虹
増田朋美
虹
虹
雨が降って、何だかのんびりとした日であった。其れほど土砂降りというわけでもない。ただ、静かに雨がふって、風もなく、おだやかに過ごしていただけの事である。
杉ちゃんと蘭は、いつもと変わらず自宅内で食事をしている時の事であった。いきなりインターフォンがデカい音でなるので、杉ちゃんも蘭もびっくりする。
「あれ。だれだろう。宅急便でも来たのかな?」
杉ちゃんが言うと、インターフォンはもう一回なった。そんなに逼迫した用事なのだろうかと、杉ちゃんも蘭も急いで玄関先に向う。
「はい、今行きますよ。どなたですか?」
と、蘭は急いでドアを開けると、ひとりの女性がたっていた。彼女の左手に、薔薇の刺青があったので、蘭は以前刺青を入れたお客さんだとわかった。
「あれ、えーと、半年前に、こちらに刺青を入れに来られた、小宮山素子さんですね。」
蘭は、この女性のことをなんとなく覚えていた。確か、彫りに来てくれた時も、明らかに精神障害
があることが分かる女性で、もしかしたら、幻覚でも見えているかのような発言を繰り返していた。そういうことを口にしないように、刺青を入れたいと言ってきた女性だった。ご主人にも、変な発言をしないように、入れてしまった方が良いと言われたと言っていた。こういう障害のある女性だと、嘘か真かがなかなか判明しにくいが、蘭は、彼女の言葉を信じてやりたくて、彼女の求めに応じたのである。施術中も、彼女は、おかしな事ばかり口にしていた。それではいけないと蘭は思っていたが、彼女に適切な医療を受けてほしいと願うしかなかった。
「あの、一体どうしたんですか?」
と蘭が聞くと、
「主人がいないんです。」
と、素子さんは答えた。
「ご主人、何処かへ行くとか、そういうことは言ってなかったんですか?」
蘭がもう一回聞くと、
「ええ何も。置手紙もなかったし。だから、私に何も言わないで、何処かへ行ってしまうのはおかしいと思って。私何も悪いことをしたわけでもないんですけど。どういうことでしょうか。」
素子さんはそう答えるのであった。
「まあ、待ってくださいよ。スマートフォンとか、そういうものには連絡しなかったんですか?」
「いえ、主人はスマートフォンを持っていないんです。」
あれ?と蘭は思った。確か彼女自身もスマートフォンを持っていたし、ご主人も仕事の関係で持っていたはずだ。蘭ももしもの時のために、ご主人のスマートフォンの番号は知っていた。其れなのにもっていないはずはないのだが?ということはつまり、それを忘れてしまっているのだろうか?
「ちょっと待ってくださいね。」
と蘭は居間に戻って、小宮山素子さんの夫である、小宮山淳一さんのスマートフォンに電話をかけた。とりあえず、番号はちゃんと覚えていたから、淳一さんには通じた。
「もしもし、小宮山さんですか?あの、失礼ですけど、今どちらにいらっしゃるのでしょうか?奥さんの素子さんが、今、主人がいないって、僕のうちに来てるんです。奥さんに伝達することはできたのでしょうか?」
蘭がそういうと、小宮山淳一さんは、
「ああすみません。実はいま、川村病院にいます。実は家で壁紙を張り替える作業をしていましたら、落ちていた画鋲を踏んでしまいまして、それが抜けなくなってしまったので、病院に来ているんです。妻には外へは出ないようにと、ちゃんと言っておきましたが、通じていなかったのかなあ。本当に、申しわけありません。後でちゃんと叱っておきます。」
と、申し訳なさそうに言った。
「いや、叱らなくて結構ですよ。こういうのは、病気の症状なんですから。足が悪くなったのと同じようなものです。まあ、警察のお世話にならなくてよかったじゃないですか。彼女が僕の家に来てくれてよかったです。警察沙汰になったら、大変なことになっていたかもしれませんよ。そうならずによかったと思ってください。」
と、蘭は、彼を慰めるように言った。
「それでは、先生のお宅であずかって頂けませんか?まだ、診察が終わっていないので、もう少しかかりそうなんですが。」
と、淳一さんが、そういうことを言っている。確かに、川村病院は、大規模な病院なので、直ぐに診察をしてもらうということは難しいと思われる。
「そうですね、と言いたいところですが、僕たちも、これから買い物にいかないといけないので、直ぐに連れて帰って貰いたいのですが、、、。」
蘭は正直に言った。
「なんだ。そういうことなら、僕らであずかればいいじゃないか。お年寄りをあずかってくれる施設は山ほどあるが、こういう女性をあずかってくれる施設はまずないだろう。だったら、僕らで何とかした方がいい。多分、午前中いっぱいかかっちまうだろうから、その間だけでも、何とかしてあげようよ。」
いきなり杉ちゃんが口をはさんだ。そして、蘭の持っていた受話器を取り上げて、
「ああ、あの、小宮山さんだね。奥さんは僕たちがあずかるから、心配しないでいいよ。其れより足は大丈夫なのかい?」
なんて、デカい声で言った。
「ええ、まだ見てもらわないと何とも言えませんが、気にかけてくださってありがとうございます。診察がおわりしだい、お宅へ迎えに行きますから、すみません、よろしくお願いいたします。」
と、淳一さんはそういって、電話を切った。
「杉ちゃんいいのかい?僕らで彼女の面倒を見切れるかな?」
「まあ、何とかなるだろう。それに、徘徊してしまう高齢の認知症の人の施設は、沢山あるかもしれないけど、こういう人のための施設はないことが多いから。僕たちで何とかしなければならないでしょ。」
杉ちゃんは平気な顔をして、さあ買い物に行こう、といった。
「じゃあ、行ってこようか。彼女ももちろん一緒だ。大きなタクシーをチャーターした方が良いな。いわゆるジャンボタクシーって奴かな。御願いしてもいい?」
杉ちゃんに言われて蘭は、分かりましたと言って、ジャンボタクシーを御願いした。グループ利用でもないのに、ジャンボタクシーとは、変だなと思われたかもしれないが、それでもタクシーは来てくれた。杉ちゃんも蘭も急いで運転手に手伝って貰いながらタクシーに乗り込む。
「ほら、お前さんも乗りな。」
と、杉ちゃんに言われて、素子さんはタクシーに乗ってくれた。じゃあ行きますよ、とタクシーは、ショッピングモールへ向って走りだした。
「あの、あの車は、私を監視するために止まっているんですか?」
と、素子さんがいきなりそういうことをいうので、蘭はびっくりする。
「あの車って何だ?どの車だか、説明してみな?」
と、杉ちゃんは優しく言った。
「あの、信号機の下に止まっている、赤い車です。」
彼女がそういう通り、信号機の近くに赤いスポーツカーが止まっていた。
「私の事、監視しているっていうか、私の事を悪いことしたから、報告するためにいるんですよね?」
「はあ、悪いことっていうのは、実際何をしたんだ?」
杉ちゃんは、素子さんに聞いた。
「だから、働いていないことですよ。それがいけないと言うんです。働いていない人は、犯罪者だから、それをいろんなところで監視して、犯罪を起さないように予防しているんです。」
「はあ。働いていないと、犯罪者になっちまうのか?」
「はい。だって、それはいけないことというか、いるだけで罪になるから。私は、働いていないので、一番悪い人間であるからです。働いている人に、食べさせて貰っているんだから、働いている人に、反抗しないように、自分を消して生きなくちゃ。犯罪を起さないように、周りが監視しているんです。」
「それ、誰が言ったの?」
「学校の先生です。世のなかで一番必要のない人間は働いていない人であると、きつく言われました。そして、働いていないと、どんどん頭がおかしくなって犯罪に走って行くから、監視が必要だとも言われました。私は、そう思うことで犯罪をしないで生きてこれたから、これからもそうして生きていかないといけません。」
学校なんて、きっと彼女の中では、何十年も前も昔の事だと思う。学校の先生も、本気でそういったか不詳だ。でも、彼女はそう思ってしまったのだろう。最も、彼女に、そのようなことはないよとはっきりと言ってくれる人がいてくれたら、また違ったかもしれないが、其れもなかったのだ。
「そうかそうか。まあ、お前さんがそうおもってしまうのは仕方ないのかもしれないけどさ、もうちょっと、周りをみて生きてみたらどうだ?」
杉ちゃんはにこやかに笑ってそういうことを言った。蘭は、何も関係ないように、すらすらと話してしまう杉ちゃんに、すごいなと思ってしまった。
「まあ、とりあえずショッピングモールへ行こうな。あそこは、いろんなものがうってて、いずれにしても楽しいよ。」
杉ちゃんは、平気な顔をしてそういう事を言った。運転手は、ちゃんと、車を動かしてくれた。数分後にタクシーは、ショッピングモールについた。
杉ちゃんと蘭は、運転手に手伝ってもらって、タクシーを降りる。素子さんも、運転手と一緒にタクシーを降りた。
「まあ、一緒に来てみてくれや。楽しいから。」
とりあえず、三人はショッピングモールの中に入る。彼女は一寸怖がっているような顔をしている。蘭は、そんな彼女に、大丈夫ですからねと言って、そっとそばについた。杉ちゃんのほうは、どんどん食品売り場に向かって移動してしまうのだった。彼女は、入り口のところで足をとめてしまった。
「大丈夫だよ。誰もお前さんの事を悪く言うやつは何処にもいないさ。気にしないで店に入ればそれでいいのさ。」
「杉ちゃんはいつまでたっても明るいんだね。」
蘭は一寸ため息をついた。
「何をそんなに怖がってるんだよ。怖い奴が何処かにいると思っているのか?」
杉ちゃんが歩くのをとめてしまう彼女に、そう聞いてみると、
「あの、店の人たちは働いていない私が、犯罪をしないようにするために、レジにたっているんですか?」
と、彼女は聞き返すのだ。
「そうか。お前さんはそう見えるんだね。お前さんの世界はそうなっているのか。でも、働いていないから悪いのではなく、働いている人に、働く場を作ってやるのも大事な事だと思うよ。だから、お前さんもそのつもりで生きていくのは無理かなあ。働く場を僕たちは作ってやっているんだって、そう思うことも大事な事でもあるんだぜ?」
杉ちゃんはにこやかにわらった。
「だからお前さんもそのつもりで生きていけば大丈夫だよ。働けないのかもしれないけど、働く場を作ってやっていることは自信持とうね。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「じゃあ行くぜ。食べ物を買うからね。」
杉ちゃんは、どんどん食品売り場に行き、野菜やアボカドなどの果物を取り始めた。蘭も、肉や
魚などを取ったが、まだ彼女は怖がっているようだ。
「おい、お前さん。一寸さ、そこにあるビニール袋を取ってくれよ。」
杉ちゃんがいきなり言った。
「そう其れだよ。そこにあるビニール袋だ。一寸魚の切り身を買いたいもんでな。」
こればかりは、たてる人ではないと、できないことでもあった。もう少し、このショッピングモールが、障害のある人に理解があればいいのだが、一向に改善する気はなさそうで、ビニール袋は売り棚の上にあるのだった。
彼女、素子さんは、杉ちゃんに言われた通り、売り棚の上にあったビニール袋を一枚とった。
「ありがとうございます。」
杉ちゃんは、それを受け取って、丁寧にあいさつした。
「本当、助かったよ。ありがとうな。もうたって何かするなんて絶対できないから。」
「そうですね。確かに、車いすの方には、できないですものね。」
「ほら、お前さんにできることだってあるじゃないか。」
杉ちゃんは彼女にそういったが、
「そうですね。」
と彼女はいうだけだった。
「もうちょっとできることがあると思ってくれないかな?」
杉ちゃんはそういったが、素子さんの表情は変わらなかった。
「さて、お会計するか。最近のレジは、カード一枚でなんでも払えるから、僕みたいな馬鹿でも買えるようになったよ。」
杉ちゃんと蘭はレジの方へ行った。そしてレジ係のおばさんに手早く生産終了かごに詰めてもらった。
「えーと全部で幾らになるかな?」
杉ちゃんがそういうと、レジのおばさんは4500円といった。カードで払うのであれば、あまり気にしないでよいので、杉ちゃんは平気な顔をして、クレジットカードで支払った。
「さて、お茶でもして帰るか。」
杉ちゃんは、商品を袋詰めし始めた。蘭はその間に、素子さんの夫の淳一さんのところへもう一回電話をした。
「もしもし、小宮山さんですか?診察、終わりましたでしょうか?」
ところが、小宮山さんは、困った声でこう答えるのであった。
「いやあ、それがですね。まだなんです。いま会計待ちですが、それでも一時間は待ちそうです。土曜日だからでしょうか。病院には、ものすごい人がいまして。」
「はあ。怪我のほうは、診察してもらえたんですか?」
「ええそれは大丈夫でした。ちゃんと包帯もしてもらったし、消毒もできております。まあ、大した怪我では無いと言われましたし、化膿もしていないそうです。申しわけありませんが、素子をもう少しあずかってください。」
「はい、分かりました。まあ仕方ないですね。彼女は僕の自宅にいるようにさせますから、終わったら、必ず迎えに来て下さいね。」
蘭はそういって電話を切ったが、何だか淳一さんは、素子さんから逃げるきっかけができて喜んでいるのではないかと疑ってしまった。だれに対しても、精神障碍者というのは、一緒にいたら得をしないという教育が知れ渡っているから。
杉ちゃんはお茶をのんでかえろうかといったが、素子さんは、まだ怖がっている様子であったので、もう家に帰った方が良いと蘭は思い、家に戻ることにした。
「とりあえず帰りましょうか。僕のうちで、コーヒーでも飲みましょうか。」
蘭は、素子さんを連れて、店の外へ出た。店の外へ出てみると、さっきまでいい天気だったのが嘘のよう。まだ真昼間だと言うのに、早くも夕方になってしまったような、そんな暗さになっていた。とりあえず、蘭がタクシー会社に電話してタクシーで蘭の家に帰ったが、タクシーの中でも電気をつけていなければならないのではないかと思われるほど暗くなった。
「あれえ。雨でも降るんかいな。どうか避難指示とかそういう事が出なければいいけどな。」
杉ちゃんが間延びした声で言った。いずれにしても土砂降りがくるのは確実だと思われた。
タクシーは蘭の自宅前で止まって、てばやく三人を下ろしてくれた。蘭たちが、自宅内に入ったのと同時に、バケツをひっくり返したような大雨が降り始めた。和太鼓を大音量で叩いているような雷もなり始めた。真っ暗になった部屋の中に、白い稲光が絶えず光り、爆弾が落っこちてくるような雷が連続してなり続けた。それを聞き続けるたびに、素子さんは怖がってギャーっと叫び声を上げ続けた。もし、力のある男性だったら、彼女を押さえることができたのかもしれないが、杉ちゃんも蘭もそれはできなかった。杉ちゃんなんかは、かまわん、放っておけと言った位である。蘭はよくそんなこと平気で言えるなと杉ちゃんに言ったが、それ以外に彼女に何とかしてやれることはなにもないのだった。
ただ、蘭は決してテレビはつけないことを決めていた。テレビはこういう時、障碍者を刺激して悪影響を及ぼすしかないということを、蘭は経験で知っている。杉ちゃんだってテレビは大嫌いであるから、雷の音だけ鳴り響いているのと、素子さんが叫び続けるのを、黙って聞いているしかないのであった。
やがて雨は静かになった。同時に素子さんも静かになった。
蘭がスマートフォンで天気を調べてみたところ、もう雨をもたらした雨雲は、富士市から遠ざかってしまったようである。外を見てみると、車の音があちらこちらで聞こえるようになっていたし、人が通る音も聞こえてきた。蘭が心配していた、道路が冠水するとか、そのようなことは起こらなかったので少し安心する。
ちょうどその時、蘭の家のインターフォンがなった。
「はい、どちら様でしょうか。」
蘭がそういうと、やっと待ち望んでいた人の声が聞こえてきた。
「すみません。蘭先生。小宮山素子の夫です。この度は妻がお世話になりました。本当に長居をさせてしまって申しわけありませんでした。」
ガチャンとドアを開ける音がして、小宮山淳一さんが入ってきたのだ。蘭は、買い物にいった時の発言や、雷の音で大声で騒いで迷惑をかけた事などを話すべか迷った。実はですね、と口にしようとしたところ、杉ちゃんがやってきて、
「おう、ありがとうよ。彼女は僕が届かなかったビニール袋を取って僕に持ってきてくれた。それは本当に感謝している。どうもありがとうな。」
と、デカい声でいった。杉ちゃんの言葉を聞いて、蘭はいうのをやめようと決断した。まだ、涙の乾ききっていない、錯乱状態からやっと落ち着いたばかりの素子さんは、自分が迷惑をかけたお詫びもできないし、あずかってくれた御礼をすることもできなかった。それでもいいじゃないか、と蘭は自分に言い聞かせた。
「本当にありがとうございました。あの、御礼として、これをお納めください。御迷惑をおかけして、本当にすみません。」
淳一さんは、申し訳なさそうな顔をして、蘭に一万円札を渡そうとしたが、
「そんなもの要りませんよ。彼女は彼女なりにできることをしてくれました。それで良いと思います。」
蘭はにこやかに笑って首を振った。結局そのお金は受け取らなかった。
空はよく晴れて日が刺していた。大きな虹が、蘭たちの努力をたたえているような感じで、空にかかっていた。
虹 増田朋美 @masubuchi4996
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