引網と漁場調査
海岸付近に、疎開民たちによる難民村ができようとしていた。
大国エルセイアの国境付近で勃発しかけている戦争は、大国間の戦争故に、開戦が決定する前にもかかわらず既に情勢不安を引き起こしていた。
遠方である辺境国の端、海辺のイリス伯領地にまで、疎開民が増え始めている。
といっても今はまだ、紛争地域から直接ここまで逃げ込むというより、玉突き的に隣の国・伯領地から人が漏れ出すほうが多い。
定住地として、海獣の生息域近くは敬遠される。内陸と比べてではあるものの、獣の驚異にさらされやすいからだ。
海獣の上陸はありえないが、個体数の少ない地上の大型獣が海岸沿いの海獣を主食とし、海周辺を生活圏として好む。
人が居ないので治安が悪くなり、また人が減るという悪循環。
行き場のない人たちは、仕方なく空隙であるそこに一時の暮らしの拠点を構えはじめている。
海辺に定住する人は少ないが、絶無ではない。いつの時代も爪弾き者や変わり者は居る。彼らの主な収入源は、海で釣った魚の干物だ。
海獣のうようよしている海の産物なので、多少ゲテモノ扱いなところはあるが、希少品でもある。
そのため、市場に持っていけば、暮らしていける程度には良い値段で売れる。
だから冒険者になるような無鉄砲者がたまに、河用の小さな漁船で岸壁釣りよりも実入りのいい投網漁を始めるのだが、概ね3ヶ月くらいである日海から帰ってこなくなる。
疎開民たちにツテのあるものは釣り道具を手に入れて海辺の釣りに混じるようになっていた。
手狭になった浜辺で小さな縄張り争いなどしつつ、海辺はいつもより騒がしくなりつつあった。
そんなある日、イリス伯の衛兵たちが海岸に現れた。
最初は何事かと思った釣り人たちも、緊迫感のない彼らの様子を見て立ち上がりかけた腰を落ち着け直した。
そして、彼らが『ブイ』と呼ぶ浮きに紐をくくりつけて海へ流してから、何もせずに数時間。
周囲の釣り人たちはそれが仕事なので、公僕は暇でいいなぁ、などと思いながら釣り糸を垂れる作業を続ける。
海上に物陰。
「なんだあれ」
すわ海獣か、とまたもや腰の浮く釣り人たち。彼らの警戒心はまっとうなもので、ここで全力で陸に向かって駆け出さない者たちは、大型海獣が起こす津波に攫われる目にあう。
その中で、どっしりと構えたままの老人が、ぽつりとつぶやく。
「戦艦イリスヨナ、国の誉れじゃ」
釣り老人が右手を軽く胸にかざして、礼を仕草で示す。隣に座っていた彼の息子の方はそれを少しばかり胡乱な目で見るが、何かを言うことはしない。
近づいてくるのは確かに海獣ではなく人工物だった。海上のブイに接触すると、それを引き上げて、何かくくりつける。
そして、船からの旗での合図を受けて、ぼうっと突っ立っていた衛兵たちがブイの紐を引き始めた。
「引っ張れー!」
そしてなぜか、紐の先には、海で見るのは珍しい、一人乗りの小さな釣りボートがつながっていて、それには小さな女の子が一人乗っていた。
少女について、遠くから見える人影でわかるのは、大きな耳の獣人であることくらい。
命知らずはいつの時代もいるものだが、それが古代戦艦から小舟に乗ってやってくる少女という図は意味がわからない。
向こうで船を漕いでいるのと、男たちが綱を引いているのだが、男たちは大変そうだ。
そのうち、隊長格と思われる男が、周囲に声をかけはじめる。
「手伝ってくれたら礼はする。といっても、現物支給なんだが」
ぴんときた数名が、釣り竿を置いて綱引きに混ざる。
「エビが引っかかってるぞ」
エビ、というのはこの場合、50cm近くある小型海獣のことを指す。
「任せろ」
衛兵の一人が出ていって、網に絡まって暴れるエビを剣で突く。エビは誤って釣り上げてしまうと、地上でもすばやく走り回るし大きなハサミが大変危ない。だが網に絡まって動けない状態で、衛兵がきちんと対処すればそれほどの脅威ではない。
「大丈夫かしらー?」
トドメを刺して、左右のハサミもちゃんと落としてから、衛兵が海上の声に向かって手を振る。
ここまで来ると、その姿がよく見える。
大きな耳の獣人の少女だった。見たことのない格好をしている。衛兵が礼をし彼女の指示に従うので、それなりの地位のある方のようだとわかる。
引き上げられた小さな網は、魚で膨れきってパンパンだった。
「投げればいいんですね?」
「そう。網の中から、そっちへ。集計は私がするから」
衛兵と、それに混じった男女が魚を樽へ移す。現金なことではあるけれど、網の中身を見せられたことで、手伝いがわっと増えていた。
端で衛兵の一人が紙にメモをとっている。
それが終わると、分け前の配布が始まる。
少女は老人に声をかけ、採れた中でも大きめの魚を2〜3匹渡しながら、穫れた魚について話をしている。
「浜辺で釣れる魚と比べてどうです?」
「みんな恰幅がいい。浜辺よりも良いものを食ってるんじゃないかな」
「食しているものが違うと、毒性を持ったりしませんか」
「大物は、浜にもたまに流れてくるが、そういうことはこれまでなかったなあ」
他にも見たことのない種類の魚が混じっていないかとか、釣れる魚と種別の分布はどうかとかを尋ねる。
「海獣と同じ海の生き物なのに、食べても大丈夫っていうのは違和感があるんですよね」
「悪いものではないんですよ。海獣は。人間が勝手に困っているだけでね」
老人は穏やかな顔で言う。海の幸に対する、自然な敬意が表情に現れている。
網の方を見ると、エビも報酬交渉の対象にされているようで、事前にこれの確保を指示されていた衛兵たちが、血気盛んな若者たちに押され気味になっていた。
「威圧的に突っぱねないのは私としては好感だけれど」
そう呟く少女はさっぱりとした笑顔だった。
終わってから、両手にかかえきれないほど魚を持った近隣住民たちに向かって。
「必ず毎日と約束はできないけれど、これからしばらく、調査のために網を引きます。手伝ってくれたら現物支給でお返しするから、今後ともよろしく」
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