第5話 転生者たち
朝日がまぶしくて目が覚めた。
ちゅんちゅんという鳥の声。朝特有のけだるさ。
そしてすぐ隣では白髪の少女が眠たげに目をこすっている。寝巻は若干乱れており、こちらを見て「おはようございます」とはにかんでいる。
「なんという事後感」
完全なる朝チュンである。フィオナが来ているのが自分のワイシャツだったら身に覚えがなくても責任取らなきゃなーって思うところだ。
昨夜は何もなかった。緊張して眠れないかと思いきや疲れていたのか一瞬で眠ってしまった。そんな状態で朝チュンも何もない。
深呼吸をひとつ。なんかいい匂いがするなーって思ったのは無視。余計なことを考えるとまた脳がバグる気がした。
フィオナに挨拶して部屋を出る。鍵は開いていた。
ダイニングではグレンとミオがにやにやしていた。
「昨夜はおたのしみでしたね」
「おたのしみだったのです」
「お楽しんでねーんだわ」
「…………?」
遠慮も忘れて言い返すトーマと元ネタが分からずきょとんとするフィオナ。
その様子に察するものがあったのか、ミオが今にも舌打ちしそうな顔をした。
「とんだチキンなのです」
「うるせーのです。その言葉、そっくりそのままお返しするのです」
「真似すんななのです!?」
「語尾に『のです』つければキャラが立つと思うななのです!」
「ミオのアイデンティティを奪うななのですー!」
閉じ込められたこともあり喧嘩腰なトーマにかみつくミオを見てグレンは愉快そうに笑っている。
よく考えればミオはグレンの妻的なアレだ。あんまり雑な扱いは良くないかもしれない。
両手をあげて威嚇するミオをよそにグレンに会釈した。
「なんかごめんなさい。でも大人げないからかいはやめてほしいなって思います」
「大人げって、俺はまだ十八だぞ」
「うっそだあ!? ……いやでも言われてみれば確かにそう見えなくも……?」
グレンは精悍な顔立ちをしている。都市の代表を務めているという情報もあり若くても二十代後半だろうと思っていた。
あらためてじっくり見てみると確かに若い。肌はつるりとしているしほうれい線もない。
「アラサーだと思ってました……」
「あ、アラサー!? 十代ピチピチの俺がアラサー!?」
「ピチピチって言葉からも年齢がにじみ出て……」
「まじか……いや、転生前の年齢も加算すればそれくらいか……?」
予期せぬところで傷付くグレン。トーマは濁したがおっさん臭いと思われたことは明白で、ちょっと気をつけなきゃと思った。
「フィオナ、朝ごはんを用意してあるのです。トーマもさっさと食うのです」
「ああ、そうだ。トーマ君、フィオナちゃん、朝飯食ったら時間もらっていいか。紹介したい奴らがいるんだ。ついでに街の案内もするよ」
「まじですか。お願いします。フィオナはどうする?」
「私はトーマについていきます」
朝食後、トーマとフィオナはグレンに街へ連れ出された。
ザ・ファンタジーと言うべき街並みだった。道路は石畳で舗装され、石造り、レンガ造りの立派な建物が並んでいる。
フィオナが言うにはグレンが一代でこの街を作り上げたらしいが、もともとあった街を再利用したか、建築系のチート持ちが協力したのだろう。いくら魔法があるとはいえ、二十年足らずでこの規模の街と作り上げることは困難なはずだ。
人を見てみれば、ケモミミとか肌が青い人とかハロウィンくらいしか見かける機会がない姿の人々が闊歩している。
トーマとフィオナがおのぼりさん丸出しできょろきょろしていると、グレンが四角い建物の中に入っていった。
付いていくと広い空間があった。外から見ると石造りだったのに、床も壁も木で出来ており、外と全く雰囲気が違う。
フロアにはいくつもテーブルと椅子が並び、受付窓口がある。窓口の横には大きな掲示板に紙が張り出されている。
「もしかして冒険者ギルド的な」
「的じゃなくて冒険者ギルドそのものだ」
見るほど納得の冒険者ギルドっぽさだった。外の人は現代日本でもおかしくない服装だったり、中世ヨーロッパっぽい服を着ている人が多いのに、ここでは半裸にトゲトゲした鎧を着たチンピラっぽいのがいる。外と比べたらここが異世界というレベル。
「すまない、この二人の登録と検査を頼む」
「まあ、グレン様じゃないですか! すぐに準備しますね!」
グレンがやたら美人な受付嬢に声をかけると受付嬢は奥に引っ込んだ。そして十秒もしないうちに「準備ができました!」と戻って来た。
「ではこちらの書類にお名前をご記入ください。そのお名前で冒険者カードに登録します」
「まさか実在するんですか冒険者カード」
「実在しちゃうんだなコレが。冒険者ギルドがある国ならどこでも使える身分証だ」
つまり冒険者ギルドは国をまたいで存在する巨大組織ということになる。まさかこの世界にはインターネットとか、最低でも電話があるのだろうか。それとも情報系チート持ちの転生者が組織したのだろうか。
受付嬢から渡された用紙はファンタジー言語で書かれていた。転生特典なのか普通に読めた。自分の名前をどう書けばいいか分かったので素直に書いた。
「ではこちらがお二人の冒険者カードです。能力や魔術適性も記録されるので、ぜひ参考になさってください」
「能力とかってどうやって測定するんですか? これから試験をするんでしょうか」
「? カードを持てばすぐに表示されますよ」
「まじかー」
触るだけで情報が読み取れるとか、便利を通り越して個人情報の保護が難しそうだなと思ってしまった。
「安心しろトーマ君。カードの所有者以外は情報を表示できないから」
「……確かに、名前しか書いてないですね。登録情報ってどうやって見るんですか」
「こうするんだ。『ステータスオープン』」
グレンが自分のカードを手に呟くと、グレンの前に中空ウインドウが表示された。
手招きされて覗き込んでみると名前とHP、MPが表示されていた。
「私も試してみますね。『ステータスオープン』」
フィオナが自分の前にウインドウを表示させる。
グレンはHPとMPしか表示させていなかったが、デフォルト設定になっているのかフィオナのカードには筋力などのパラメータも表示されていた。
「筋力、敏捷は一般人に毛が生えた程度だけど、魔力が高めだな」
「そうですね、強化魔法や回復魔法の適性が高いので、支援役として活躍できそうです」
グレンと受付嬢がカードを覗き込んで品評している。勝手に見ていいものなのかと戸惑うトーマに三人の視線が刺さる。
「トーマ君は見ないのか」
「いや、見ますけど、なんかこう……ええい、す、『ステータスオープン』」
マンガのテンプレみたいなことを現実にするのが気恥ずかしくて声が震えてしまった。
震えた声でもウインドウは開いた。半透明のウインドウにはトーマの名前やパラメータがしっかり表示されている。
「なっ、なんですかこれは!」
「おおー、すごいな」
受付嬢とグレンが驚嘆する。フィオナもウインドウを覗き込んでいるが、二人が驚いた理由がよく分からなかった。グレンがすごいと言っていたのでご満悦ではある。
トーマには二人が驚いた理由がなんとなくわかった。
「全ステータスがAランク、魔術適性に至っては全属性で百パーセント、こんなステータスは初めて見ました」
受付嬢が感極まったように言う。
こういうの個人情報に当たらないのかなーと思いつつも、テンプレだからしょうがないかと諦める。
周囲のいかにも冒険者といった人々もざわざわしながらトーマを見ている。
「転生者ならこれくらい他にもいそうですけど、いないんですか」
「いませんよ。汎用性で言えば全転生者の中でもトップだと思います」
「転生者は何かしらに特化した能力している人が多いな。例えば俺は魔力が高くて、適性は火属性に特化してる。ホレ」
グレンがウインドウを見せてきた。パラメータはBランクとCランクが混じる中で魔力だけSランクとなっている。魔術適性は火属性が測定不能、光属性が百パーセントと高い一方で氷属性がゼロパーセントとなっている。
「火属性の測定不能っていうのはギルドでも測定できないほど高いってことですよね」
「そう。火属性を通り越して焔属性って固有属性扱いされてる」
パラメータは通常FからAランクまで振り分けられている。Fランクで一般人レベル、Aランクは人間が到達できる最高峰である。Sランクは限界突破で測定不能、逆にF-ランクは一般人以下を表す。
「転生者はたいがい特殊能力を持っていて、能力に合わせたパラメータになっている。だからここまで万能型ってのは珍しいんだ」
「なるほど」
異世界転生といえば万能チートを持っているというイメージがあったが、ここでは違うらしい。一人で万能よりも欠点がある方が主人公的だろう。それを補う仲間がいれば完璧な王道だ。
「とりあえず冒険者なら能力不足はないってことですよね」
「むしろオーバースペックなくらいだ」
「はい、シャングリラ冒険者ギルドはあなたを歓迎します!」
「よかったですねトーマ!」
フィオナが控えめに拍手している。トーマとしても食い扶持は稼げそうで一安心である。
「ま、依頼を受けるにしても明日からにしてくれ。とりあえず他の転生者への顔見世だ」
「顔見世なのに真っ先に冒険者ギルドに来たのは何か理由があるんですか」
「忘れないうちに身分証作っとけってのと、転生者の一人からのリクエストだな。自分に会いに来る前に適性調べとけって」
「結果次第で門前払いされる感じですか」
「それはないと思うが……この結果ならむしろ歓迎されるだろうから安心していい。リクエストした奴は時間かかりそうだから、先に他のところに行くぞ」
三人は冒険者ギルドを後にする。ギルドのすぐそばにある店に案内された。
シンプルな店構えだった。中からカンカンと音がする。
「ムラマサー、入るぞー」
グレンが店の扉を開くと褐色の髪の若い男が赤熱した金属を叩いていた。
一心不乱に鎚を振るう男はグレンに気付いた気配がない。
本当にアポイント取ったんですか、というトーマの視線にグレンは取った取った取ったはず、と視線を返す。
がちんと一際大きな音がして、赤熱した金属が『くず入れ』と書かれたスペースに放られた。
「あれもダメだな……おうグレン、来てたのか」
「お、おう、約束通り来たぞ」
どうだ、ちゃんとアポは取ってたんだぞ、という視線が鬱陶しい。
振り返って立ち上がった男の眼光は鋭かった。袴のような下履きとは対照的に上半身は肌着のみであり、体が鍛え上げられていることがよくわかる。
「初めまして、トーマです」
「ムラマサだ。武器が欲しくなったらオレのところに来な。転生仲間ってことで一本目はオマケしてやる」
「ムラマサはシャングリラ随一の鍛冶師だ。数打ちの剣でもそこらの魔剣以上の性能をしてる。そのぶんお高いけどな」
「職人が技に見合った報酬を求めるのは当たり前だろうが」
「そりゃそうだな」
グレンとムラマサが笑っている間に店を見回すと、そこら中に刃物が置かれている。槍や剣といったポピュラーなものから、持ち上げることすら難しそうなハンマーもある。奥の鍛冶場には無数の日本刀らしきものが転がっている。
刀主人公はみんなの憧れ、ロマンだなとトーマは頷いた。
「そういえば、ムラマサさんはどうやってこの街へ来たんですか?」
「ンなことが気になるのか? オレはクラスメイトたちとまとめて召喚されたんだが、生産系の能力なんてくだらないって追放されてな。いい素材が集まりそうな場所を渡り歩いてたらここにたどり着いた」
「じゃあクラスメイトの人たちもチート持ってこの世界にいるんですね」
「ああ。ほとんど死んじまったけどな。安い武器を使うからだ」
ムラマサはハッと吐き捨てた。
しかし、目の前にトーマがいることを思い出してすぐに表情を和らげた。
「また時間があるときに覗きに来いよ。なんなら分割の支払いでも相談に乗ってやる」
にやりと笑うムラマサに見送られ、トーマたちは店を出た。
―――
「次はここだな」
「なるほど、食堂ですね。でもお昼にはまだ早くないですか」
次に案内されたのは小綺麗な店だった。看板を見るまでもなく飲食店だと分かる。にやに食欲をそそる香りが目の前の店から漂っているからだ。
さっき朝食を食べたばかりなので食堂へ案内するのは早いのではないかと思う。とはいえ匂いを嗅いでみると余裕で食べられる気がしてきた。
不思議なほどに腹が減る。朝食を食べたのが半年くらい前ではないかと思えてきた。いまだかつてない空腹感に襲われる。
「食堂ではあるけど、食べに来たわけじゃないから。昼時になると忙しいからその前に挨拶だけ済ませておこう」
「こんないいにおいをかがせておきながらおあずけとか……!」
「尋常じゃなくおいしそうなにおいがしますね……」
トーマもフィオナもよだれを垂らさないよう必死である。
これにはグレンも慌てた。この店の食事はとても旨い。しかしグレンにとっては食べなれたものなので、初見の二人にどれほど影響を与えるか読み違えた。
「……おにぎりくらい出してもらえないか交渉してみるからちょっと落ち着けな」
トーマとフィオナはぐっと拳を握った。
大丈夫かな、と珍しく不安げな顔をするグレンに連れられて店に入ると、若い女性が厨房に立っていた。
「サクラさん、いますか」
「お、グレンくんこんにちはー。そっちの二人が昨日言ってた子たちかな?」
サクラは厨房からトーマとフィオナを見た。二人は揃って会釈する。
トーマは驚いてた。サクラは名前通り、桜色の髪をしていた。そんな髪色はフィクションの中だけの存在だと思っていた。
「初めまして、サクラっていいます。ここでお店をやっているので、良かったら食べに来てね」
「トーマと言います。すごくいい匂いがするので近いうちに絶対お伺いします」
曇りなきまなこで断言しつつ「ぐー」と腹を鳴らすトーマ。今度はサクラが驚く番だった。
トーマがよだれを垂らしそうになりつつなんとかこらえたのを見て、サクラはぷっと噴き出した。
「素直な子だね。うん、楽しみにしてる」
「ちなみに営業時間は何時から何時でしょう。ランチとディナー、両方してたりするんでしょうか」
「ちょっと落ち着けトーマ君。あとで教えてやるから。あと若干よだれ垂れてるからふけ」
トーマがグレンに引っ張られているうちにフィオナは無難に挨拶した。ただし厨房の中をちらちら伺いながら。
「すまんサクラさん、ちょっとしたものでいいから何か作ってもらえないか? この朝飯食いたての欠食児童どもが手に負えん」
「んー、もしよかったらだけど、今日の夜にお店に来ない? わたしもお話したいけど、営業時間中だと喋っていられないし。遅い時間になってよければゆっくり食べれるディナーを用意するよ」
「ぜひお願いします」
トーマは即座に頭を下げた。
これほど良い香りがする店が人気店でないはずがない。きっと営業時間中は客の入れ替わりも激しく落ち着いて食べることが難しいだろう。食べたいメニューが品切れということもありうる。
お招きならゆっくりかみしめて味わいながら食べることが出来る。渡りに船とはこのことだ。とりあえず、食事に夢中で会話をおろそかにすることがないよう今から心構えしておく。
「じゃあ今夜、店が閉まった頃にまた来るよ。詳しい自己紹介はまたその時に。いくぞトーマ……トーマ君、行くぞって。仕込みの邪魔になるから早く、フィオナちゃんもよだれ垂れてるから拭いて!」
―――
「ここが今日最後の目的地、大図書館だ」
「でっけえですね」
「こんなに大きな図書館があるなんて……」
目の前のレンガ造りの建物は、五階建てはありそうだった。
トーマの地元にあった図書館と比べても格段に大きい。国会図書館と同じくらいか、もしかするとそれ以上に大きいかもしれない。
ほー、と感嘆するトーマとフィオナをよそにグレンはずんずんと図書館へ向かって進んでいく。二人も慌てて後を追う。
「おおー」
「本がこんなにあるなんて……」
図書館の内部は三フロアをぶち抜いた吹き抜けとなっていた。
見える範囲だけでも本で埋め尽くされている。地球に比べれば紙が厚く一冊が大きいとしても、蔵書数は一万や二万ではきかないだろう。
「二人とも、こっちだ。本に興味があったらこのあとゆっくり読むといい」
どんな本があるか見回しているとグレンに呼ばれた。
グレンは一階の片隅の階段に足をかけていた。どうやら上に進むらしい。
「今日紹介してくれるのはみんな転生者なんですよね」
「そうだ。ムラマサは鍛冶、サクラさんは料理、これから紹介するやつは魔術が専門だ」
「今から会う人が能力測定してから来るように言ったんですよね」
「そんなに身構えなくていい。研究大好きで自分の世界にどっぷりつかるタイプだけど、トーマ君たちを無下にしたりしないさ。他にも転生者は何人もいるんだが、今日会えるのは三人だけだ。機会があったらまた紹介するよ」
「よろしくお願いします」
ムラマサとサクラは話しやすそうな印象を受けた。これから会う人はすでに変わり者という印象を受けている。
転生者はみんな特殊能力を持っているらしい。特殊能力と書いてきっとチートと読む。
そんな強い力を持っていれば相応の態度をとってしまうことは想像に難くない。戦闘系のチートは特に注意が必要だと思う。
みんながみんなグレンのような性格とは限らない。ケンカに強いチートを持って増長している人がいたって不思議ではないのだ。うかつな言動をとってチート能力を向けられたら目も当てられない。いくら基礎スペックが高くても、スペックではどうしようもないことをできるからこそのチートだろう。
グレンが間に入ってくれればいきなり戦闘になって一方的にやられることはないだろう。
階段を上り、最上階にたどり着く。案内されたのは分厚い扉で外界と遮断された部屋だ。
グレンが拳でガンガン音を立ててノックする。
わずかに間をおいて扉がすーっと動いた。ドアノブが動かず扉が動くさまは少しだけ不気味だった。
部屋の奥から古い本のにおいが広がってくる。
「ようこそ、よく来たね」
においと共に声が浴びせられる。中性的な声だ。
グレンが前からどいたので姿が見えた。
小柄な少女だった。薄緑色の髪は転生前には見たことがなかったが、街を歩いているうちに慣れてきた。大きな眼鏡の奥には好奇心旺盛そうな目がきょろきょろ動いている。ゆったりしたローブを着ているので体格は分からないが手首や首を見る限り華奢そうだった。
「ボクはマギ。この図書館の主にして、シャングリラ最大最高の魔法使いさ」
マギはどやぁ、というオノマトペが見えそうなほどのどや顔で胸を張った。
思わずグレンをちらりと見るとグレンは重々しく頷いた。『言ってることは事実で、こういうやつだ』という声が聞こえた気がした。
「初めまして、トーマです。最大最高の魔法使いってすごいですね。もしかしてここは研究室なんですか?」
「そう、そうだよ! きみは察しがいいね。それに素直なのもいい。尊敬してくれていいんだよ」
にまーと笑うマギ。社交辞令ひとつでこんなに喜ぶ姿を見るとちょっと切ない気持ちになる。あんまりかまってくれる人がいないのだろうか。
ご機嫌そうなマギが「お茶を淹れてあげよう」と背を向けた隙に部屋を見回す。
大量の本が所狭しと並んでいる。棚だけでは収まりきらず、床に平積みされている本もある。大きな机にはフラスコや試験管が並んでいる。部屋の奥には本が置かれていないスペースがあるが、釜のようなものがあり、魔法陣らしきものが描いてあったりといかにもな雰囲気が漂っている。
「まあ座りなよ」
マギがパチンと指を鳴らすと小さなテーブルがひとつ、椅子が四脚現れた。魔法らしい魔法を見るのはグレンの炎以来である。あの時はバタバタしていたので、落ち着いて見るのはこれが初めてかもしれない。
トーマたちが座ったところにいそいそと慣れない手つきでお茶を持って来るマギ。手ずから淹れたお茶が行きわたったところで口を開いた。
「それで、能力診断の結果はどうだったんだい?」
「のっけからそれか。もう少しお互いの話をしてからの方がいいんじゃないか」
「どうせ聞くなら手っ取り早く要件を済ませた方がいいじゃないか。雑談なら後でもできるし。ボクは今、二人の能力が気になって仕方ないし。勝手に診断魔法使っていいならそうするけど」
「マナーとか個人情報保護とか身に着けた方がいいぞ」
「やだなあ、身についてるから事前に診断してもらってきたんじゃないか」
揃ってあきれ顔をするマギとグレン。グレンはふう、と息をついてトーマとフィオナに教えていいかと確認する。トーマとフィオナは揃って頷いた。
「フィオナちゃんは魔力値がCランクある。そんで強化魔法や治癒魔法の適性が高めだな」
「なるほど。じゃあ今度、そっち系統の本を見繕っておこうか。そっちの男の子は? きみが転生者だよね」
「聞いて驚け」
グレンがにやりと笑う。
「ほう、じゃあ期待させてもらおうか」
「グレンさん、あんまりハードル上げないでもらえると」
マギはトーマが転生者だと認識している。トーマもチートを持っていると考えているだろう。
チート能力持ちなら全能力Sランクとかグレンのような固有属性持ちだと思われるかもしれない。ハードルをあげられた挙句に落胆されるのは勘弁してもらいたい。
「トーマ君は全パラメータがAランク。加えて全属性適性持ちだ」
ガタっと音を立ててマギが立ち上がっていた。身を乗り出してトーマの顔を覗き込む。その目は爛々と輝いていた。
「そマ?」
「それはマジだ」
「ふーん、へー、そお? トーマくんといったね、きみ、なかなか筋力ありそうないい体をしているじゃないか。それに加えて全属性適性? ちょっとボクにステータスを見せてごらんよ。ああ、ウインドウなんて表示しなくていい。許可さえくれれば自分で見るから。見ていい? いいよね? 減るもんじゃないもんね?」
「え、ああ、まあ。はい」
物理的急接近にのけぞっていたトーマは勢いに負けて許可した。受付の人も勝手に覗いていたし、別に隠すようなものじゃないし、と自分を納得させる。
マギは身を引いて椅子に座りなおし、じっとトーマを見る。その口元はだんだんとだらしなく緩んでいった。
「うっわ本当に全属性適性持ちだ。これだけパラメータが高ければあらゆる雑よ……手伝いをしてもらえそうだし、魔力量も多いな。そのうえ性格も素直。うん、すばらしい。ところでトーマくん、きみはまだこの世界に召喚されたばかりと聞いた。ということは固定収入や住居もなくて不安な状態だと思うんだけど、どうかな」
「あ、はい。まあ」
「だろう!? 耳寄りな話があるんだ。中心街間近な部屋を斡旋してもらえて、月収五十万エアでボーナスもありっていう仕事があってね。あ、もちろん手取りだよ。活躍や実績によってはそれ以上の収入も目指せるし。仕事内容も毎日新しい発見があって楽しめること請け合いだ。これはもう契約するよね。するしかないよね。さあこの契約書にサインをうっ!?」
「勢いで承諾を取ろうとするな!」
再び詰め寄って来たマギの頭にグレンのげんこつが落ちた。マギがつぶれたカエルみたいな悲鳴を上げた。
マギは頭をさすりながら顔をあげる。
「うう……だってこんな優秀な人材、次はもうないかもしれないんだぜ。確保しようとするのが当たり前じゃないか」
「だからって戸惑っている相手に詰め寄るな。トーマはまだ給料の相場も知らないんだぞ。ていうか部屋の斡旋って図書館の一室に住まわせるつもりだろ。研究を手伝わせるつもりだろ」
「グレンさん、さっき五十万エアって言ってましたけど、日本円でいくらくらいなんですか」
「一エアが一円と思ってくれていい」
「じゃあ手取りで五十万円ってことですか」
「そう、悪くないだろう!? しかもこれは試験採用期間の給料だから、採用後の活躍によっては百万くらい余裕でみ“っ!」
「だから落ち着け」
再びげんこつを食らったマギを見ながら考える。
月収手取りで五十万円。いつか学校の授業で職業ごとの収入を調べた覚えがある。たしか大卒の初任給で二十万円くらいだったはずだ。手取りは税金等が引かれてもっと少ないらしい。
岸辺当真は中学校在学中に死んだ。中学校を中退したと考えれば、最終学歴は小卒だ。現代日本にあるまじき最終学歴である。
冒険者ギルドで見た張り紙だと依頼ひとつで報酬が五十万くらいのものもあったが、命がけなことに加えて諸経費を費やすほど収入は減ってしまう。何より討伐依頼のように暴力を振るうことは気が進まない。
なかなか魅力的な提案に思えてきた。
「トーマ君も落ち着け。今すぐ決めなきゃいけないことじゃない。そうだろ、マギ」
「うう、痛い……。そうだね、慌てて決めなくてもいい。いつでも歓迎してるから。働かなくても遊びに来てくれていいからね。魔法のイロハをいろいろ教えてあげるから」
「あ、それでいいんですか」
「できればこの場で契約してくれると嬉しいけど、他の仕事が気になって集中できないじゃ困るし。それならいっそ他の仕事を経験した上でここに来てくれてもいいかなって。あ、でもこんなに楽しい仕事はないよ。ほんとだよ」
「人によるだろ」
「だって! 毎日いろいろな発見があるんだよ? 夜、明日の実験結果に期待しながら寝て、朝は何が分かるかワクワクしながら目を覚ますんだよ? こんな楽しいことってないだろ?」
ね? とマギは同意を求めるようにトーマを見る。
「毎日楽しみがあって期待しながらの生活っていうのはいいですね」
「だろう! トーマくんは話が分かるなあ。ボクに敬語はいらないからね。名前も呼び捨てでいいからぜひ気楽に遊びに来てくれたまえ。そして気が向いたらでいいから一緒に研究しよう」
「分かった。魔法も気になるしまた顔を出すよ」
「ほんとだね!? グレンも聞いたね? ぜったいだからね!」
「そんな念押ししなくても来るから」
トーマの返事にマギは満足げに頷いた。
この街で最高の魔法使いということをグレンは否定しなかった。話を聞くと魔法を使うだけではなく研究していることが分かった。ならば論理立った説明を聞くことも可能だろう。
変わった人だと思うが実害はない。むしろこれでもかというくらい歓迎されている。
異世界に召喚されたら魔法を使いたいと思うのはもはや必然。トーマだって大いに興味がある。むしろ頭を下げてお願いしたいくらいだ。
「ところで全属性に適性があるって珍しいのか? チート能力者なら超魔力とか全属性適性とかテンプレみたいなものだと思うんだけど」
「よく言ってくれた。そうだよね、普通もっといっぱいいるはずだよね。でもこれだけ転生者がいるシャングリラで、全属性適性持ちはボクとトーマくんだけなんだ」
「ふたりいるだけでものすごく珍しいことだと思うんですけど」
マギに押されて黙り気味だったフィオナがおずおずと手を挙げる。
うんうん頷くマギはグレンに嫌そうな目を向けた。
「確かに、この世界の住人で全属性適性持ちなんてそうそういないだろう。けれどボクたち転生者なら珍しくない能力なんだ。そのはずだったんだ。なのに、最近の転生者ときたら、特化した能力ひとつだけとか甘えたことをしやがって……」
「俺の能力は自分で選んだものじゃないぞ」
「どうだか。ぜったい死んでから女神に会って自分でチートを選んだやつだっているだろ」
「それは否定しない」
「そもそも、適性じゃなくて能力そのものをもらうなんて手抜きだろう。しかも初めから能力の使い方は分かっているってやつばっかりでさ。それじゃ研究もせずいきなり俺TUEEEじゃないか。つまんないよそんなの」
「最近だと努力チートってやつもいるぞ」
「チートだけど努力してますよって免罪符感がイヤ。しかも本当に何十年も単純作業し続けてるか怪しいし、何よりそれだけ時間があるならもっと効率的な方法を模索して……」
「よしこの話はやめよう。なんか触れちゃいけないところに踏み込んだ気がする」
マギとグレンの会話にトーマがタオルを投げた。
他の人の悪口みたいなのは良くない。それで喧嘩売ってると判断されるリスクがあるのはなおさら良くない。
「まあ、そんなわけでそこのグレンみたいに適性を絞っている人が多いのさ。しかもチート能力者たちは原則を無視した現象を引き起こすから再現性がなくて研究しがいがない」
「なるほど……グレンさんの焔属性も固有属性って言ってたもんな。誰かが再現できたら固有って言われてないか」
「そう。研究しがいがないったら」
マギはぐいっと自分で淹れた紅茶を煽った。
会話が切れた隙にトーマたちもお茶に口をつける。味は普通だった。
チート能力について考えてみる。
転生者が持つ特殊能力。マギの話では唯一性がある。グレンが言うには自分で選んで選択するようなものではない。マギは女神的な存在に与えられたやつがいるのではないかと疑っている。
トーマは女神らしき存在に出会った覚えはない。トラックに轢かれて、気が付いたらこの世界に召喚されていた。なんなら召喚されてからフィオナと話して自分の最期を思い出してくらいだ。
自分の経験を踏まえれば偶然与えられた能力ではないかと思えてくるが、転生者だけがチート能力を持っているとすれば恣意的なものを感じる。
今のところ転生者以外がチート的な能力を持っているという話は聞かない。ならば誰かが転生者を選んで能力を与えているのかもしれない。
誰が、何の目的で与えているのか。考えてみても分からない。
この世界はやたらとトントン拍子に話が進む。都合が良すぎるくらいだ。
漠然とした不安を感じた。足元がぐらぐら揺らぐ気がする。これ以上考えてはいけない。
単純にそういうものなのかもしれないと自分に言い聞かせた。
「チート能力ならそりゃ唯一だよなあ」
「……今ちょっと興味深いことを言ったねトーマくん。詳しく話してくれたまえ」
「うぇっ? あー、チート能力って転生者にとって絶対的なアドバンテージなんだよな」
「そうだな。たとえば俺の焔属性は他の誰にも扱えない。全属性適性のマギでもだ」
「もしそのアドバンテージが脅かされたらチートはチートじゃなくなるわけで、そう考えたら真似できるわけないよなって」
「なるほど、転生者は独自の能力を持っているわけではなく、転生者が持っている能力だから唯一になっているという可能性もあるのか。ということはチート能力そのものよりも、能力が付与されるメカニズムを研究すればチートやそれに近い能力を再現できるのか? ……滾って来た」
マギの目があやしく光る。
スイッチを入れてしまったようでトーマは慌てた。
「あ、でも俺とマギみたいに同じチートを持っている例もあるわけだから唯一絶対とも限らないよな」
「なるほどつまり同じ能力を別人が持っているのは特殊な事例という可能性があり研究し甲斐があるってことを言いたいんだねトーマ! ぜひきみもこの研究に協力を」
「とりあえず一人でやって実験の目途が立ったら誘ってやれ」
「うんわかったちょっとボクはいろいろ仮設立てたりしたいから今日はこれでまたねトーマぜったいまたきてね!」
ものすごい早口で言ってマギはさっそく自分の机に向かった。
ぶつぶつ呟きながらも手は尋常ではない速度で動いており、声をかけても反応しそうにない。
「……行くか」
「行きましょうか」
「行きましょう」
グレン、トーマ、フィオナは奇妙な疲労感とともに図書館を後にした。
―――
グレンに案内されて街を一通り回るとすでに夜となっていた。
街灯が点在しており歩くのに不便はないが、人通りはまばらだ。
サクラの店にたどり着く。もうすでに客は帰った後のようで店の中にはサクラしかいない。
トーマたちが店に入るとサクラは「いらっしゃい」とはにかんだ。
「今日は他の転生者たちに会ったのよね。どうだった? 何人くらいに会えたの?」
「サクラさん以外だとムラマサさんとマギに会えました。ムラマサさんは職人って感じですけど気さくな感じで、マギは……変わっているけどエネルギーあって楽しい人だと思います」
「そっかー。それは良かった。座って座って、ゆっくりお話ししよう」
サクラに促されて座る三人。トーマとフィオナの目はキッチンに吸い込まれている。店内には食欲をそそる香りが充満している。いったいどんなメニューなのか気になって仕方がない。
「そんなに期待しないで。まかないみたいなものだから」
まかない料理。料理人が自分たちの腹ごしらえのためにあり合わせで作る料理のことを指す。
あり合わせと聞けばそれほどおいしいイメージは湧かないのに、まかないと表現すると裏メニュー感があって期待をそそるのは何なのだろうか。
トーマたちが来る前に下ごしらえを済ませていたのか、サクラは鍋に火をつけた。鍋を振るたびにじゃっ、じゃっと小気味良い音が鳴る。それに合わせてトーマたちの腹が鳴る。ごま油の香ばしい香りが漂ってくるのだ。
「はいどうぞ」
サクラが差し出したのは具沢山のチャーハンとサラダ、スープだった。どれも変わった品には見えないのにトーマたちの食欲を刺激する。
トーマとフィオナの視線は完全に料理に集中していた。しばらく会話はできそうにないな、とグレンは苦笑した。
「「「「いただきます」」」」
四人の声が揃った。
トーマは猛然とチャーハンに挑みかかった。
瞬く間に料理はトーマたちの腹の中に消えた。
どの料理も具材の味がよく分かるのに料理としてそれぞれが他の素材の味を引き立てていた。勢いで流し込むように食べているのに存分に味わうという新感覚を味わった。
サクラも最初はその勢いに驚いていたが、全身で「旨い」と絶叫しながら食べるような様に悪い気はしなかったようで、自分の分をそっとトーマに分けていた。ほぼ初対面なのに「いいんですか」「いいよ、お食べ」というアイコンタクトが成立していた。
「おそまつさまでした」
「これを粗末なんて定型文でも言っちゃ駄目です。我を称えよくらい言っていいと思います。ごちそうさまでした。尋常じゃなく旨かったです。通います」
トーマはこれから仕事を探すにあたって、第一条件にサクラの店での飲食に適した立地であると加えようかと真剣に考えている。そのせいで説教みたいな口調になってしまった。
照れたように笑うサクラ。ゆっくり噛みしめるように食べていたグレンが口を開いた。
「中心街を主に回ったが、シャングリラはどうだった? 馴染めそうか」
「活気があって良い街だと思いました。中世っぽい街並みだったので衛生面が不安だったんですけど、めちゃくちゃ清潔ですし。現代日本と遜色ないレベルの上下水道整備されてるんじゃないですか」
「街並みと言えば、エア城はすごかったです。私、あんなに立派な建物は初めて見ました。大きいだけではなくて精緻な装飾があって圧倒されました」
「就職先も心当たりが出来ましたし、なんとかやっていけそうな気がします」
「マギにえらく気に入られてたもんな。冒険者ギルドで仕事も受けられるだろうし、いろいろ試して何をするか決めるといい。ウチの部屋も当分使ってもらって大丈夫だよ」
「いやさすがにそれは。グレンさんたちの愛の巣にあんまりお邪魔するのも……ねえ?」
「愛の巣ってなんだよ」
グレンはトーマの表現に身を引いた。トーマはフィオナの顔色を窺った。フィオナも半笑いで頷いた。
二人も居候がいれば関係が発展する確率は下がる。昨日の様子からすると、グレンは良くてもミオに悪い。
「とりあえず俺は自分で稼いで住むところをゲットする。これを目標に頑張ろうと思います。二週間以内の達成を目指します」
「そんな慌てなくてもいいんじゃないか」
「ゆっくりしてたら居着いちゃいそうなんでここは素早さ重視で。マギなら頼めば今月分だけ先払いとか応じてくれそうですし」
冒険者なら給料は即支給になるので問題ない。どこかで雇われるなら自立するタイミングは給料日による。
「明日は冒険者としての仕事をやってみるのと、二人で暮らせる不動産探しをしてみます」
「二人暮らし……」
フィオナがぽつりとつぶやいた。
「トーマ、あの、私も一緒に暮らしていいんですか……?」
「そのつもりだけど……ごめん変なこと言った忘れて。何言ってんだ俺。フツー考えて出会って三日の男と一緒に暮らすとかありえないな」
当たり前のようにフィオナと一緒に暮らす前提で考えていた。シャングリラに来てからずっとセットで扱われているが、そもそもシャングリラに来てからまだ間もない。精神汚染が早過ぎる。
フィオナがわたわたと手を振って否定する。
「いえ、ありえなくないです。私もそうできたらと思っていました。厚かましいかなって思って口に出していませんでしたけど……」
「そ、そう? ならいいけど。一人口は食えなくても二人口ならって言うし、生活が軌道に乗るまで二人で頑張ろうってことでOK?」
「おーけーです。……その、ふつつかものですが、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
フィオナがそっと頭を下げた。その文言は違う場面で使うものじゃないかなーと思いながらトーマも頭を下げた。
二人が顔をあげて微妙に照れ臭く感じていると、忍び笑いが聞こえた。
グレンがニヤニヤ笑っていた。サクラはひたすら生暖かい笑顔を黙って浮かべている。
「若いっていいなー」
「青春ねー」
「違うから、そういうんじゃないから……」
トーマの言葉はまったく説得力がなかった。
「ところでグレンさんはトラック転生って言ってましたけど、どうやって転生したんですか?」
「すっげえ露骨に話題を変えにかかったなトーマ君。食べてすぐする話題かそれ」
「その、トーマ、いくら前世と言っても人が死んだ話をするのは……」
「グレンくんはどう? わたしは別にいい……ていうか話すことがないんだけど」
「死ぬほど大きなイベントがあったんじゃないんですか?」
ひとまとめに転生者と言うくらいだから地球で一度死んだはずだ。死ぬほど大きなイベントで話すことがないというのは違和感がある。
「わたしは気付いたらこの世界にいたパターンだから」
「俺が知る限り、転生者は『死んで転生』『気付いたら転生』『召喚された』の三パターンだな。召喚されたやつは転生者って言うべきか分からんが」
シャングリラにいるチート能力持ちは多くが死んで転生したパターンらしい。そのためチート能力持ち=転生者という認識が出来上がっていた。
後になって気付いたら転生パターンや召喚されたパターンが見つかったが、転生者とひとくくりで呼ばれている。
「じゃあサクラさんはもとの世界のことが気になりますよね」
岸辺当真はトラックに轢かれて死んだ。死亡する瞬間の記憶こそないが、あれで死なない方がおかしいと思うような状況だった。おかげで諦めがついた。自分は岸辺当真ではなくトーマになったのだと割り切れた。
けれど、もし死の記憶がなかったらどうだろうか。
当真にも親がいた。友達がいた。いきなり彼ら彼女らに会えなくなったことを――
「――あれ?」
「どうしたんだ、トーマ。生肉食ったみたいな顔してるぞ」
「トーマ、顔色が良くないですよ……?」
「まさか食中毒!? いえでもちゃんと食材は管理してたし、とりあえず薬を」
「サクラさん、大丈夫です。ちょっと動揺しただけなので」
「その顔色はちょっとどころじゃないだろ。とりあえず今日はお開きにして早めに寝とけ」
「それよりグレンさんとサクラさんに聞きたいことがあります」
トーマは深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
いくぶん落ち着いてきた。顔色は優れないままだがそのうち戻るはずだ。
それより一刻も早く解消したい疑問があった。
「二人は前世の記憶がありますか」
「俺はある。前世の名前も覚えてる」
「わたしもあるよ。それがどうかしたの?」
「俺、友達の顔と名前は憶えてるんですよ。クラスメイトの、ほとんど話したことないやつの名前も。なのに、母親の名前を思い出せないんです」
顔は思い出せる。いつも働いていて疲れがにじんでいたが、当真の友達と行き会った時には笑顔を見せてくれた。
間違いなく友達より長く見た顔のはずだ。いつも「母さん」と呼んでいたが、名前を忘れるなんてありえない。
そのことがたまらなく気持ち悪かった。
「ああ、そういうことか。気にするな、よくあることだ」
「え?」
「転生する前にトーマ君は一回死んだわけだ。その衝撃で記憶が混濁してるってやつはいる。時間が経てば思い出すこともあるし、思い出さないこともある。思い入れがあれば覚えてるってわけじゃないみたいだから、母親の名前を思い出せなくてもトーマ君が特別薄情ってわけじゃない。当たり所の問題だな」
トーマは目をぱちぱちさせた。
どっと体から力が抜ける。
頭に登っていた血が下りるにしたがって冷静になっていく。
転生がどういうメカニズムか分からないが、一度は死んだのだ。今は死んだ時とは違う体を使っているに違いない。記憶が脳に保存されているなら体が切り替わるタイミングで記憶が欠損しても不思議なことはない。むしろ一部とはいえ記憶を残していることの方が不思議なくらいだ。
フィオナが「トーマ」と名前を呼びながらそっと手を握る。それだけで落ち着いてきた。
「よかった、なんか妙に動揺しました。すみません」
「無理もない。トーマ君はトラック転生だろ? 死ぬほど激しい交通事故にあってすぐ落ち着けって方が本来無茶な話だ。今日はお開きにして、しっかり休め」
「はい、そうします」
「あ、その前にひとつ質問いいかな。トーマくん、何か食べたいものある? 次に来てくれた時には好きなものをごちそうしてあげるよ」
「マジですか。じゃあアジフライってありますか。あとソース」
「アジフライでいいの? もっと豪華なものでもいいんだよ」
「何を隠そうアジフライが大好物なんですよね俺」
サクラは遠慮しているのではないかと思ったが、トーマに遠慮はなかった。だから揚げ物なんて面倒なものをリクエストしたのである。
引っかかりがなくなったことで体調は戻ってきた。サクラの腕で作るアジフライを想像しただけでよだれがあふれてくる。口の外まで溢れ出しそうになってちょっと慌てた。
「今度来る時にはアジフライを用意しておくね」
「よろしくお願いします!」
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