ride


4月1日月曜日、なにも変わりない日だった。


僕はいつものように歌いながら家事をして、いつものようにバルコニーで育てている花に水をやった。

雨は降るかもしれないけど、暑くなってきたから念のために。

今日も街と街を繋ぐ塔橋が朧気なるを眺めみて、ようやく今日こそ外出できると、うれしくなって部屋の中でもステップを踏んでしまう。


学生寮から追い出されてから早や3ヶ月。

僕はこれからどのくらい隔離されて生きるのだろうか。

それは、きっと誰にもわからない。

なにせ僕らは隔離地区の住民なのだから。

今、世界は得体のしれない伝染病でまみれていて、対処法が見つからず発症した人々を代わる代わる特定の地域の住居に、個々に部屋を割り振って押し込んでいる。

家族散り散りになり、なんども症状が出る人はいつまでも帰れずにずっとそこで暮らしていたり、場合によっては強制入院させられていたりする。

僕はといえば、なにも症状がなく、病気が発症した人とたまたま学校で隣の席になってしまっただけということで、レッドラインに分類されてしまい、当初は2週間ということだったのに、自治体の定めが何度も変わってゆき、規定が厳しくなってしまって、咳がでたり、すこし倦怠感があるだけでも、ほんのわずかな症状でも平時の状態に戻ることは許されなかった。

途中でうっかり、(おそらく)風邪をひいてしまったのがいけなかった。

風邪で発熱したときには、完全に外から遮断され、ただ1人部屋で唸りながら寝ていた。このまま誰の手も握ることすらできず、最後の言葉すら許されず往くのかと。

深い悲しみに襲われた時期でもあった。

そこからさらに1ヶ月、外出はおろか退去すらできなくなった。

定期的に往診にくる医師は、宇宙飛行士のように完全に防護した服装をしていて、目元しか見れない。変わりないことを確かめにくるだけで、なにも面白いことがない。

最近はようやく、少し状況が緩和されてきて、体調が安定している人に限り外出許可を得ることができるようになった。

本当ならば、1年以上帰れなかった郊外にある実家に立ち寄りたかったのだが、親も帰ってこいとは言わず、話を聞けば近所から「伝染病患者の家族」という目で見られているようで、僕が帰ると更に迫害されるのではないかという。

いつでも帰っておいで、という母がこんなにも変わってしまうんだな、と世界の移ろいを呪うほかない。

そういう理由で、外出とはいえ帰る場所もなにもないから、せめて1人で演奏できる広い公園に行こうと思っている。

僕には、憧れの人がいる。

憧れというにも、会ったことはない。

動画や写真でしか見たことがない。

ティーンの間で知らない人はいないだろうし、その人のSNSアカウントをフォローしていない人のほうが稀なほど人気がある。

ウィリアム・テーラー

その名と、その人を知るために、450万人以上もの人が彼を取り巻いている。

声も、容姿も、足りないものなどないような、ミステリアスな人。

歌はすべてダウンロードして、毎日聴いている。歌詞も詩的なものが多い。

意味があるのか、ないのか、

SNSの投稿においても、いつも主語がなくて自分の気持ちなのか、周囲の出来事なのか、わからないのでファンの間ではいちいち1投稿ごとに探求され、考察をまとめたページまである。

" light "

" ride "

ときて、今日は

" my Fair Lady "

にわかに、SNSにあまたいるファンがざわめいた。

急に、ladyと呼び掛けた! と。

女性に向けてだろうか、

いやなにかの比喩で政治家に向けてではないか、

いや貴族批判ではないか。

様々に、あっという間に野焼きの火の欠片が風にのって山から街まで燃え上がるように、SNSはladyの言葉で埋まる。

僕はわかってしまった。

いや、確信はないけれど、

これは僕のことだ。

今日の朝にバルコニーで口ずさんだ歌だったから。

写真もロンドン橋。

僕はこの投稿を見てから、心臓の音が喉から飛び出てくるほどよく聞こえる。

ちょうど僕の部屋から見える橋の大きさと同じで、見える角度で、

今日はとてもよい天気なのにぼやけた景色。

この写真、僕がほぼ毎日見ている景色と同じなのだ。


ウィリアムは僕の歌を聴いて投稿した?

本当に?

でもそれ以外のなにがあるというのか。

僕は慌てて身支度を済ませ、裏通りの乗り合い集合所に向かった。

古いロックを口ずさむ。古いけれど、僕らには持ち得ない最高の時代の歌。

エレクトリック・ギターのリッケンバッカー325のレプリカを担いで、バスを待つ。


強い風が吹いて髪が乱れる。せっかく丸く整えたのに。

ふいに、足音が背後で立ち止まった。

「 マイ・フェア・レディ 」

僕は振り返った。

全身黒で包まれた、細身で背の高い、

帽子やサングラスで顔はほぼ見えないけれど、僕には誰かというのが、理解できていた。

突然の出来事で、徐々に呼吸が乱れてきて体温が上昇する。

言葉がでてこない。

うそだ。

この人と僕しかしらない秘密。

ああ、神さま!

ギターの担ぎ紐をぎゅっと掴む。

しばらくその人はサングラス越しに僕を見つめていた。

距離をあけて、ただバスが来るのを待っているだけのようでもあった。

声をかけたい。でもそれによって彼の平穏が崩れるとしたら、僕のせいになる。

「おはようございます」

うまく声が出ただろうか。

うわずった変な言い回しだったかもしれない。

「おはよう、お隣さん」

その声を聞いて、また全身が震えて手に汗がどんどん滲んでくる。

生の声!

甘く、渋く溶けてしまう。

heaven!

誰もその人がウィリアムと気がついていない。

これでいい。

それ以外の言葉は交わさなかった。

バスのエンジン音が裏路地に入り込んできた。

このバスで共に行く、

僕らは外へ行く。

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