰れて「壁のシミ」と化していたのは間違いないでしょう。


 されど、彼を救った緑色のオーラも時間の経過によって効果が少しずつ薄まっていたのです。影矢の傷を塞いだ治癒力も確実に弱まっているようです。

 背中をこすりながら壁からずり落ち、ハービィは激しく咳き込みました。


 ただし、そんな有様でもハービィは敵の所作しょさを見逃しませんでした。

 黒騎士が殴った右腕を痛そうにかばっていたことを。


 そう、お互いに凄まじい強化を施したとて、中身は人間のままなのですから。


 ―― 無理のあるバカげた強化だよな? どっちの身体も。

 ―― なら、負けられるかよ!

 ―― 誓いを立てた姫君が待っているだって?

 ―― そんなの……。



「こっちも同じなんだよ!」



 荒い呼吸をねじ伏せ、跳び起きたハービィ。

 尚も戦意を失わぬ相手に黒騎士が威嚇の吠え声を浴びせます。

 人知を超えた力を身につけた者同士、どちらかが精魂尽きて動けなくなるまでこの戦いは決して止まらないのでしょう。




【同時刻、ラミット専用・万華鏡聖域カレイドスコープ・サンクチュアリ


 八角形の大鏡を前にラミットは小さく溜息を零しました。

 大鏡にはバスチイユ監獄の中庭と、殴り合う二体の人外が映し出されていました。対決を背景としながらもラミットの食指はそちらへ向かず、手にした小さな鏡へと彼女の視線は注がれているのでした。


 手中の鏡に浮かぶ場面は、どこか見知らぬ昼間の街道。

 旅芸座のほろ馬車が道端に止まり、その傍らで一人の少女と少年が何事かを語らっています。ラミットからすれば、何とも懐かしい。これはもう十年以上前の出来事なのです。



「オル君は騎士になりたいんだ?」

「ああ、そのつもりなんだけどよぉ。どこに奉公してもすぐに追い出されちまう。素行が悪いから、礼儀がなってないからってさ。まったく、マナーがなんだっていうんだよ。大切な物を守るのに必要なのは腕っぷしの強さだろうが」

「乱暴者だからね、君は。そりゃー世の中には腹立たしい奴らが沢山いるけど。連中を見返してやりたいなら、まず自分が偉くならないと。そうねぇ、王様に一目置かれるぐらいになれば誰もが貴方の意見に耳を貸すはずよ」

「それには、すぐカッとなる性格を直さないとダメか……ヒルダは賢いな」

「うふふ、ありがとう」

『アリガトー、アリガトー』

「あはは、エメロードも感謝しているわ」



 少女の肩に乗ったオウムを見ながら少年は苦笑しました。

 それからふと真顔になって、ひとこと尋ねるのでした。



「君はいつも一人だな。友達はそのオウムだけなのか?」

「なーに、それ? 私にも無礼をはたらくっての、礼儀知らずさん」

「いやー、オレも似た者同士だからさ……」

「ふーん。そりゃ、生まれつき旅芸人の一座暮らしですから。旅から旅の毎日で友達なんて作る暇もないんだけど。でも、残念でした。私にはもう一人友達がいるの。鏡の中からいつも私を見守ってくれるお茶目な子が」

「鏡の中? それは、多分、つまりヒルダの妄想なんじゃないのか? いわゆるイマジナリーの」

「違うって! 亡くなったママの親友で、ずっと陰から助けてくれるの!」

「うん、君が可哀想な子だってことは判った」

「ホント、失礼しちゃう!」

『シツレイ、シツレイ!』



 少女が風船のように頬を膨らませるも、少年はめげずに続けるのでした。



「もし俺が将来騎士になったらさ。そんな可哀想な君を、きっと守ってやるからさ。何も心配しなくて良いんだぜ? たとえ何が起ころうとも、オレはきっと君の隣にいるんだから」

「えー? 本当ぉ? 行きずりの男が言うことをいちいち真に受けるなってパパが」

「まったく、その助言は正しいな! でも、これは本当だって!」



 二人が談笑していると、馬車の裏からピエロのメイクを施した男性が顔をのぞかせました。



「おや、オル君、また来てくれたのかい?」

「仕事クビになっちまって、暇なんで。弓矢の訓練なんかしたくないんですよ、オレ。騎士を名乗るなら剣技で決着をつけろってんだ」

「そうかい、ならいっそウチで働いてみないか? そうすればヒルダといつも一緒にいられるよ?」

「う、うーん、考えておきます」

「君なら大歓迎だからね。おっとライオンに餌をやる所だった」



 太鼓腹をゆさゆさ揺らしながら去っていく道化師。

 その後姿を見送りながら少年は少女に耳打ちしました。



「君のお父さん、変わってるね? 一座の副団長さんだっけ」

「そうよ。あー見えても偉いのよぉ。実は学者さんで古い言葉を色々と研究しているの。ゆくゆくは私がパパや御祖父ちゃんの後を継いで一座の中心になるんだから。オル君もウチで働くなら私と仲良くしておいた方が得よぉ?」

「まだ決めてないって!」

「それでね、私がリーダーとなったアカツキには、一座の名前を変えようと思っているの。そうね『美しきヒルダとミッドナイト・パレード』っていうのはどうかな?」

「ははは、夢って奴は、ウンと大きい方が良いよな」

「そうよ、いつかは私達の芸で世界中の皆から喝采を浴びてやるんだから」


 全ては過ぎ去ったセピア色の思い出でしかありません。

 鏡の映像はぼやけて消え、そこには悲し気なラミットの顔だけが映されています。



「オル君、ヒルダ。貴方たち、本当にこれで良かったの?」




【バスチイユ監獄正門、午後八時三十五分】


「おい、中じゃとんでもない騒ぎになっているようだぜ?」

「何だよ、この地響き。ドシン、ドシンって普通じゃねえ……俺達、こんな所で見張りなんかしていて良いのかな?」

「職場放棄して逃げ出したいよ、まったく」



 正門前で看守達がぼやいていると、大通りから大柄な人影が歩み寄ってきました。

 片目を眼帯で隠し、背中に大剣を担いだ黒髪で和装束の男。


 その男は看守たちが警戒態勢をとる暇さえ与えず、気付いた時にはわずか数歩の距離まで接近していたのです。むしろ男が声をかけなければ、その間合いでも気付けなかったかもしれません。



「もし……」

「ああん? なんだアンタは? こっちは取り込み中なんだよ」

「ちと野暮用があってな。中へ入れて頂きたいのだが」

「それ所じゃないと言ってるだ……ぐっ!」



 男の背から大剣が抜かれ、流れるような動きで看守の喉へと刃が突き付けられました。



「街中で私の弟子が拉致されたと聞いてね。目撃者の証言によれば、犯人は君たちと同じ制服を着ていたそうじゃないか」

「き、貴様!」

「こっちは三人だぞ」



 安い脅し文句に眼帯の男は失笑して応じました。



「たとえ、その十倍居ようと君たちに勝ち目はないだろうよ」



 そう。この男こそゴーカイ流の開祖であり、ハービィの師匠にあたる剣聖オデオン、その人でした。




【バスチイユ監獄中庭、午後八時五十二分】


 最後の切り札によって筋肉を増大させた黒騎士。

 その脅威は恐るべき機動力の向上にこそあったのです。


 バスチイユ監獄には中庭を見下ろすように八つの塔が建っています。

 その塔の屋根によじ登り、屋根から屋根へと飛び移る様は正にマシラのごとし。

 もはや目で追うのもやっとの速度ではありませんか。


 そして、緩急をつけながら高所から地上のハービィ目掛けて跳びかかってくるのです。圧倒的スピードと重量を兼ね備え、こちらに飛来するのですからたまりません。

真っ向から迎撃しようとするのは、発射された砲弾を受け止めるのに等しい行為です。


 着弾した瞬間、大地が揺れ砂柱が巻き上がるほどの威力。

 ハービィがその突進をどうにか避けても、黒騎士は我が目を疑う跳躍力で塔の屋根へと舞い戻ってしまうのです。これでは勝負になりません。


 ―― まったく、とうとう自分自身が飛び道具の弾になりやがった。

 ―― 英雄術・魔風とゴーカイ流体術・飛影を組み合わせれば、もしかすると俺も塔の屋根に登れるか?


 しかし、魔風は体力の消耗が激しく連続で出せる術ではありません。

 同じ高さに登れたとしても、すぐにまた距離をとられてしまうでしょう。

 攻撃のチャンスは間合いを詰めた一瞬のみ。その一撃で今度こそ完璧に仕留めなければならないのです。


 ―― ぶっつけ本番の新技じゃ駄目だ。練度がまるで足りていない。


 やはり最後に頼れるのは毎日汗まみれになって鍛え上げた既知の技なのです。


 ハービィが決意を固めて塔の屋根に立つ黒騎士を見上げると、黒騎士は降り注ぐ雨に抗うがごとく黒雲へ咆哮を投げかけている所でした。

 その様は、何か大きな存在に鎌をもたげ威嚇するカマキリのようでした。



「そんなにムカつくのかい、世の中が許しがたいのかい? そうかよ、俺もだよ」



 冷笑を浮かべたハービィの左手は、人差し指がピンと立ったままでした。

 よく見ればそこから長い水の糸がどこまでも暗闇へ伸びていました。


 そう、ハービィは無策で逃げ回っていたわけではなかったのです。


 塔の屋根で獣のように身を伏せ、狙いを定める黒騎士。

 対して地上のハービィは足を止め、攻撃を待ち構えていました。


 唸り声で喉を震わせながら、黒騎士が跳躍しました。

 その一瞬、タイミングを合わせてハービィは水の縄の掴み引っ張るのでした。


 英雄術ミズチによって作られた無限に伸びる水のロープは、建物の柵や、塔のバルコニーを経由して中庭上空に張り巡らされていました。あたかもそれは獲物を待つ蜘蛛の網でした。降雨の中、水の縄は遠くから視認できるものでなく……直前で黒騎士が気付いた時にはもう対処不可能でした。


 矢のように跳んだ黒騎士はしなやかな蜘蛛の巣に引っかかり、その水縄はジャンプの勢いそのままに喉や腹へと食い込んで圧迫したのです。


 さしものミズチも圧倒的な負荷に耐えかねて断ち切られました。けれど跳躍の軌道は大きくそれ、ハービィの立ち位置からズレた地点に不時着するのでした。

 何度もバウンドして、芝生にワダチに刻みながら黒騎士の身体は大地をゴロゴロと転がりました。


 自重が仇となり本来ならば大ダメージでしょう。

 けれど脳内にアドレナリンがみなぎる黒騎士は、ダウンすらせず、腕をついて体勢の上下を入れ替えると両足で着地したではありませんか。


 でも、ハービィはそこまで計算済みでした。

 深呼吸を済ませると、敵の動きが止まったコンマ一秒を狙って、決着の一歩を踏み出しました。


 英雄術・魔風。

 この術は言わば縮地のようなもので、地脈を用いて距離を短くする働きがあるのです。単なる高速移動ではなく、わずか一歩で大きく進むことが出来るのです。その射程は最大でおよそ五十メートルほど。

 この術なら黒騎士の機動力にも対抗できるでしょう。そして、それだけでなく……その速度を攻撃に転嫁することが出来たのなら……それはきっと爆発的な破壊力を技にもたらすはずなのです。

 手に血豆を作り、皮がむけるほどに練習した技ならば必ずや成し遂げられる。

 ハービィはそう確信していました。



 そして、この戦いが決着せんとするまさにその時、一人の剣士が監獄の中庭へと足を踏み入れました。他ならぬその人影は正門を突破したオデオン師匠でした。黒騎士が跳躍する度に生じる凄まじい地響き、その揺れと衝撃の出所を確かめるべく駆け付けたのでした。

 そこで目に付いたのは異形の化け物が芝生に不時着する場面。更にはそこに一人の剣士が高速で間合いを詰める所ではありませんか。

 師匠はハッと息を呑みました。

 見覚えのある小柄な体格と動きは、ハービィに間違いありません。

 さらには愛弟子が使おうとしている技は、オデオン自身が叩きこんだものです。


 踏み出された神速の一歩。

 その速度を余さず重さへと変え、大地を踏みしめる震脚。

 己が体重を何倍にも増やすその踏み込みは、踏みしめた強さそのままに大地から反作用となって体へ伝わっていくのです。腰の振り、胴体の捻り、腕のスイングを活かすことで、その反作用を殺すことなく螺旋を描いて武器まで送り届ける。

 それこそが「この技」の極意なのです。



「ゴーカイ流剣技、迅雷・旋風斬り!」



 木刀の先まで緑色オーラに包まれたその一撃は、夜闇に正円の軌跡を輝かせ、立ち塞がる異形の敵を打ち砕くのでした。黒騎士を包む影の鎧はハンマーのごとき斬撃で粉砕され、その五体は宙を飛んで地に落ちました。


 全てを見届けたオデオン師匠は、目を見開き、満足げにうなずくのでした。



「うむ、術と剣の一体化。それがお主の考えるゴーカイ流か。見事だ!」



 乾坤一擲けんこんいってきの剣技。

 それはハービィに残された全ての力を注いだ紛れもない最後の一撃でした。

 ハービィの身体を包む緑色のオーラは消え失せ、魔風を用いたことによる体力の消費、大技を決める為にすり減らした神経、長丁場のあらゆる消耗が津波のように押し寄せ……もはや立つことすら困難な有様でした。

 片膝をつき、頼みの木刀も今では杖替わり。

 そんなハービィの様子を見て、逆に勢い付く不心得者も中庭には居たのです。

 黒騎士の部下たち、自らの意志で毒を飲み異形と化した者たちの影が。



「おい、命令だから決闘の邪魔はしなかったけどよぉ~」

「ああ、もう乱入しても良いよな?」

「オルランド様の敵討ちだ。名を上げるには今しかねぇ!」



 満身創痍のハービィに迫りくる怪物たち。

 それを一刀のもとに切り伏せ、弟子の前に立ったのはやはりオデオン師匠が最初でした。


 まさかの展開にハービィは嬉しさと驚きを抑えきれませんでした。



「師匠!? どうしてここへ?」

「弟子が買い物に行ったまま戻らなかったからな。そうなったら捨ておくわけにはいかぬだろう?」

「あ、ありがとうございます!」



 オデオンは弟子の肩を叩くと、感嘆入り混じる労いの言葉をかけました。



「腕に磨きをかけたな、素晴らしい技だったぞ。ハービィ」

「は、はい!」

「残り物の始末は私に任せておけ」



 照れ隠しか、師匠は背を向け速やかに押し寄せる敵兵へと向かっていきました。

 たった一言。されどその一言はハービィにとって百万の賛辞に勝るものでした。

 疲れ切っていたけれど、その顔には確かな笑みが浮かんでいました。


 そんな彼の下へ、雨妖精と頂天騎士のエンデも駆け付けました。



「やるじゃーん。見直しちゃったよ」

「今宵、監獄に居合わせた者は全員が奇跡の目撃者となり、君の伝説を語り続けるだろう。誇ってもいい。それほどにエキサイティングな成長劇だった」


「へへへ、一心不乱に頑張りました……でも、今夜はまだ終わりじゃないので」

「ああ、判っている。囚人の解放は任せておけ。我々で終わらせておくさ」



 エンデの了承を得てから、ハービィはどうにか腰を上げ黒騎士へと視線を向けました。向こうは未だ立ち上がる事も出来ず、芝生に座り込んだままでした。

 そんな彼に声をかける者は一人だけ、五角形の鏡から姿を現したラミットだけでした。



「あーあ、負けちゃったね。もしもーし、生きてます?」

「……ザマねぇぜ。この俺がただ未熟だった。それだけだ」


「いや、俺たちの違いは実力差なんかじゃありません」



 反省会へ割って入ったのはハービィです。

 余計なお節介と知りつつも、言わずにはいられなかったのです。



「俺は最後までゴーカイ流の技を信じ、身のたけ以上の期待に少しでも応えようと奮闘し続けた。だから限界を超えられたんです。でも貴方は……土壇場で信じるものを何もかも手放してしまった。人知を超えた力に頼みを置く、そんな考え方のせいで」

「……ふん、返す言葉もねえ。負けてしまった今となってはな。そんなことを言いにわざわざ俺の所へ戻ってきたのか? 負け犬をなぶるほど暇ならトドメくらい刺しておけ、悪趣味な野郎だ」

「いいえ、師匠の顔を見て一つ約束を思い出したんです」

「約束……?」

「ええ、貴方は以前レストランで『パリエスの都で出される生ガキなんか劣化して食えたモンじゃない』と切り捨てたでしょう? 都と海は遠すぎる。どんなに努力しようが、こざかしい人の知恵などその程度だと」

「言ったな、それが?」

「知り合いの料理人が教えてくれたんです。貝類は干すことでうま味が凝縮されて隠された美味しさを発揮するって。貝を干すのは単に保存のためだけじゃなくて、漁師や都の料理人がなき美味を追求した結果なんです。干したものを戻して煮込んだ貝は最高の味なんだとか。人の知恵は、文化は……きっと貴方が思っているほど浅くはありません」

「くっ……クックック……」

「その料理人が是非とも貴方にご馳走したいと。水晶竜の宿を訪ねてくれませんか? 暇なとき、何時かでいいので……貴方はそうするべきです。俺からのですね」

「アーハッハッハッ!! どこまでも、悪趣味な、野郎だぜ!!」



 黒騎士は豪快に笑い飛ばすと、突然態度を軟化させて悲しそうに首を振りました。



「犯した罪を償って……それでも命があったらな。約束しよう、アルカディオ」

「オル君はしぶといから大丈夫でしょ。その時はアタシもご一緒するワケ」



 ラミットが便乗すると、黒騎士は少女の腕をギュッと掴んで言いました。



「ラミット、お前の鏡でコイツをベルサーユ宮殿まで送ってくれないか」

「オル君……それでいいの?」

「ああ、今のヒルダに必要なのは、俺ではなくコイツだ、きっとな。魔女に要るのは言いなりの飼い犬なんかではなく、暴走を止めてくれる誰かなんだ。スマンが、頼まれてくれんか?」



 最後の願いはそっぽを向いた顔から放たれた為、仲間であるラミットに頼んだのか、敵であるハービィに頼んだのかよく判りませんでした。

 それでもハービィは力強くうなずきました。



「貴方の願いを背負って、俺はもっと強くなりますから。それが俺に課せられたゴーカイ流仮面剣士アルカディオの務めなんです」



 せっかく格好良く決めたのに、そこへ雨妖精ルカが飛んできてハービィの周囲を旋回し始めたのでどうにもしまりません。



「アタシはこっちについて行くぅ~。こっちの方がダンゼン面白そうだしぃ」

「あれぇ、ルカじゃん? こんな所で何してんの?」

「んん? そう言うアナタは、鏡妖精のラミットちゃん! 何ってアンタがルカを呼んだんでしょう? もうすぐパリエスで大きな祭りが始まるからすぐに来いって」

「そうだっけ? そう言えばそうだったかもね。いやぁ久しぶり」

「五百年ぶりくらいだっけ? 懐かしーい、うふふ」


 伝説の妖精同士、どうやら二人は顔見知りのようです。

 仲良くお喋りを始めた両者を目にして、黒騎士は思わず呟きました。



「おいおい、敵だぞ。気まずさとかないのか?」

「妖精に敵も味方もないワケ。戦争なんて知らなーい」

「妖精はいつも、面白くて楽しい方の味方でーす」



 ハービィと黒騎士は顔を見合わせると、天を仰いで笑うのでした。



「何だか、妖精の方がずっと賢いような気がしてきました」

「ふっ、違いねぇ。世の中の間抜けどもにそれを教えてやるんだな。下らんことで道を違えるのは俺たちだけで良いのさ」



 空を仰ぐ黒騎士の顔はどこか寂しそうでした。

 いつしか黒雲の合間から優しい三日月が世界を見下ろしていました。


 長い雨が上がったのです。




〈作者注〉

 パリエスのモデルとなった中世ヨーロッパのパリでも、生ガキの行商は実在したそうです。

 ただしそれを安全に楽しめるのは寒い冬の間だけで、温かくなってから生ガキを買うのは自殺に等しい暴挙であったとか。海から離れている為、衛生面では大いに問題があったものの、生ガキの屋台はパリ市民からとても愛されていたのです。カキの貝殻だけを積み上げた貝塚遺跡も見つかっているんですって! 


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