藤の記憶と決意

        ◇






「お母さん!早くー!」

「紡、走っちゃだめよ」

 今日も彼女の声がする。心地よく耳に残る好きな声。

「うわあ!いつみてもきれい!これはなんていうお花だったっけ?」

「これは藤というのよ。ご先祖様は藤の花が大好きでね、そのきれいさを周りの人にも伝えたいってことでこの花を育て始めたそうよ」

「へえー。私もこのお花のお世話したい!」

「うーんまだ紡には早いかな。もう少し大きくなったら庭師の方と一緒にお世話できるようになるからそれまでは我慢ね」

「えー、大きくってどれだけ大きくなればいいのー?」

 そうやって落ち込みながら棚の柱に手をついた。

「そうねぇ、紡が学校に通うようになって自分のことは自分でできるようになったら、かな?」

「そっか、藤のお花さん、それまでもうちょっと待っててね。絶対お世話して、もっともっときれいに咲かせてあげるからね。私との約束」

 そう言いながら彼女は小さな額を柱につける。

 その瞬間、私の中に感じたことのない暖かさが入ってきた。姿がないのだから入ってきたというには語弊があるが、そんな気配がしたのだ。

 なんて優しい心の持ち主なのだろう。元気で明るいこの少女を、私は見守っていけるだろうか。いや、見守っていきたい。そう強く思った瞬間だった。

 私が姿を持ったとしても彼女には見えない。私が存在しているということは伝わらない。だとすれば、花を立派に咲かせることだけが彼女にしてやれる唯一のことだ。

 花の世話を彼女ができるようになるまで、この藤棚を私が守っていこう。



 それからも彼女は母親とともに何度も藤棚へと足を運び、棚下にあるベンチに座って他愛ない話をしていたり、本を読んだり、何をするでもなく花を眺めたり、たくさんの時間を過ごしていた。

 しかし、ある時からぱたりと彼女は来なくなった。来るのは庭師のじいさんだけ。なぜ急に来なくなったのか、この場を離れられない私にはまったくわからず、ただひたすらにまた来てくれることを待っていた。

 今日も来なかった。今日も来なかった。そんな風に数えて、数日がたった時、彼女の母親が一人でやってきた。とても深刻そうな面持ちで柱に手をつき泣くのをこらえるかのように小さくそっとこぼした。

「ごめんね。紡。あなたがやりたがっていたこの藤棚のお世話、やらせてあげられなくて。お花と約束もしていたのに、本当にごめんなさい。ごめんなさい。藤の精霊さん、もしも精霊というものが本当にいるのなら、あの子を、紡を、どうか守ってください。お願い、します…」

 それだけ残して立ち去ってしまった。いったいどういうことなのか、私には理解できなかったが何か事情があるということだけはわかった。

 それに、彼女が藤棚の世話をすることができないということも。






          ◇






「あの時の言葉の意味を今やっと理解できた。紡が藤棚の世話ができない理由、それは玉依姫だということが判明したからなのだな。今思えば紡の額が柱に触れたときに暖かい気配が流れ込んできたのも玉依姫だからだったのかもしれない」

 私はそこで言葉を切り、あたりには葉擦れの音だけが響き誰も声を出せないでいた。

 数秒経ってから紡がそっとつぶやいた。

「そっか…覚えてなくてごめんね。約束も守ってあげられなかった。物心ついた時から外に出ることが難しくて来たことないと思っていたけど、そっか。お母さんと来てたんだね。教えてくれて、覚えていてくれて、ありがとう、フジくん」

 どこか申し訳なさそうに笑ってお礼を言う紡は昔とは変わってしまった。彼女は人間なのだから成長するにつれて変わるのは当たり前のことだ。だが、そうじゃなくて、どこか心を置いてきたような、その考えは案外当たっているのかもしれない。

 申し訳なく思っているのは本当なのだろうが、それ以上何もわからないのだ。誰かと話していると大体は感情というものがわかるが、彼女のは他とは違う。本心というものを奥にしまい込んで嘘で塗り固めている気がしてならない。

「紡、あなたは……」

「どうかした?」

 自分の心を隠しているのか、なんて聞けるわけがない。その質問を安易にすることで彼女を傷つけてしまうかもしれない。それだけは避けたい。

 私は彼女を守るためにいるのだから、傷つけてしまっては意味がない。

「いや、何でもない…」

「そうだ!ねえつむ、フジくんのお披露目はいつするの?」

 妙な空気になりかけているところに桜の精の声が割り込んだ。正直こいつの能天気な感じは助かっている。私と紡だけでは空気が悪くなっていくだけな気がするし、桜の精が場を取り持ってくれるのは非常にありがたい。

「お披露目って、そんなにぎやかな感じじゃなくてただの儀式だよ?」

「でもこの神社の人に紹介するのよ?お披露目みたいなものじゃない。で、いつにするの?」

 そんな適当な考えでいいのかと内心思ったが口に出すとうるさそうなので黙っておくことにして、そのお披露目のような儀式について問いかけてみた。

「その儀式とやらは何をするんだ?必要なことなのか?」

「必要だよ。まああくまでこの神社にとって、だけどね。要はこの神社に新しい精霊が生まれたということの証明をするって感じ。それで神社内にいる精霊を把握するの。することは一つだけ、フジくんが私に憑いて紋章をつくる。これだけだよ」

 憑くというのはまあ理解できる。玉依姫の魂は精霊や神が憑いて先の未来について助言を受けるというのは知っているから。だが、『紋章』というのは何なのだろうか。家紋のようなものなのだろうか。

「その紋章というものはなんだ?」

「紋章っていうのは、なんて言えばいいのかな。簡単に言えば番号みたいな、家紋、みたいな感じ?精霊の力を制御するために作られた仕組みらしいけど、基本的に精霊の力を制御なんて出来ないから精霊を特定するための印になってる」

「あたしのはこれだよ」

 そう言って桜の精が空中に手をかざすと薄ピンクの光が現れて模様を作り上げていく。

 五枚の桜の花びらが中心から外に向かって散られされたシンプルなものだった。

「お前はもう少し派手な感じだと思ったが、意外にシンプルだな」

「失礼ね!意外って何よ!」

「作るって言ったけど紋章は決まっているものなの。自分でこうしたいっていうのはできないんだよね。サクラは神社の御神木の精霊だから、御神木を表している模様がそのまま紋章になったしね。フジくんの場合もこの藤棚に関係する紋章になるんじゃないかな」

「そういうものなのか」

 藤棚に関係するとなると儚くも華やかな感じの紋章だといい。そんな風に考えていると横から大きな声をあげている奴が来た。

「そうよ!私はこの神社にずっといる、一番最初の精霊なんだからね!そんなあたしに『お前』なんて失礼よ!ちゃんと『サクラ』って名前があるんだから!」

「桜の木だからか。安直だな」

「それはフジくんにもブーメランでしょ!」

「お前が勝手にそう呼んでいるだけでそんな名ではない」

 そもそも私たち精霊に名というものはない。それなのにこいつは『サクラ』という名がある。自分で考えたんだろうか。

 そんな私の考えを知ってか知らずか、紡が声をあげた。

「ふふっ、仲良しなんだね。名前は儀式のときに付けられるんだよ、私が考えるの」

「仲良くなど、というか、紡が名をくれるのか?」

「そうだよ。精霊の名前は全部私が付けているの」

 守るべき主から直々に名を貰えるなんて、素直に嬉しく思う。

 これから何をすればいいのか、どう過ごしていけばいいのかよくわからないでいたが、一つだけはっきりと決まった。

 彼女のことを、神に愛される玉依姫を必ず守り抜こう。

 ほんの小さな胸騒ぎだが、これからきっと何かが起こる。その時に、一番近くで守りたい。

「私は紡のことを必ず守る。安心してくれ。だから、私には何でも話してほしい」

 突然そんなことを言う私に紡ぎは少し不思議そうにしていたが、やがてわかったとうなづいてくれた。

 おそらく彼女は本心を話してはくれないだろうが、それでもやはり話してほしいと願ってしまう。今は無理でもいつか彼女が心から笑えるように、弱音を吐いてくれるように、支えになってやりたい。

「そろそろ戻らないと。サクラも来る?」

「あたしはいい。またね、つむ」

 儀式の日程が決まったらまた伝えに来ると言い残して紡は建物の方へと歩いて行った。

 藤棚の下には私と桜の精だけが残され、お互いに何も話さないまま数十秒が過ぎた。

 先にこの静寂を切ったのは桜の精だった。

「フジくん、なんであんなこと言ったの?」

「あんなこととは?」

「『何でも話してほしい』って」

 ただただ話してほしいと思った、彼女が本心を見せてくれることを願った。

 おそらく桜の精は私が何を思って口にした言葉だったのかわかっているのだろう。笑みを浮かべて答えるのを待っている。

「はぁ。お前は分かっているんじゃないのか。何が原因かは知らないが紡は本心を表に出さないのだろう。あれでは心から笑うことができない、それだけでなく弱音もため込んで吐き出さないだろう。それはあまりにも苦しい、こちらとしても少々、いや、かなり寂しい気持ちになる。だから話してほしいと言った」

 桜の精はさらに笑みを深くした。少し悪い顔になっているような気もするがそれを言うと怒るだろうから言わないでおく。こいつの性格は少しわかってきた。

「もう気づいたのね。あたしはありがとうって言うために残ったの。紡のことを分かってくれて、それを放置せずに寄り添おうとしてくれて、ありがとう。でも、つむの本心を無理に聞き出すのだけはやめてね。つむが苦しくなるから」

「お前は紡がどうして本心を話さないのか知っているのか?」

「直接聞いたわけじゃないけど、なんとなくね。ずっとこの神社にいるんだから、つむのことも産まれた時から知ってるわ。ずっと見てきたんだから、あの子になにがあったのかも全部。でも、それをつむの知らないところで話すわけにはいかないの。だから、つむが話してくれるまで待っててあげてくれないかな」

 そういう桜の精の顔には少し寂しさがにじんでいるようだった。おそらく何もできずにいるのがもどかしいのだろう。

 勝手にあれこれ詮索するのもよくないと思い了承した。いつか話してくれると信じて。

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