第12話



 それは演技のレッスンが始まって一ヶ月が過ぎた頃。夏の暑さもやわらいで、肌寒さを感じる時期でした。仕事を終えたロザンヌが自宅に帰って来ると、ある違和感を覚えて思わず家の前で立ち止まってしまいました。

 居間の明かりが点いていません。いつもならロザンヌの帰宅を待ってから三人で食事をとるのに、今日はどうしたというのでしょう?

 嫌な予感に襲われ、ロザンヌは慌てて玄関を開きました。

 家中が真っ暗です。


 ―― いったいどうしたの? まさか強盗?


 早鐘のように心臓が鳴り続ける中、ロザンヌは平穏をよそおって暗がりへ呼びかけました。



「ちょっと、どうしたのよ? かくれんぼでもしようっていうの」



 あるいはそんな問いかけが穏やかな日常を返してくれるのではないかと信じて。

しかし、返ってくるのは静寂だけでした。

 怖々と居間に足を踏み入れれば、やはり夕食の支度が出来ていません。その代わり、空のダイニングテーブルを挟んで向こう側に誰かが立っています。

 闇の中、立ち尽くす姿は角の生えた小さな影法師でした。

 ロザンヌは思わず息をのみました。



「ら、ライチなの……貴方どうしたのよ、その格好は?」

「実は少し前から準備していました。旅立ちのために」

「旅立ちって……?」

「ここでの生活は温かく素敵なものでした。でも、吟遊詩人としてそろそろ私は行かなければなりません。いけ好かない母と一族なれど、彼等を見返すために与えられた使命を果たさねばなりませんから。この衣装はドゥルド族の正装なんです」



 鹿の角が生えた山高帽子とピアノの鍵盤けんばんを思わせるシマシマのマフラー。草色のマントと濃緑のベスト、そして茶色のズボンとロングブーツ。森の民の衣装に身を包んだライチはまるで別人のように見えました。

 ロザンヌは言われたことを飲み込めず、うろたえるばかりでした。



「旅立つって、ちょっと待ってよ。まず、ピエールはどうしたの?」

「本当に申し上げにくいのですが、彼はもうここには来ません。来れません。立つ鳥跡を濁さず、貴方の人生に巣食う毒虫を追い払っておきました」

「え?」

「痛めつけて、おどしをかけてしまいましたから。もう二度と来るなって」

「はぁ? アンタ人の婚約者に何してくれるのよ」

「婚約者ではありません。彼は嘘つきです。ロザンヌさんもそれはご存知だったはず」

「いったい何があったの!」

「肉体関係を迫られました。貴方と言うものがありながら、いけしゃあしゃあと。それが実技試験なんだって……同じ家に住むロザンヌをだまし通せたら合格なのだそうです」

「ああ! 嘘でしょ。嘘だと言って。なら、どうして私に相談しないよ」

「言われるのが怖かったんです。それでも我慢しろって」

「はぁ!? アンタ、アタシのことを何だと……」

「だって! ずっと黙認していたじゃないですか! あの人が今でも複数の女から金をみつがせていること! 毎日毎日やたら贅沢ぜいたくな服を着て、そんな金、ロザンヌさんだけの財布で足りるわけがないんです。私は許せなかった。ロザンヌさんをだまして、裏で笑っているあの嘘つきを!」



 ロザンヌは膝から崩れ落ちました。

 世間知らずだなんてとんでもない。この子は全てお見通しだったのです。

 ピエールの裏切りも、見て見ぬフリを決め込むロザンヌの弱さも。

 掌に触れる床板の感触はやたら冷たいものでした。毎日、三人で踏みしめていた敷板だというのにそこから温もりは消え失せていました。

 ロザンヌは涙声でポツリと呟きました。



「それでも、相談して欲しかったかな……なんて」

「ごめんなさい。私も出来る事なら貴方との生活を続けたかった。こんなに人から優しくしてもらえたこと、初めてだったから。まるで本当に姉が出来たみたいで……」

「うるさい! 勝手なこと言うな」

「え?」

「アタシの家を滅茶苦茶にして、アタシの人生を更地さらちにしておきながら、一人出て行くと言うのね! 疫病神のくせに、何が姉だ! とっとと出ていっちまえ。アンタの顔なんか見たくもない!」

「……更地さらちならまた新しい家が建てられます。ロザンヌさんならそれが出来ます」



 激高したロザンヌは、勢いよく立ち上がるとライチに平手打ちをくらわせました。パァンと乾いた音が室内に響きました。

 殴られて向きの変わったライチの横顔がゆっくりとロザンヌの方へと向き直ります。

 張られた頬が赤くなるほど力がこもっていたのに、ライチの表情はなぎの海みたいに静かなままで……いえ、よく見ればその目から涙があふれ出ていました。

 一度あふれてしまえば、もう感情は止まりません。ライチはうつむき、嗚咽おえつ交じりの涙声になって言いました。



「すいません。でも、でも、貴方が不幸になる所を黙って見過ごすことなんて……」



 ロザンヌは殴った手を静かに握りしめました。爪が掌に刺さり、血がにじんでいました……けれど、その痛みはむしろ救いですらありました。

 愚かな己への罰として。


 ―― まだ更地じゃない。でも、私の態度次第で最後に残った一つすら失ってしまう。


 ロザンヌは深呼吸をして昂る感情をねじ伏せると、うつむきながら泣いている可哀想な妹を抱きしめてやりました。



「手を出しちまってゴメンよ、ついカッとなっちまった。我ながらダメな女さ、アタシは。ピエールとはもうどうにもならない……それはアタシが一番よく知っていたのに。涙を拭いとくれ、私の妹。旅立ちに涙は不要よ。よしよし、大丈夫さ」



 いったいどれほどそうして抱き合っていたでしょうか。

 やがて漏れていた嗚咽おえつが止むと、ライチはゆっくりと顔を上げロザンヌから体を離しました。



「ごめんなさい、最後まで甘えてしまいました」

「いいや、アンタは強い女さ。曲げちまったら、夢も恋もそこでおしまいなのさ。でもね、これが現実かもしれないよ。アンタのお眼鏡めがねにかなう本物の愛や冒険は世界のどこを探しても見つからないかも」

「その時は美しい嘘を歌にしましょう。見つからないのなら作ってしまうべきなのです」

「やれやれ、まいったね。アンタって人は」


「……ロザンヌ・ライ・バクスターさん」

「なんで唐突に人のフルネームを呼ぶんだい」

「私もその苗字を名乗ってもいいですか? ミドルネームとファミリーネームを」

「構わないけど、アンタそれでいいのかい?」

「貴方の名前を世界のテッペンにかかげてみせます。いつの日かきっと」

「そうかい、約束だね。ライチ・ライ・バクスター。略してライライってとこかね」



 こうしてライチはライライになったのです。

 パリエスの下町「燃え尽き横丁」から世に解き放たれた嘘つき詩人。彼女が頭角を現すのはまだまだ先のことなのでした。











 ―― あれ? 想像してたのとまったく違う話だぞ!?


 時は現在、セイヌ川の河原で話を聞いていたハービィは内容があまりにも重くて愕然がくぜんとしていました。それはハービィのみならず、席を並べて拝聴する まだ年若い洗濯女たちも同様でした。

 ハンカチで涙を拭く者までいる始末です。



「おいたわしや、お姉さま。昔からお人好しでしたのね」

「我々の私生活に口酸っぱく意見するのも、自身の失敗があればこそ。生意気いってすいませんでした。その失敗談をもとに『私達は』幸せになりますから!」

「……アンタ達の参考になれば『私も』幸いだよ」


 ―― うーん、昔のライライが職場に馴染めなかった理由、凄く判る気がする。


 適当に涙する後輩たちをあしらうと、ロザンヌはハービィに向き直りました。



「アタシの言いたいこと、判ってくれたかい?」

「何となく……ですが。あの子を裏切らない男であれ……と」

「そう、あの子はもう十分すぎるほど傷ついたのさ、せめてアンタが幸せにしてやっとくれ。なんのほまれもないウチの家名をわざわざ背負った可愛い妹なんだ」

「ええっと、ちょっと話を整理させて下さいね。ライライは三年前にロザンヌさんと数ヶ月生活を共にして再びパリエスを旅立った。すると、彼女のパトロンやパリエスにあるアトリエは?」

「そこいらはアタシも余り詳しくはないんだけど。一年くらい前からパリエスに戻ってきたようだね。アタシの所へも挨拶あいさつにきたから。『活動拠点をここに設けるので、宜しくお願いします』って。すっかり大人びているものだからビックリしたよ。てっきり旅先で探し物が見つかったと思ったんだけど……あの子が結婚したって話は聞かないんだよねぇ」

「うぐっ、旅先で真実の愛を見つけたんですかね……」

「アンタの為に言っておけば、仮にそうだったとしても今は独り身さ。女の勘だけどね。あの子の顔には憂いがあったから。アタシの知らない間に不幸があったのかもね」

「……うぅ、詮索せんさくついでに、もう最後まで訊かせて下さい! お話にあったドゥルド族の『果たすべき使命』というのは? 何か聞いていますか?」

「アンタ達が今やっている事じゃないのかい? 何でも歴史に埋もれた古い英雄たんを現代に蘇らせなきゃいけないそうだよ。だからね、伝説通りにアンタが世界を救えばドゥルト族の使命はオシマイ。その後はライライの好きな歌を作れるってコトじゃないかね。あの子、いつかアタシみたいな女の歌を作ってみたいって。大きなお世話だよ、まったく」

「俺と一緒に居るのは……それが使命だから?」

「おっと余計なことを言ったようだね。あの子が中年オヤジを嫌うのはピエールに信頼を裏切られたからさ。アイツが下心を出すまでは、本当に仲良くやっていたんだよ? 自分も同じ真似をするなんてアタシには信じられないけどねぇ」



 そこで一人の洗濯女が口を挟みました。



「英雄さま、一言だけよろしいかしら? 『男女の信頼は鏡映し』という言葉があります。相手の浮気を疑しく思える時は、自分の心が揺れ動いているからなのだと」

「ミレイユ、アンタ良いこと言うねぇ。そうさ、男ならドンと構えていなよ」

「は……はい!」


「ちぇ、見ていられないなぁ。結局、丸め込まれているじゃないか」



 ようやく話がまとまりかけたその時、聞き覚えのあるキンキン声が調和を乱したのです。

 近くの草むらがガサガサとうごめき、騎士の被るヘルメットとその頭頂部から生えたフサ飾りが姿を現すのでした。そう、声の主はリス人間のラタ・トスクでした。

 ハービィは反射的に木刀をつかむと、いきり立ちました。



「お前、こんな所で何をしているんだよ」

「何って、仕事。言っておきますと、教団から派遣された君たちの監視役だよ、僕は。ライライちゃんが執筆活動にかかりっきりで退屈だから、仕方なく君の方を見に来たの。そしたら浮気の最中でやがんの」

「いきなり何の言いがかりだ」

「はいはい、浮気じゃなくて情報収集ね。まぁそうだね、噂好きの女性から話を聞くのは間違ってないと思うよ。たださー、世の中で一番頼りになるのはやっぱり僕みたいな男友達だと思うワケ」

「と、友達。いったいどの口で」

「友達さぁ、前に負けて経験値稼がせてやったじゃん? アレがなかったらカエルに勝てたのかい? そしてホラ、友達思いの僕は君の悩みを解決する答えだって提供しちゃう。こないだライライちゃんを見張っていたら決定的シーンを目撃しちゃったんだよね」



 ラタは丸まったリスの尻尾しっぽをゴソゴソするとバラの花束を取り出したのです。



「お前の彼女、こんな花束を手にお出かけしてたぞ。どこに行ったか気になるだろ?」

「なんだと!」

「案内してやるからついてきな。他にも大事な話があるからすぐ来いよ。五秒以内な、マイフレンド」



 言うだけ言うと、ラタはそそくさときびすを返して走りだしました。

 とても友達とは思えないが、奴なりに考えがあって誘いをかけているのでしょう。

 ハービィは事の成り行きを見守るロザンヌたちに「おいとまごい」をすべく振り返りました。



「本日は素敵な席と貴重なお話をありがとうございました。けれど、申し訳ありません。ちょいと野暮用が入ってしまいました」

「何だか不穏な感じだね。気を付けてお行き。どんなことを言われようともアタシ等に聞いた話も忘れんじゃないよ。ライライはきっと良い子だ、全てはアンタの頑張り次第。いいね!」

「はい! サンドイッチ美味しかったです」


「あら、英雄様がお帰りよ。じゃあ皆で練習した奴をやろうよ」

「いいわね、それじゃタイミングを合わせて、精いっぱい可愛くね」

「せーの、いち、に、のそれ!」


『アルカディオ様ぁ、世界を救って下さい……「ね!」「よ!」「な!」



 語尾がろくに統一されていませんが洗濯ガールズの歓声を浴びながらハービィは河原を立ち去るのでした。

 少し前なら大勢の女性に応援され、喜び勇んで奮起ふんきしたことでしょう。ですが今は心にのしかかるプレッシャーが勝り、とても素直には喜べなかったのです。


 どうにか気持ちを切り替えて、ハービィはラタ・トスクとの追いかけっこに意識を集中させるのでした。

 ラタの奴ときたら相変わらず人間離れした運動能力です。ついさっき舗道ほどうを走っていたかと思えば、いつの間にか商店街の軒先へ飛び乗って、そのまま屋根の向こう側へと消えるような輩なのです。とても追いつけるものではありません。

 ですが、今回は向こうから誘っているのですから……。

 時折ラタは振り返ってハービィが諦めずについてくるのを確かめていたし、ヒントになるよう目立つ場所にバラの花を一輪落としていくのでした。

 ラタ本人よりも落ちているバラを追いかけていると言った方が正解かもしれません。


 郊外の川岸から商店街を抜け、南部の町はずれまで。

 最後に辿り着いた場所は物静かな共同墓地でした。

 ついさっきまで乙女の花園で盛り上がっていたというのに今は墓場。あまりの落差に頭が付いてきません。ですが、最後のバラ一輪は間違いなく開かれた墓地の門へとハービィを誘っているのです。

 走り続けて乱れた呼吸を整えると、ハービィはツタの絡んだ格子門を潜るのでした。


天ノ瞳スター・アイズ教団管轄かんかつ区』


 門にはそう彫られた札が掲げられていました。

 白砂の道で碁盤ごばんの目のように区切られたエリアには、所狭しと墓標が並んでいます。その種類は十字架であったり墓石であったり、様々です。

 門の奥は十字路となっていました。正面には苔むした納骨堂があり、左右の道は墓場の先へと続いているようでした。遠くの枯れ木ではカラスが鳴いていました。



「おっ、やっと来たか。こっちだ、こっち」



 見れば十字路の右手でラタが手招きをしていました。

 ハービィが近付くとフッと居なくなってしまうのですが、分かれ道に差し掛かるとまた姿を見せてこちらへ手招きしてくるのです。何だかからかわれているような気分ではありませんか。


 そして遂に見つけたのです。

 真っ赤なバラの花束で飾られた、まだ新しい墓石。

 共同墓地のすみっこにそれはひっそりと混在していました。

 一目見た途端、ハービィもこれだと思いが至りました。

 これこそがラタの見せたかったものだと。


 ラタの持っていたバラは道すがら配り切ってしまったのですから、これは別の花束です。すなわち(ラタの言い分を信じるのなら)ライライが置いていったものなのでしょう。


 いったい誰の墓なのでしょうか?

 ハービィはしゃがみ込んで墓碑銘ぼひめいを確かめてみました。


『クリム・D・ラスペード』


 亡くなったのは一年と二ヶ月前、そしてその下にはこんな碑文が彫られていたのです。


『仮面の英雄アルカディオとなり、この世の不条理に立ち向かった男、此処に眠る』


 ハンマーで殴られたような衝撃を受け、頭が真っ白になってしまいました。視界がグルグルと回転しているような気分でした。

 ハービィが思わずその場に膝をつくと、すぐ後ろから聞きたくもない声が話しかけてきたのです。



「ド鈍い英雄気取りでも、これはピーンときたよな? それが先代アルカディオの末路さ。お前さん、馬鹿正直に『仮面の英雄』を演じていたら、いずれそうなってしまうんだぜ」

「……いったい誰なんだこの人は」

「そうくると思って教会の台帳を調べておいたよ、マイフレンド」



 ラタの調査によれば、このクリムという男性はF国の人間で、生まれはパリエスから南に八百キロ、ピレネ山脈のふもとに広がったガザル領の出身。伯爵の三男坊という話でした。享年きょうねん二十四歳。



「しかも私生児のようだね。三男で私生児となると故郷には居づらかったんじゃないのかな。武者修行と銘打めいうって、たった一人の弟と共に放浪の日々を送っていたようだぞぉ~」

「その途中でライライと出会ってアルカディオの仮面を渡されたのか」

喪主もしゅはその弟さん、葬儀に出席したのは母親を含めた身内のみ。名簿にライチの名は見当たらなかったよ。出なかったのか、呼ばれなかったのか……そこまでは知らないけどね。死因は不明。台帳に書いてなかった。そういうケースって大抵は遺体の損傷が酷いとか、もしくは……」

「もう十分だ。わざわざ墓をあばくような真似をしなくてもいいだろ」

「君が満足ならそれでいいさ。寿命で死んだわけじゃない。それは確かなんだから」



 近くの墓標にカラスがとまり、不気味な鳴き声で二人を威嚇いかくしました。

 ラタは足元の小石を拾ってカラスに投げつけて追っ払うと、改めてハービィに問いかけたのです。



「ここまでコケにされて、まだあの女に尽くすのかい? いい加減にしなよ」

「それは俺と彼女の問題だ。事実を言ってくれなかったのは確かにショックだが、誰にでも話したくない過去の一つや二つぐらいあるだろ。ラタ、それは、お前にだってあるんじゃないのか?」

「ふん! しぶといな。まぁ、そうこないと面白くないけどさ。英雄ゴッコを続けるというのなら、僕も役割を果たしてコレを渡せるというものさ」



 ラタは尻尾から便箋びんせんを出すと、ハービィにそれを差し出しました。



「覚えているかな? 頂天騎士のアガタ様からだ。僕の報告を聞いて、彼女はいたく君を気に入ったらしくてねぇ。僕の頭をぶん殴ったエピソードが余程痛快だったんだろうな」

「お前、仲間にも嫌われているのか? でも、そのアガタ様が俺に何の用なんだよ」

「簡単に言えばスカウトだね。天ノ瞳教団と手を組むつもりはないかって書かれているはずだよ」

「ええ!?」

「僕たちだって世の中の異変から無辜むこの民を救うべく活動しているワケ。目的が同じなら協力できるんじゃないの?」

「いきなり言われてもな……アガタ様は俺に何をしろと言うんだよ」

「このF国で近々歴史的大事件が起きる。それを共に食い止めて欲しいんだ。国王のイル六世が何をトチ狂ったのか、天ノ瞳教禁止令のお触れを出すそうなんだ」

「なんだって!!」



 歴史は浅いながらも、かの教団は世界的な宗教団体です。

 特に熱心なのはお隣のD国王カルマン二世で、天ノ瞳教を国教と定めただけでなく、騎士団領を住民ごと寄進したのは有名な話でした。そんなD国の意向を無視して排斥令はいせきれいを実施すればどれほど両国の関係が悪化するのか知れたものではありませんでした。

 ラタはフンと鼻を鳴らしました。

 彼のような悪戯者でも、このような事態は望ましくないようです。



「イル六世の唐突な心変わりには何か原因があるはずなんだよ。これまではF国ともウチは上手くやってきたんだ。禁止令が実施されたら国内で信徒は大っぴらに動けなくなる。それどころか関係者の国外追放すら有り得そうなんでね。ここは是非とも部外者の力を借りたい所なのさ」

「そっちの事情はわかったよ。でもライライが教団を嫌っているんだ。俺の一存では決められない」

「ライライちゃんのオマケだもんね、君は。しかし、悪い話じゃないと思うよ。社会を救うために手を組もうじゃないか。ホラ、世界の滅亡に興味があるんだろ? 黙示録の預言書を特別に見せてやるよ」



 ラタがくれたのは色あせて黄ばんだ紙が一枚っきり。

 預言書というか、あからさまに本のページをビリビリに破った紙切れです。

 あまりにも雑な仕事っぷりにハービィは眉をひそめました。



「こういうのはさぁ、普通は本ごと貸してくれるもんじゃない? 付箋ふせんとか張って」

「いーだろ、別に。持ち出し禁止の書簡しょかんなんだから。教団でもごく一部の人にしか読めない貴重品なの」

「貴重な本を破ったのか、お前って奴は」

「文句が多い奴だな! いいから読め」

「……どれどれ」


『海よりも広く、瘴気しょうきたれこめる毒の沼。そのほとりに林檎りんごの巨木あり。毒の瘴気はやがて果実を腐らせ、林檎は木から落ちる。落ちた獲物を喰らいて、空腹の竜は満ち足りる。破滅の竜が眠りし その時にこそ、真の福音は訪れる。―― ハンネ黙示禄第一章九篇』


「なんじゃ、この寝言は」

「預言なんてそんなもんさ。難解なものよ~」

「北の荒野じゃ大地が腐り始めているそうだけど、それについても書かれているのか? この預言とやらは」

「んー、多分そうじゃない?」

「いい加減すぎるだろ……まぁ、これも一応ライライに見てもらうか」

「そうそう、ご主人様に判断を仰ぎなさいよ、勇者さま。おっと、そんな顔するなよ。これからしばらくは仲良くやるんだからさ。終末が近付けば世は乱れ、思いがけない事件が起こるもんさ。焦らず一つずつ解決していって世直しを進めていこうぜ、ヒヒヒ」



 正直、ラタに言われてもまったく乗り気がしません。

 頂天騎士やラタをどこまで信用してよいものか。いえ、そもそも先代アルカディオのことを話さなかったライライとこれからも上手くやっていけるのでしょうか?

 思えば、ハービィの心に芽生えたライライへの疑心を取り除くために、ちょっとした情報収集のつもりで話を聞きだしたのが始まりでした。

 いつしか情報の荒波に押し流され、不安や悩みの種は取り除かれるどころか胸の内で大きくなる一方。それなのに、ハービィの前へ立ちはだかる事件ときたら容赦ようしゃなく困難になっていくようです。それと共に周囲の期待も目に見えて高まっていくのだから困ってしまいます。

 ひとことでまとめれば、とてもつらい。それはもう英雄に憧れる夢見がちな少年が耐えられる範疇はんちゅうを遥かに超えていたのです。

 ラタと別れ、墓場の門を潜るハービィは天を仰ぎ愚痴らずにいられませんでした。



「もう勘弁してくれよ……何だよ、みんなして。俺なんかに」



 近所のゴロツキを相手にする段階は終わり、街の熱血漢はいよいよ国の英雄へと歩を進めようとしています。その一方で英雄ノイローゼ、あるいは英雄五月病ともいうべき病が真綿まわたで首を締めるように彼を苦しめている……その事に気付いているのは、ただ本人だけだったのです。


 そして、人目が無くなった途端に態度をガラリと変えている者がここにもう一名。

 ラタはハービィが去ったことを横目で確かめてから、いそいそと持ち出し禁止の本を尻尾から出して眺めるのでした。

 それは一ページだけを切り取られた黙示禄預言書でした。

 その表紙を見ながらラタは単身ほくそ笑んだのです。



「すまないねぇ、マイフレンド。いくら君が鈍くてもこの表紙を見られたら何かを勘付くかもしれないからさ。本の方を渡すわけにはいかなかったんだよ」



 タイトルの下には燐光を放つ紋章が押し印されていました。

 そのシルシの形と雰囲気は、なんとアルカディオの仮面に付与する『トリケトラの紋』とソックリだったのです。



「まっ、信仰心を集めているのは君だけじゃないって話さ」



 ラタは高らかに笑うのでした。



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