VS潜水艦 / 海の底
コレッジオ・ウヌは胸を水圧で押しつぶされているかのように、苦しい息をしていた。
コレッジオAの艦内。
艦長席はインタフェースが固くて狭かった。
古代戦艦であるコレッジオは、潜水艦でありながら清潔で空気も清く。
ヨナの知っている現代艦船の潜水艦は、例外なく狭くて臭い。
原子力潜水艦はそうでもないと言われるが、少なくともディーゼルの通常動力潜水艦はひといきれで息が詰まる。
『お姉さま、敵艦がまた進路を微調整しましたわ』
コレッジオBから共振で妹の声が届く。
『懲りずに私たちの包囲網を抜けようとするつもりでしょう。コレッジオBは阻止進路をとりますわ』
『お願い。あなたのほうが近いわ』
2隻対1隻。
私たちは敵艦『イリスヨナ』を包囲している。
そう、連携に慣れている2隻の潜水艦で、水面をのろのろ進む1隻の周囲を旋回しながら包囲している。
――包囲している、はずだった。
こちらのコレッジオ1隻を、見せ球のおとりにして挟み込む奇襲作戦。
状況が狂ったのは、ありえない方向へ発射管開放の音もなく発射された未知の魚雷。
イリスヨナの体勢を崩すはずだった先制攻撃をあっさり砕かれ、予定が崩壊した。
無音潜行も追撃も、次の行動に移る判断が遅れたコレッジオAに、イリスヨナが船首を向けて。
それから一週間。
イリスヨナによる休憩なし24時間の転進に、2隻の潜水艦は休む暇もなく対応に追われていた。
古代戦艦は強大な力を持ち、艦の寿命は戦没と整備不良以外では無限に思える。
だが、操艦するだけでも巫女に苦痛を強いる。
操艦途中からひどくなっていく、頭痛、吐き気、手足のしびれに熱感や冷感、胸の痛みに呼吸困難。
脳内をかき混ぜられるような不快感。
巫女により船により、また戦闘状況にもよって、その日ごとに異なる症状が巫女を消耗させていく。
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巫女が戦闘中は、戦闘艦橋からヒトを排除する。
視界にちらつくヒトの存在が、古代戦艦の制御から巫女を消耗させるから。
確かに集中したほうが長く戦闘を続けられ、戦闘中の苦痛も軽い。
しかし孤独が精神を蝕む。
コレッジオは巫女同士で交感して会話ができるから、孤独についてはマシなほうだが。
出港からすでに1ヶ月。
魔槍の輸送計画のリークを受けて、輸送中を襲撃するはずが、コレッジオA、Bは初戦闘に望むというストレスにより巫女に由来する機関不調。
間に合わせるため仕方なく先行した戦艦『アンジェ・リコ』は合流予定の海域に現れず、イリスヨナはここに健在。
巫女への負荷が大きい戦艦である『アンジェ・リコ』が、コレッジオをおいて先行できたのは乗艦する巫女の才能ゆえだった。
そして先行したきり、ここまで参戦の様子はない。
戦闘があったとは限らない。
機関不調で立ち往生しているだけかもしれない。
仮に戦闘があったとしても、戦艦『アンジェ・リコ』は、私たちの中でも特に才能ある巫女と強力な戦艦の組み合わせ。
せめて敵国でも岸辺にたどり着いていれば良いと考え、その心配の裏にある暗い予感に、コレッジオ・ウヌはせり上がっていた胃が震えるのを知覚した。
艦長席の隣には、優美さなど欠片もない小さな金属製のたらい。
黄色とピンクの混じった透明な胃液を見つめて、とうに限界を越えた肉体と精神をあらためて見せつけられる。
未消化の固形物は混じっていなかった。もう3日も食べ物を口に入れていない。
思い返してみれば、初回攻撃が失敗した時点で奇襲という優位は失われていた。
あそこが最初の分岐点。そして今こそが2つ目、たぶん最後の判断のしどころだった。
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『ではお姉さま、イリスヨナに逆襲を仕掛けますのね』
コレッジオ・ウヌの精神のゆらぎに反応して、コレッジオBから妹のコレッジオ・ドゥが反応する。
「いいえ。わたしたちは戦闘海域から離脱します。わたしたちの負けです」
『そんな! コレッジオはイリスヨナを包囲しておりますわ。二隻で同時に仕掛ければ』
「戦えば、どちらかが沈む公算が高い」
『この際、犠牲もやむなしかと』
戦艦『アンジェ・リコ』は帰ってきていない。
自分自身を頭数に入れている以上、妹が無責任なことを言っているわけでも、姉である自分の命を軽視しているわけでもないことは、コレッジオ・ウヌにも理解できた。
しかし。
『わたくしたちは2隻で交代して休憩しながら相手を包囲しておりますのよ。イリスヨナはすでに7日、
休みなく舵の変更を繰り返して疲弊しております。わたくしたちが海底から狙う射線をさける気の休まらない航路策定ですわ。敵の新兵器も、何が起こるかわかっていれば恐るるに足らず』
いきまく妹の言葉を受けとり、姉は、しばしの無言のあと。
「その言葉が嘘であることは、私たちが一番よくわかっています」
声には、ごまかしようのない疲れが現れていた。
コレッジオの巫女は、言葉だけでなく心も通じる。
だから、妹が疲労と苛立ちを押し殺し、どれだけ虚勢をはろうとしても無駄なことだ。
互いの疲労と絶望は、隠しようもなく相手にも伝わる。
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戦況は、現状を見ても明らかだった。
例えば今回はこうなる。
イリスヨナが先手。ソナーを乱打しながら包囲網を抜けようとする。
コレッジオのどちらか近い方が動き、イリスヨナの進路に艦首を向けて魚雷の射線で進路を塞ぐ。
今回、対処するのはコレッジオB。
コレッジオBはこれから休憩に入るはずだったが、イリスヨナは『なぜか』コレッジオBが対応せざるおえない進路をとってくる。
イリスヨナは強行せず、しかしコレッジオBへ船首を向けて魚雷発射管の開放音で威嚇をする。
ブラフと思ってもコレッジオBは対応するしかない。急速潜行または進路変更の慌ただしい操艦。
そうしてコレッジオBが対処できず、もう一隻のコレッジオAが援護する時間を与えることもなく、イリスヨナはすみやかに包囲網の中へ。
その場かぎりの戦況や、海上での配置だけ見れば、現状はコレッジオ2隻がイリスヨナを包囲し続けている。
コレッジオはイリスヨナの意図をくじき、包囲突破を阻止した。
しかし、同じ行動がもう23回も繰り返されているのだから、実情はまったく違う。
イリスヨナの精密で疲れ知らずの操艦に、コレッジオ2隻はすっかり操られている。
気づいたときには、決戦が困難なところまで消耗させられていた。
装甲が薄く静音奇襲を旨とした潜水艦と、長期戦ができ頭上から覆いかぶさるようにソナーの猛威を振るう『イリスヨナ』。
コレッジオが無音潜行で近づいても、ソナーで必ず見つけてくる。
2隻で同時攻撃できるタイミングを作らせず、必ずどちらかを対潜兵器の攻撃範囲に納めながら。
そのために、イリスヨナは休み無く細かい舵の変更を繰り返す。
敵艦位置も不明瞭で、いつどこから攻撃を受けるかもわからないはずの状況で。
事前に想定し、最初の状況以降、想定しているイリスヨナの索敵範囲と、現状のイリスヨナの行動は一致しているようにも見えるが、それにしては采配がうますぎる。
敵艦イリスヨナの索敵範囲と正確さは、我々が知るどの味方艦よりはるかに精細かつ広範囲に及んでいる。
それは直感だった。
視野の広さは、もう一隻がイリスヨナ勢力にも隠されているかのような。
疲労を見せることなく。
昼夜問わず。まったく休むこと無く。
戦闘が始まってから一週間。
操艦だけではない。聴音で知るかぎり、イリスヨナ機関は不調を一度も起こしていない。
それが当然といわんばかりに等速を維持しつづけている。
古代戦艦とはとても思えないレベルの安定動作。
コレッジオはこの間に何度も不調を起こし、コレッジオA・B共に機関停止まで起こしている。
次に機能不全をおこせば、艦全体にリセットをかけないと機関が再起動しないだろう。
ふたりの巫女と2隻の潜水艦が交代で活動できるという、コレッジオの利点も潰されていた。
コレッジオのどちらかが休憩をとると、イリスヨナは必ず休憩をはじめた少し後にそちらへ向かって舵を切る。
休憩を中断されて、心と身体を癒やす間も与えられず。むしろ休もうとして不意の襲撃を思い出して怯えが先に。
まるでコレッジオ両艦の位置が見えているような、あるいはそうでもないような、微妙な確率だが、コレッジオを休ませないという目的ははっきりとしていた。
確信があった。
イリスヨナはこちらが完全に見えている。
イリスヨナはこの1週間の戦闘でまったく疲れておらず、頭も鈍っていない。いまも戦闘開始時と同じように動ける。
潜水艦『コレッジオ』は、昔は潜ったまま酸素が切れても浮上できないという事故が珍しくなかった。
しかし、ここ数年で操艦性と信頼性が異常に向上した。理由はわからない。
コレッジオと同じ、大国ストライア側の古代戦艦はみな性能改善が起こり、対する『イリスヨナ』が属している大国エルセイア側ではそういう事例は報告されていないはず。
それにもかかわらず、イリスヨナが見せる性能はこちらを凌駕している。
『イリスヨナ』はいったい何が起こって、どうなっているのか。
対してこちらは巫女ふたりとも数日前から食事が喉を通らず、思考は散漫。
艦の制御もおぼつかないありさま。
この状況はイリスヨナが作りだしたもの。
見えない網の中で死を待っているのはこちらの方。
この状態で決死の攻撃を仕掛けたとして、その結果は考えるまでもなく明らかだった。
それでも、本能でわかっていても理性を納得させるために、言葉でつむぐ言い訳は必要なのだった。
「リコのこともあります。私たちが帰らなかったら、あの白いイリス艦について、味方は誰も知らず、何もわからないままになってしまいます」
『お姉さま』
それは誰もが頭で理解していても黙っていた、暗い予感の現実化だった。
<戦艦『アンジェ・リコ』は既に撃破されている。>
「魔槍の輸送の阻止は失敗しました。これ以上の戦闘は無意味です」
それは終了の合図。
「コレッジオ両艦は作戦を終了。戦線を離脱し、戦艦『アンジェ・リコ』の捜索へ移るのです」
コレッジオ・ウヌは後ろに控えていた副官を呼ぶ。
「戦いは終わりです。帰還します」
副官は、40歳を過ぎた体格の良い男。信用のおけない古代戦艦の潜水艦で、次は浮上できないかもしれないという恐怖に打ち勝ってきた。20代からコレッジオに乗艦し、忠誠心も士気も高く、決して折れやすい部下ではない。
しかし、頭上の厚い水圧と敵艦イリスヨナのプレッシャを受けつづけ、浅い眠りと休めぬ頭で発狂しそうな戦況に耐えていた副官が、帰還の言葉をきいたときの、なんともいえない顔。
かける言葉を、コレッジオ・ウヌには見つけることができなかった。
同じ気分だったからだ。
なぜもっと早くこの判断をしなかったかと、自分を心の中でなじるほどに。
コレッジオ両艦の安全な退避ルートを慎重に策定し、指示する。
もちろん緊張は解いていない。撤退が完了するまで、イリスヨナは変わらず我々の頭上にある。離脱のタイミングを狙う算段の可能性もある。
私たちを罠にハメ、じっくりと一週間かけて飢え細らせた『白いイリス艦』が、このまま逃げる私たちを見逃すだろうか。
コレッジオのどちらか一方、妹だけでも確実に逃がすことはできないか。
コレッジオAを操艦する巫女、レグリア・コレッジオ・ウヌが、疲れ切って熱を孕んだ頭で考えるのは、ただそれだけだった。
戦闘開始から、一週間が経過していた。
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戦闘開始から、一週間が経過していた。
戦闘中とはいえ、ヒトが一週間も集中を保ちづつけることは、さすがに不可能で。
第二発令所から海を眺めつつお茶をする艦橋要員たちは、みんなリラックスし切っていた。
というかレインとアリスは監視ではなく本当にティータイムをしている。日光浴を兼ねて。
エミリアさんは、さすがイリス家の使用人。そつがない動きでティータイムを演出しつつ、副長たち監視要員にも邪魔にならないようお茶をふるまう。
「エミリアさん、なにか足りないものとかあります?」
「さすがに野菜は足の早いものは無くなりましたね」
まあ、長期航海を考えていたわけではないから当然ではある。
「クッキーやケーキに使う卵と牛乳はまだ少しもちます」
こちらは分量というより賞味期限の問題。
この世界にも冷蔵庫はあるが、魔術道具であるため高価で魔力を流し込む必要もあって、市井には普及していない。
なお古代戦艦イリスヨナには、電源供給式で魔力不要という謎の冷蔵庫がある。
私のいた世界ではそっちが普通の冷蔵庫だが。こちらでは超古代文明の遺産ということらしい。
レインがティーカップをおろす。
「クウの背中に乗って買い出しに行ってきましょうか?」
「ありがとう。でも大丈夫」
ドラゴンのクウに乗っていけば確かに簡単なのだろう。
敵潜水艦は対空装備がないし、空を見上げる余裕もないだろうから、たいして危険もない。
「結果はどうあれ、もうそろそろ決着がつくだろうし。この海域にいつまでもイリスヨナがいることはないわ」
退屈だから散歩に行きたいということなら、反対はしないけれど。
「レインはヨナさまと一緒にいられて幸せですよ」
ならよかった。私は言葉に笑みを返す。
「私は第一発令所におりるけれど、レインたちはひきつづき日光浴を楽しんで頂戴。イリス様が上がってきたらよろしく」
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洋上での長期生活といえば『壊血病』が有名だが、海運の途絶えたこの世界でも古くからの知識として知られている。
イリスヨナにもつねに何かしら柑橘類が積み込まれており、ビタミン剤が備蓄されていた。
だがイリスヨナの乗員は、この世界の平均から見れば日頃からかなり良い食事をとっている。
貴人向けメニューを出せるイリス家の使用人たちが作る食事は、食材の偏りを意識させることなく、当然に栄養バランスも考えられている。
さすがに洋上生活では生野菜は少ないけれど。
それだって無いわけでなく、ニンジンサラダが出たり。この世界でタマネギはちゃんと品種改良されていて、水にさらせばサラダで美味しく食べられる。
壊血病は、1週間ではまだ気にするほどでもない。
それにもし備蓄が尽きても、イリスヨナで食料やビタミンが足りなくなることはない。
第一発令所に降りると、イリス様とフーカが間食をとっていた。
「またそれ食べてるの?」
かじっているのは棒状のやわらかいクッキー。
その形は、私のいた世界の栄養補助食品にとても似ている。
ミーハーというか興味関心を全開にしたモードのフーカが、目を輝かせながら
「食料生産ユニット、だっけ? だって古代戦艦にそんなものが搭載されてるなんて聞いたこともなかったのよ。その実物が無尽蔵に出てくるってなったら、食べてみたいじゃない」
「繰り返しの説明になるけれど、食べすぎると太るわよ」
違いといえば、ダイエット中の方にはオススメできないレベルでカロリーが暴力的に高いこと。
それもそのはずだ。この四角いクッキー風の食べ物は、栄養補助食品ではなく、戦闘糧食にして、完全栄養食。
イリスヨナには驚くべきことに、食料生産ユニットが搭載されている。
我ながら宇宙船かよとツッコミを入れたくなるが、そんなものがさらっと放置されているあたり、本当に古代戦艦はオーバーテクノロジィの塊だ。
古代戦艦イリスヨナでは、各種循環系はすべて機関部で完結している。
冷蔵庫と同じように、各ユニットの仕組みは正直、自分自身でもわからないのだが。
古代戦艦イリスヨナそのものである私が、イリスヨナのメカニズムについて知らないというのは最初は驚いた。
しかし、誰もスマホの仕組みを理解しないまま使っているのと同じようなものだ。
というか、人体の仕組みだって、ほとんどみんな医者のように詳しい理解を持たないまま生活できている。
機構や原理がわからなくても、イリスヨナの制御システムとしてはそれで十分ということだろう。
(まあ、それと別に武装のロックがあるのは困るのだけれど。)
こういうSF的な食料生産ユニットは、往々にして原料が言及したくない感じなのがお約束だけれど、フーカもイリス様も、私の懸念に動じること無く。
「食べられないもので作ったかもしれないけれど、食べられないもので出来ているわけではないんでしょう?」
とフーカ。
ヒトはふつう、そこまでロジカルになれない。
イリス様はイリス様で。
「ヨナの作ってくれたものだから」
手作りクッキーみたいに言わないでください。信頼いただけているのは嬉しいです。
でも化け狸になってヒトを騙しているような気まずさがあるのは否定できない。
まあ、突き詰めてしまえば、地球そのものが再生産による食料化ユニットそのものとも言える。気持ちの問題だ。
責任をとるというか、なんというかで、私もつきあって1本食べる。
ヨナの身体は、そもそも栄養摂取の必要がないみたいだけれど。
食感は食べやすいと褒めるべきか、ボロボロ崩れて物足りないと言うべきか、迷う。
「まあ、美味しいといえば美味しいのよね。味気ないというか、ひと味足りないけれど」
美味しいのは各種栄養素が充足していることと、何よりカロリー分の糖分。カロリーは美味しい。
ひと味足りないのは多分、完全食ゆえに塩気や甘み、油っこさが足りないのだ。カラダに悪い系の旨みが不足している。
それに、必須アミノ酸は作っても、ウマミなんていう面倒な分子構造をわざわざ作っていないのだろう。
特にフーカは王族なのだから、良いものを食べてきたはず。
隠し味や雑味、風味を考慮していない完全栄養食は、フーカの舌では味付けのなさが際立つのだろう。
ミッキが最初に味を確かめて以降は手を出さないのがちょっと意外。クッキーはつまむのだが。日頃の態度には出なくて忘れがちだが、ミッキも貴人なので、舌が肥えているのかもしれない。
いちおう食料生産ユニットは新機能だけれど、イリス様への負担はない。
戦闘機能と違いロックはかかっていなかった。古代戦艦にとって、分子アセンブルによる食料の合成は飲用水のろ過と同じ程度のあつかいらしい。
「イリス様、上の発令所でお茶などされてはいかがです? レインたちがちょうど日光浴をしているのです。陽の光を浴びるのは気が晴れますし、健康によいといいます」
第一艦橋は居心地が悪いわけではなけれど、陽がささない部屋ではある。
「ヨナ、そうしてほしいの?」
「そうですね、今すぐというわけではありませんが」
当然ながら、イリス様を発令所から追い出したいわけではない。
イリス様は少し考えてから、艦長椅子に身体を預ける。
「ではもうすこし、ここにいます」
「そうですか」
「きもちいい」
「そうなんですか?」
船長椅子のクッションのことかな、と思った私に、イリス様が微笑む。
「ここに座っていると、ヨナのことを感じられるから、安心する」
古代戦艦の巫女は、肉体的に辛いという話だけれど。
イリス様がイリスヨナに安寧を感じてくれているのならば、とても嬉しい。
ヒトの心身を安心して預けられる船であれることは、私としてもイリスヨナとしても、何かが満たされる気持ちがした。
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「敵潜水艦が動いたわね」
第一発令所のVUHDにもリアルタイムで反映しているが、私とフーカが向かい合って座っているのは発令所の端、壁から生えた海図台の横だった。
海図台が置いてあるのは、航路策定のために航海士が使う一画で、いつもは副長か他の妖精船員が使う。
ただ、最近はイリスヨナがヨナによる自動航行で済ませることが多い。
海図もVUHDのリアルタイム表示のほうが更新が早いため、もっぱらそちらを見るのが主になっている。
しかし今は海図台をフーカが専有しており、海図の更新もフーカがVUHDを引き写してやっている。
海図の上には、イリスヨナと敵潜水艦2隻をしめす駒。
オブジェのような簡単なものだが、ミッキが金属板を加工して作ってくれた。
フーカが駒を動かしながら話す。
「敵潜水艦コレッジオBから反転して離脱。コレッジオAがこれを援護。想定どおりの撤退行動だわ」
事前に話し合った敵艦の予測行動のうちの1つだ。
敵は、作戦目標と思われる『戦略兵器である魔槍の輸送阻止』にはすでに失敗している。
イリスヨナにより海域に1週間も釘付けにされて、相手は巫女も作戦行動もすでに限界。
ここで突撃をえらぶ判断ミスをしなければ、相手は撤退し、お互いに無血で戦闘を終了できる。
なんだか私が敵潜水艦の頭をおさえて圧倒的優位のうえからあえて苦痛をあたえているようで、私としても思うところはないでもない。
でもここは戦場で、しかも2隻の潜水艦に対して彼女たちの包囲の中にあり、イリスヨナができるだけ穏便にことを済ませる方法を他に思いつかなかった。
別に敵艦になさけをかけたわけではないし、フーカの心情をおもんばかった判断でもない。
冷静な判断として、可能な状況では撃破を避けることで『敵対するつもりはない』アピールをしたほうが良いと考えただけだ。
私たちは戦艦を作るつもりだが、戦争がしたいわけではないのだから。
私とフーカは、イリスヨナの油断を狙った不意打ちを警戒して、想定パターンを確認する。
その間にも、コレッジオ両艦は守備を交代しつつ、戦闘海域からの離脱していく。
3時間かけて、敵艦の撤収がほぼ終了した。
「まだ終わったわけではないけれど、でもどう? 初戦闘の感想は」
味方陣営を飛び出して、裏切りのような初陣。
それで得た経験には、血の沸騰するような海戦も、華々しい勝利もなく。
「あなたとしては、後味が良いとは言えないかもしれないけれど。あるいは、味気ないかしら」
挑発するような物言いになってしまうかもしれないが、訊いておかなければならない。
尻すぼみのような終了を迎えて。
何かしら精神的なフォローが必要だろうか。必要だとして、何をどう言えばいいのか。
フーカは、俯くような首の角度で、下を見て、海図台の上に広げた自分の右手を見ながら。
「初戦闘で、ちゃんと生き残ったのよね、あたし」
私に問いかけるのではない、つぶやきのような言葉だった。
それから顔を上げて。
「あたし、またこの船に乗れる?」
「ええ。あなたには、まだこれから、いろいろ学んでもらいたいもの」
「―っ!」
右手を握りしめて、無言のまま喜色を浮かべるフーカ。
無邪気なものではなくて、どこか凶暴な獣のような。
フーカが、自分を追い出した家族への復讐を望んでいるようであれば、仲間として迎えるのは危ういと思う。
でも表情とは別に、口から出たのは『また乗れる』という言葉で。
私の身勝手な願望かもしれないけれど、私はその言葉を信じることにした。
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こうしてフーカの初陣、ヨナにとって初めての複数艦との戦闘は、ぱっとしないまま、犠牲者なく尻すぼみになって終了した。
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