第25話



 【ベルサーユ宮殿、午後八時十分】


 ハーデスの間にて対峙した頂天騎士のポオと魔女ヒルダ率いる敵集団。

 寄らば斬る一触即発の状況は、どのように変化したのでしょうか?


 戦況は一方的でした。多勢に無勢でありながら、ポオは押し寄せる悪魔どもを次から次へと葬りさっていました。元をたどれば敵も王宮の近衛兵でありながら紫の毒を受け入れ異形の姿となった者たち。それでもポオは化け物どもを寄せ付けずに手にした杖で殴り倒していきました。


 ポオのいで立ちは、ペストマスクと呼ばれる鳥の仮面、鳥の羽で飾り立てられた帽子、そして返り血の染みついた皮のロングコート。彼の底知れぬ実力が、その外見や立ち振る舞いからもにじみ出ているかのようでした。


 鮮血舞い散らす殺陣たての流れは洗練されたよどみのないもの。


 彼が手にした杖も、先端にトゲの生えた鉄球つきという仰々ぎょうぎょうしさ。怪物の頭を一撃で打ち砕く威力は尋常ならざるものでした。


 なるほど、戦い慣れたポオは頂天の名に恥じぬ手練れなのでしょう。

 しかし、それにしてもこの殺戮劇は有り得ないほどに一方的すぎます。


 無口なヒルダと肩のオウム、そして、お付きである狼の皮を被った大男は、目前で展開される場面がどこかおかしい事に気付き始めていました。



「なーに、アイツ。超強いんですけど!? どれだけ戦ってもまったくの無傷じゃない?」

「いや、ポオが強いというより、味方の様子がおかしい。奴に近づいた途端、動きが目に見えて遅くなっている。皆の者、引け! 一度距離をとれ」


「おやおや、そろそろ気付いたかな? 俺様の強さ……その秘密に」



 ポオは向かってくるあらかたの敵を排除し終えると、狼被り男に向き直りました。



「その通り。貴様らが弱体化しているのさ。コイツのお陰でな」



 ポオが空いた手でコートのえりを開くと、その下にはベルトで胴に固定されたガラスの小箱がありました。透けた小箱の中身は、ネズミが一匹。しかし、これはタダのネズミではなく、小動物の全身をカビのようなものが覆いつくし、あちこちからキノコが生え出る異形のげっ歯類なのでした。

 それは見るもおぞましい姿でした。されどポオは、そんな物をさらしておきながら さも得意げに語り出しました。



「ファンガスと呼ばれるキノコの化け物さ。コイツの胞子は半端なく効くぞ?」

「なに?」

「一息でも吸い込めば体が痺れ、やがては毒キノコが体中から生えてくる。そうなれば、人の意識や理性は失われ、キノコに支配されたキノコ人間になっちまうのさ、冬虫夏草に犯されたセミのようにな。防毒マスクをつけた俺様だけが耐えられるという寸法よ。よって、誰も俺様には近づけない、戦えば絶対に勝つ、以上。Q.E.D証明終了

「騎士とは名ばかりか。高潔とは無縁の卑劣なやり口だな」

「オイオイ、毒で人を操るお前らに言われたくねぇよ。お株を奪うようで悪いが、このポオ様は毒を扱わせてもお前らより一枚上手なのさ」



 狼被り男は口角を下方修正して悪態をつきました。



「よく喋る口だ。手の内を公開しないと気が済まないのか」

「むしろ、そこが最重要だぞ? このポオは単なる暗殺者とは違う。芸術家なんだ。アーティストは何よりも観客の反応を楽しむ。これから成す術もなく一方的に殺される。そんな未来を知れば、お前らの恐怖が匂いとなって場に流れ出す。その豊穣ほうじゅんな香りこそが俺様に更なるインスピレーションを与えてくれるんだ」

「狂気だな、教団のゲテモノめ」

「お互い様だろ? 毒、生物兵器! 暗殺術、拷問! ヒトの暗部全てを極めたポオ様だ。それ故に皆は俺様の事をこう呼ぶのさ。心の闇と死を知り尽くした『殺しのソムリエ』とな」



 ファンガスの胞子はポオの周囲に噴出され、彼を宮殿に連れ込んだF国の貴族たちもが咳き込んで床に伏しているではありませんか。

 敵味方入り混じり、次々と喉を押さえて床に倒れていく人影。

 そんな阿鼻叫喚を背景に、ポオは気取ってポーズを決めています。その様は演目を終えた競技選手のようです。



「あらら、ヤベーわ。イッちゃってる、完璧に」



 オウムのエメロードがうそぶき、狼被り男が拳をボキボキ鳴らしながら一歩前に踏み出したその時でした。突然、ポオが言い放ちました。



「おっと! 厄介そうなのは、まだ後ほど。まずは楽に取れる首から頂こう」



 首の向きがクルンと九十度曲がり、ポオの目線はヒルダ達からハーデスの間の奥へと移されたのです。その先に居るのは孤独に震えているF国の王。



「お前だ。教団に盾突く裏切りの王。イル六世! 恨むなら身の程を知らぬ己が野心を恨むんだな!」

 


 叫ぶが早いか、ポオは胞子の煙をまき散らしながら王のもとへと走り出したのでした。王はのけぞり、椅子ごと倒れて無様に床へと転がりました。その背後、めくれた壁のタペストリーからは娘のマリーが息を呑んで見守っているのでした。


 ―― あるいは、危険にさらされているのがイル六世だけであったのならば、天井裏のライライも動かなかったかもしれません。ヒルダ達への復讐、アルカディア英雄たんの完成、そんなことを優先させて、敵同士の潰し合いを見守ったかもしれないのです。

 けれど、幼いマリー姫が、親を思って行動した健気な少女が……胞子によって無惨な最期を迎えようとしているこんな時に、何もしないだなんて。ロザンヌやハービィから学んだ人の優しさが彼女を突き動かしたのです。

 彼女はもう壊れた人形ではないのですから。


 広間の天井からガラガラと音を立ててシャンデリアが下ってきました。

 ポオの行く手を遮るように落ちた照明。その衝撃と飛び交うガラス片にポオも思わず足を止めるのでした。

 巻き上がる埃が落ち着くと、その中から現れたのは竪琴を持った宮廷楽師。

 


「やめてよね。あまり勝手なことをされると、こっちの筋書が狂うから」



 立ち止まったポオの顔面を狙いすまし、ライライの飛び蹴りが的確に叩きこまれました。辛うじて腕の防御が間に合ったものの、意表を突かれたことは確かでした。


 ―― な、なんだコイツ? 何者? いや、それよりも、なぜコイツは動きが鈍らない? 胞子が効いていないのか?


 後ずさり、動揺するポオ。

 彼の求める答えは、ライライの胸元で光を放っていました。

 ドゥルドの一族が妖精から習い教わった「力ある文様」オガム文字。

 英語のWにも似たその文様は、妖精の言語で「風」を示しているのでした。

 ライライは竪琴を一弦ならしてから、ポオに語りかけました。



「キノコの胞子は届かない。風の防御壁があらゆる飛び道具から私を守ってくれる」

「術か……得体のしれぬ伏兵よ、貴様も魔女の仲間か?」

「それは違う。私はアルカディオの従者。本来ならば頂天騎士の側にこそ、くみするべきなのでしょう。貴方がそれらしい振る舞いを見せさえしてくれたのなら……今からでもそれを検討するのだけど? 駄目……かな?」

「アルカディオ? ああ、アガタのお気に入りか。クク、だが要らぬよ、味方なんぞ、いらん。全ての目撃者はひたすらに消すのみ。俺様は教団の名誉と未来を守る為に奮闘する、孤高の騎士だ」

「やっぱり……ダメか」

「生憎だったなぁ、お嬢ちゃん。ところで……今、俺様に恐怖しただろう? いくら表情に出さないよう気張っても無駄さ。ワキを湿らせた汗の匂いでわかる」

「ちぇっ、嗅ぎ回るだけの畜生に、本当の芸術が判るか怪しいものだけど……」



 溜息を零すと、ライライは唐突に目を閉じ竪琴を奏で始めたではありませんか。


 あまりにも想定外な行為に、居合わせた全員がライライの行動を見守っていました。もしもポオが武器を振るえば、そのまま当たりかねない距離だというのに。


 クソ度胸のライライが演奏したのは、甘く安らぎを含んだ調べでした。



 ねんねしなさい、可愛い坊や♪

 パパは庭に、ママは台所にちゃんといるよ♪

 だから何も怖がらずに♪

 ねんねすれば、お乳がもらえるのだから♪



 ポオはマスクの下で目を細めました。



「お前、何のつもりだ? 俺様が『おねむ』だとでも?」

「……独り善がりではない真の芸術は、心ある者すべての魂に響く。何もそれは人間だけと限らないの」

「わからんな」

「伝説の詩人は地獄の番犬ケルベロスを眠らせたし、物言わぬ植物すらも時に旋律へ耳を傾けるわ。キノコは菌類であって植物じゃないけれど……そこに意志がある限り奏者は聴衆の心を揺らしてみせる。言語を超えた万国共通のコミュニケーションツール、それが音楽だから」



 蔑みの目で答えるライライ。

 言わんとする事を察してポオがガラス箱を検めると、ファンガスの苗床となったネズミが眠りこけていました。胞子の排出もピタリと止んでいるのでした。



「なっ!?」

「お前の耳はキノコ以下だ。エセ芸術家」



「フフフ、仲間割れ、ご苦労だった。どれ、後は我々が始末をつけよう」



 そこへ突如として割り込んだのは、狼被りの大男でした。


 大男が振り回す奇妙な武器が、咄嗟とっさに反撃しようとしたポオの杖とぶつかり合いました。けれど体格差からくるパワーの差は如何ともしがたく、頂天騎士は広間の壁際まで弾き飛ばされるのでした。


 大男はじっとり湿った目つきでライライを一瞥してから、きびすを返してポオへと向かっていきました。残されたライライが戸惑っていると、旋回するオウムのエメロードが彼女に声をかけてきました。



「貴女はこっちよ。光栄に思いなさい。ヒルダ様が、お相手をしてくれるそうよ」

「……!」



 なるほど、口元を扇で隠したまま、無口な魔女がこちらへと歩を進めてきました。

 ライライはその光景に背筋が凍る思いをしながらも、逃げようとは毛筋ほども考えてはいませんでした。背後に目をやれば、怯える王と娘の姿がそこにはありました。

 ライライは肩越しに二人を眺めながら力強い声で叫ぶのでした。



「陛下、ここは任せてお逃げ下さい。マリー様を連れて、早く!」



 実際にはむしろマリーが父親の手を引いている有様です。けれどこれで、黒幕と王族を何とか切り離せたではありませんか。あとは敵のリーダーとおぼしきヒルダを押さえれば事件の解決が見えてくると言うものです。


 そう、彼女を倒すことさえ出来れば。


 ―― ハービィ、早く来ないと出番がなくなってしまうよ! 私の嘘で誤魔化せるのも限度があるからね!


 心の中で強がりながらも、射るような魔女の眼差しをライライは正面から受け止めるのでした。十歩ほどの距離でヒルダは足を止め、首を傾げて品定めでもするようにこちらを眺めていました。

 勿論、ライライも負けずと相手を観察してやりました。


 いわゆる「目隠れ」という奴でしょう。

 縮れた前髪に両目を覆われ、チャーミングな鼻がチョコンと口元を覆う扇の上に出ているのです。後ろ髪は短く私達の時代にはミドルショートと呼ばれるもの。魔女が着るドレスは濃緑のポールガウンで、幾重にも折り重なったふくよかなスカートと蝶結びで締めた紫色の帯が特徴です。

 背丈もライライとさして変わらず小柄な部類。

 ハッキリ言ってしまえば、踊る相手も見つけられない陰気なお嬢様といった雰囲気で、とても世界を毒沼に沈めようとしている輩には見えなかったのです。

 やがて、品定めに飽きたのかヒルダはおもむろに口を開きました。



「……オガム文字とはなぁ。詩人よ、お前はドゥルド族なのか」

「貴女、その声……」

「うん? この声か、そう気にするな。しわがれ声は喉を毒に焼かれたせいだ。巫女となる代償にしては軽すぎるくらいよ」

「それは、その、ご愁傷様」

「ふふふ、率直に言えば、お前のように美声を売り物とする女は……見ているとムラムラしてくるんだけどねぇ」

「ムラムラ? ムカムカじゃなくて?」

「美しいものを壊したくなる欲求は、断じてムカムカじゃないのさ。この高ぶりは本能。ましてや、相手がそれを大切にしているのなら……人生を歌にかけているのなら……尚更さね。自慢の喉に毒を流し込んでやったら、アンタはどんな顔をするんだろうねぇ」

「もうヤダ、変な奴ばっかし」


「ヒルダ、悪い癖だわ。メッメッ! 巫女らしからぬ発言はメーッ」



 肩にとまったオウムからたしなめられて、ヒルダは深すぎる陶酔から我に返った様子でした。



「おお、すまぬすまぬ、アタシの口よ。ついきょうが乗って勝手に喋ってしまったわ。オガム文字の話だったな。ここにきて随分と懐かしい物を見たわ」



 ライライは聞き逃せぬ物言いに身を乗り出しました。



「貴女、ドゥルドの術を知っているの?」

「そりゃそうよ。私達とて元を辿ればドゥルドの出なのだからな」

「え?」

「私が生まれるよりずっと前の話だが。天ノ瞳教団に聖域の森を焼かれ、大勢のドゥルド族が故郷を追われて流浪の民になったときく」

「……ええ、そうね」

「私の父や母は、その折に難民の仲間をかき集めて旅のサーカス団を始めたのよ。それが『魔女ヒルダとミッドナイト・パレード』の前身なのだ」

「くっ、嘘を言うな。ドゥルド族は……」

「嘘なものかね。証拠を見たいか? いいだろう」



 ヒルダは立てた指でクイクイと誘えば、ポオに倒された悪魔の一体が起き上がったではありませんか。生命活動を終え、死体となった者を動かす力。ネクロマンサーの術です。


 操り人形のようなぎこちない動きで、悪魔の屍は主の下へと歩み寄りました。

 ヒルダに何事かを囁かれると、悪魔はコックリうなずいて自らの角に手をかけ、力任せにへし折りました。それはメリノー種のヒツジを思わせる螺旋らせんを描いた角。

 折れた傷口から紫液が滴る角、それを死体は恭しく魔女へ献上するのでした。


 角を一本ずつ受け取り、頭部にあてがうと……アラ不思議。

 あたかも体液が接着剤の働きを担ったかのように、角は頭に張り付くのでした。

 用済みの死体は崩れ落ち、二本の角を生やした魔女は嬉しそうに言い放ちました。



「これで私も『角被り』だぞ。どうかな? 認めてもらえるだろうか、旧き同胞よ」

「……例え、貴方がドゥルドの血をひいていようと関係ない。いいえ、むしろ……だからこそ! 私達が貴方と戦わなければならない。先代アルカディオを殺し、王をたばかり、戦争を起こそうとしている輩をどうして見逃せるものか。ドゥルドの不始末は私達の手で片を付ける!」

「貴様っ! なぜ、それを悪と決めつける!!」



 口調を荒らげた魔女の気迫に、ライライは思わず口ごもりました。



「え?」

「古い世界はどうせ遠からず毒の海に沈んで滅びるのだ。政権を崩すなら早い方がいいだろう。毒という価値観を受け入れた『選民』の為に! 私は旧世界の秩序を破壊しつくさねばならない。全ての民がやがて私達に感謝する日がくる。きっとくるぞ! なぜならば、ここF国を中心に世界を導く大帝国が築かれるのだからな」

「勝手に……」

「それが、それこそが、腐れ毒の君に仕える巫女ヒルダの使命」

「勝手に私達の未来を語らないで! クリムも、ハービィも、お前たちが描いた絵図面を覆す為に戦ってきた、命を賭けて! 私が歌いたい英雄譚は希望に満ちたもの、お前が語る……そんなものとは違うんだ!」

「ほう……それは、それは、ご立派な」



 スッと口元を覆うヒルダの扇が閉じられました。

 その下にあったのは思わず目を背けたくなるようなオゾマシイ笑みでした。

 まるで肉が溶けたかのように頬がこそげ落ち、大きな穴が開いていました。辛うじて筋肉の筋が何本か上下で繋がってはいますが、穿たれた風穴からはグロテスクな歯茎と犬歯がむき出しになっていました。紫色のべにをさした唇だけは原型を留めているので、美貌と狂気が両立した「人ならざる領域の芸術」として魔女の顔は奇跡のバランスを保っているのでした。


 むき出しの奥歯をカチカチ鳴らしながら、ヒルダの唇が笑みを浮かべました。

 伸びた前髪の間より片目だけがのぞき、蛇を連想させる縦に伸びた虹彩こうさいがライライを睨みつけるのでした。



「面白いぞ! たまらなくムラムラする! ドゥルドの詩人、お前の名は?」

「ライチ・ライ・バクスター。略してライライ。アンタの悪名を後世へ歌い継ぐ女よ。覚えておきなさい、よーくね」

「おーっと、そうはいかんぞ。お前が歌うのは腐れ毒の君をたたえる嘆きの歌だ。全ての希望を丹念に摘み取った後も、お前だけは生かしておく。私の本能的欲求を満たす為になぁ」


「ちょ、ヒルダ? 仲間に勧誘するんじゃ……」



 オウムのエメロードが両者をなだめようとしても、ヒートアップした二人はもう止まりません。



「交渉なんぞ……」

「とっくに決裂してるわ!」



 ライライは竪琴を背負い直して両手を開けると、腰を低く落として身構えました。詩人であるライライにとって指は楽器を奏でる為もの。乱暴に扱って傷めるわけにはいかない商売道具でした。それ故に接近戦は蹴りが主体となり、手ではゴツイ武器を扱おうともしませんでした。拳を固めて殴るなんぞ本来なら論外の蛮行。


 ですが、この相手だけは本気でぶん殴っても構わないと感じていました。



「綺麗ごとばかりで現実を見れないんだな。お前も、お前が選んだ英雄殿も! それならばもう良い、私がこの世にはびこる毒の味を教えてやるわ。その喉に無理矢理たんと流し込んでくれる。とくと味わい、深く感謝しろ!」



 吠えるヒルダには応じず、ライライは腰のベルトに結わえたポーチを開くと特殊な塗料を指先に塗りつけました。「妖精が通った所に生える」そう言い伝えられるコケをすり潰した物で、これで決められた形を描くとオガム文字の術式が発動するのでした。

 炎を意味する文様を手の甲に刻印し、戦いの準備は整いました。


 まずはヒルダの鼻先をかすめるように回し蹴りを放ち、彼女を怯ませる所からです。次いでそのまま二回転目に入り、オガム文字を描いた右手で烈風の裏拳をかます。


 ヒルダのえぐれた頬へ攻撃は見事あたったかに見えました。けれどライライの手に伝わってきたのは不気味なまでに柔らかな感触でした。

 せっかく仕込んだ炎のオガム文字も発動していませんでした。


 飛び交うオウムのけたたましい声、そしてヒルダのしわがれた声が広間に響きました。



「火を制するのはいつだって水なのよ~。ないないないない、毒水の支配者たるヒルダにそんなの通用しなーい!!」


「オガム文字なんて古い術式ぞ? もう私には必要ない。腐れ毒の君から授かった奇跡の力があるのだから」



 打ち据えたライライの裏拳は、ブヨブヨの塊に受け止められていました。

 それは集められた毒水が術で顕在化した柔らかい盾。

 紫色の毒液がまるで生きているかのごとく蠢いては、無数の触手を伸ばし、押し込まれたライライの拳に絡みつこうとしていました。


 ―― な、なんだよ、この水? いったいどこから湧いて出た!?


 ブーツの裏で水音を感じてライライが足下に目をやれば、何時の間にか二人が立つフロアーはすっかり水浸しになっていました。

 原因は辺りに転がった悪魔たちの死体。そこから紫の体液が噴き出し、滴り、魔女に寄り添うかの如く毒液が集まってくるのでした。ヒルダを中心として幾重にも張り巡らされた水の筋は上から見ると蜘蛛の巣のようでした。


 流れも束ねればやがて海となり、それは今まさに二人を飲み込まんばかりの広がりを見せていました。


 ヒルダの緑色だったドレスは裾から紫の毒液に染まり、布地の色と混ざって紺色へと変わりつつありました。そして、彼女の細い腕や首筋を毒液の筋が這い登っては頭部へ至り、ライライの裏拳を受け止める水の盾と化しているのでした。


 腕を水の触手に締め付けられ、引き抜けずにもがくライライ。

 そんな彼女の足下からも、容赦なく毒水は襲いかかってくるのでした。



「おバカさん。貴方はもう私の領域内に居るのよ」



 最早、ライライは毒沼に沈んだ小鳥も同然。

 ですがそんなもがく小鳥に救いの小枝が差し伸べられたのです。


 突如としてタイル張りの床が波だったかと思えば、そこからエイのような魚が飛びあがりました。それは俯瞰ふかん視点で広間を眺めるオウムのエメロードですら全く予期しなかった完全なる不意打ちでした。

 正体不明のエイは華麗な跳躍から素早くヒルダの喉に食いつくと、その牙を突き立てました。


 さしもの魔女もこうなっては集中力を維持できず、水の塊も術が解け、バケツの中身をぶちまけたように落ちては足元で飛沫を飛ばすだけでした。


 ―― え? 何が起きたの?


 助けられた当人のライライさえも困惑する、突発的な事態。

 すると、エイの背中に唇が浮かび上がり、話しかけてきたではありませんか。



「ドーモ。俺っちはホムンクルス1号。我が主、ガナッシュの命によってこの場は助太刀いたしますぜ。くれぐれも、しくよろ!」



 ガナッシュと言えば、先代アルカディオであるクリムの弟です。そういえば、今朝がた彼がライライを訪ねてきた時、帰り際に部屋の外でブツブツ何か言っていたような気もします。

 旧友が気を使って寄越した助っ人という所でしょうか。


 ライライは尻もちをついたまま、間抜けな挨拶あいさつを返すのでした。



「……ど、どうも」

「ところで、いきなりで不躾ぶしつけっスけど、早く逃げた方が良いと思うっス。喉をとらえたのに、致命傷には程遠いっスよ、コレ」



 ヒルダは噛みついたエイを振りほどこうともがいていますが、噛みついた1号はその状況にも格別に驕ることなく冷静そのもの。やはり敵の首魁しゅかいだけあって一筋縄でいく相手ではないのでしょう。

 ほんの一瞬、垣間見ただけでも魔女の力には尋常ならざるものが感じられました。


 どうやら頭に血が上って正面から勝負を仕掛けたのは軽率だったようです。


 ―― 私は歌を完成させるまで死ぬわけにはいかない。今、ここで脱落するわけにはいかないんだ。ガナッシュ、感謝する。


 ライライは無言でうなずくと、脱兎のごとくその場から逃げ出しました。

 彼女は名誉を重んじる騎士でもなければ、修行中の剣士でもなく、単なる吟遊詩人。生き残って真実を後世に伝える事こそが勝利なのでした。


 ライライがタペストリー裏の隠し通路へ逃げ延びたのを確かめると、1号は自ら食いついた喉を離れ広間の床へと飛び降りました。どうやら毒の水はヒルダの体内でも操作できるらしく、突き立てた牙は内側でガードされており急所まで届いてはいないのでした。

 喉もとの傷跡は毒液の塊で塞がれ、流血すらしていませんでした。


 着地した1号は、薄っぺらい体をカメレオンのように背景と同化させ、サメに似た背ビレだけが彼の存在位置を示す唯一の物となりました。そこに唇が浮かび、喉をさするヒルダに話しかけるのでした。



「おっと、そうだった。ヌシからメッセージを預かっていたッス。新着一件『兄は死すとも、その意志は死なず。ついに復讐がなされる時はきた』との事ッス。そういう啖呵は自分で現場に来て切るもんだと思うッス」

「兄? 心当たりが多すぎるな、知るか」

「じゃあ、そういう事で。自分らは単なる便乗組なんでお手柔らかに。使い捨ての道具でも命は惜しいッス」


 そのまま背ビレも透明となって1号は消え去りました。感情のたかぶりを抑えられず、ヒルダは歯ぎしりをしながら小刻みに震えるのでした。


「コイツら……どこまでもムラムラさせやがって」

「流石に嘘でしょ? これはもうムカムカだよね。ヒルダったら」

「うるさい! この!」


 肩に止まったエメロードを払い落とすと、ヒルダはタペストリーを凝視しながら言いました。



「追うぞ。魔女の毒がどれだけ苦いかわからせてやる、すぐにな」


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