ヨナの決心
イリス様はすやすやとお休みになられている。
その寝顔を見ながら待つこと、数時間。
今の私は、まるで枕元に立つ亡霊のようだ。
イリス伯邸は寝静まり、イリスヨナも足元の暗闇で川辺に揺蕩っている。
時刻はすでに深夜になっていた。
イリスヨナの人形ボディは、微動だにせず数時間立ちっぱなしでも、まったく疲れを感じない。
そのことが、少しだけ恐ろしい。
明確に、私の意志でここに立ち、イリス様の目覚めを待っていた。イリスヨナになったばかりで、自分の中にあるイリス様への忠誠心には戸惑うが、それとは別に、私はこの娘を助けたいと望んでいる。
方法はある。
それが本当に私にできる事かどうかは、まだわからないけれど。
交代で座り番をして、イリス様を見守るメイドたち。彼女らの気味悪気な目線に申し訳なさを感じつつ、私はイリス様のお目覚めを待つ。
そうやって待っていると、イリス様が、ゆっくりと目を開く。
「その、...おしっこ」
それが第一声だった。
数時間眠りっぱなしだったのだから、まず生理現象が先に来るのは当たり前か。
ましてや、イリス様はまだ物心ついたばかりくらいの歳の、小さな子供なのだから。
驚かせないようにゆっくりと、だけれどメイドを差し置いて手を貸し、場所がわからないのでそのメイドさんに案内を頼んだりしながら、イリス様をおトイレにお連れする。
躾けはきちんとされているようで、イリス様はお一人で用を足して戻って来られた。
イリス様の寝室に戻る。
部屋には、天蓋付きベッドとぬいぐるみ。着替えなどが入っていると思われる収納。開いた窓と両開きドア。お茶をするのに良さそうな、小さな丸い机と椅子。空間の使い方が贅沢というか、からっぽな印象の部屋だった。
「あの、エミリアさん、お嬢様と2人きりにさせて欲しいのです」
メイドのエミリアさんには決定権はないのではないかと思いつつ、無理を承知でお願いしてみる。
名前はさっきトイレに行く途中で訊いた。
数度の言葉のやり取りの後。
「それはその、困るのですが、イリスヨナ様としてのご要望ということですか?」
「そうです。だからお願いします」
船としての望みと勘違いされたようだが、都合が良いのでそのままで押し通す。ちょっと危ない賭けだけれど。
イリスヨナは、イリス様のお身体を害している張本人だ。二人きりになるのを拒否されることもありうる。
「わかりました。お時間は少しだけで構いませんか? 廊下でお待ちしますので、終わったらお声掛けください」
あっさり承諾された。
エミリアさんは部屋を出ていく。
隠れて聞き耳を立てられるかも、と思ったら、扉の向こうに消えた後のエミリアさんの活動音が聞き取れることに気づいた。すごい地獄耳。人間だと、この部屋の扉越しでは声を拾えないだろう。
エミリアさんは本当に扉の向こうにて音を消してはいるけれど、積極的に聞き耳を立ててはいないようだ。
「イリス様、少しお話、よろしいでしょうか?」
ベッドの上で寝る姿勢のイリス様が、こくり、とうなずく。
「まず、あなたのお身体とお命を私が害していることを、謝罪いたします」自分の言葉に、胸が痛む。「お母様のことも、申し訳ありません。言い訳でしかありませんが、私の意志で積極的にそうしているわけではないのです。私は、あなたの命を奪いたくはない」
だから、私にできることは。
「艦隊を作りましょう」
私は言った。
「古代戦艦イリスヨナが必要なくなれば良いのです。
古代戦艦より強い海軍があればいい。そのためには艦隊が要ります。たくさんの船が必要です。戦うことのできる、強い船が。
私には、それの建造に役立つ知識があります。そして私は、それをしたい」
これは正直、話を盛っているにも程があるけれど。
私は艦艇を見るのが好きだった。
けれど、私の記憶には、造船知識とか、軍艦の運用経験とかは無い。
完全な素人だ。
それでも。細い希望の糸だとしても、私にできそうなことが他にないなら、これをやるしかない。
「イリス様、私にそのように、あなたに尽くさせては頂けないでしょうか?」
私の真剣さに、イリス様も見つめ返す目で答える。
こういうところは、本当に年不相応の貴人の血統を感じさせる。
眼の前の幼子を、美しく、痛々しいと、思う。
「はい。あなたに託します」
その返事が嬉しくて、飛び上がりそうになる。イリスヨナとしての高揚をがんばって押さえ込み、イリス様の手を弱く握るところまでで我慢する。
「必ずや、イリス様に幸福を」
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