第76話 忘れられた噂

 

 

 ああ、これは夢だと。


 眼前に広がる白い空間を認識してすぐ、瑠都はそう理解した。


 世界を渡ってからよく見るようになった夢。溶け落ちてしまいそうなほどの白さの中で、いつものように辺りを見渡した。


 離れた場所に影が一つ。銀色の獣が、瑠都のことを待っていた。動かずにこちらを見据える狼の尻尾が、一度だけ揺れる。


 ゆっくりと近付いて、狼の目の前に座り込んだ。大きな体を見上げると、牙が覗く口元から白い息が漏れる。恐ろしくはない。むしろ凍えてしまいそうなほどの白さが心配になって、思わず手を伸ばした。


 そっと首元に触れて撫でるように動かすと、狼はくすぐったそうに目を細めた。お返しとばかりに頬を舐められて、瑠都も微かに笑みをこぼす。


 静かな、白い空間。

 ふわりと柔らかい風が吹いた瞬間に、辺り一面に白い花が咲いた。狼から手を離して、まばゆさすら覚える光景に視線を落とした。


 清さを誇るようなその花を、瑠都は知っている。結婚式で、リメルフィリゼアの胸元に飾られていた花だ。儀式にも使われて、口付けを贈った、あの。


 頭を下げた狼が、一輪の花をくわえて摘んだ。この空間の中では、いっそ異質とも思える藍色の瞳が、静かに瑠都を見据えた。誘われるように両手を差し出すと、狼はその手の中に花を落とした。


 近頃、よく花を贈られる。エルスツナ、アスノ、そして狼。マリーにもらった花も、輝いて繋がりを紡ぎ始めた。

 夢でもうつつでも、瑠都の周りに花が溢れていく。リメルの象徴たる、花が。


 狼の鼻先が瑠都の手に触れた。花を押し付けるみたいなその仕草が、何かを伝えたがっているように思えてならない。狼はまっすぐに瑠都を射抜く。夜明け前の空と同じ、輝く綺麗な藍色。


「ねえ、何か私に──」





 瞬きのに意識が浮上する。

 言い切ることができなかった言葉を飲み込みながら、瑠都は見慣れた暗闇の中で目を覚ました。


「……夢」


 小さく呟いて、明かりが消えた部屋の天井をぼんやりと捉えた。


 眠りについてからどれくらいの時間が経ったのだろう。もう一度瞼を閉じる気にはなれなくて、ベッドに手をついて体を起こした。


 手のひらに、微かな違和感を覚える。ベッドから手を離して確かめると、そこには一片ひとひらの花弁があった。


(花……?)


 どこから紛れ込んだのか。ベッドの周りに花はなく、寝る前には落ちていなかったはずだ。

 髪にでも付いていたのだろうか。手のひらに乗せた花弁を眺めながら考える。


 真横でシーツが動く気配がした。顔を出したエメラルドが、瑠都を見上げていた。


「ごめんね、起こしちゃった?」


 囁くように謝罪しながら頭を撫でる。首を傾げる仕草は、やはりルビーによく似ていた。

 花弁を枕元に置き、エメラルドを再び横にして首元までシーツを掛けてやる。並んだぬいぐるみたちを見ていると、いつも心が安らいだ。


 静まり返った暗い部屋の中を見渡す。窓から漏れる月明かりは、まだまだ朝の訪れを告げそうにない。


 瑠都はおもむろにベッドから立ち上がった。少しの肌寒さを覚えながら、枕元に視線を落とす。いつ紛れ込んだのか分からない一片ひとひら。シーツに溶け込んでしまいそうなそれは、きっと同じように白いのだろう。


 眠気はすっかりどこかに行ってしまった。水でも飲もう。そう決めて、瑠都は部屋の扉へと向かった。




 扉を開けて、瑠都は廊下に顔を出した。しばらく様子を伺っても人の気配はない。自分が住んでいる家だというのに、夜というだけで少しの怖さを感じてしまうのはなぜなのだろう。


 やはりエメラルドに着いてきてもらおうか。そう思って振り返るが、ベッドの上の固まりが動く様子はない。温かいルビーの隣で、すでに眠りについてしまったのだろう。


 意を決して一歩を踏み出す。足音を立てないように気を付けながら、ゆっくり階段に向かっていく。


 今日はもう、リメルフィリゼアたちは全員帰ってきているのだろうか。不規則な生活をすることも多い夫たちのことを何気なく考えていると、あっという間に一階に辿り着いていた。


「ルト様?」

「わっ!」


 突如として掛かった声に驚いた瑠都は、慌てて口元を手で覆った。


「わわ、驚かせちゃいましたね! ごめんなさい!」


 明るく笑ったのは、瑠都の侍女であるフーニャだった。


「足音が聞こえたから、どなたかと思って見にきたんです。眠れないんですか」


 優しく尋ねながら近付いてくるフーニャは、瑠都が答える前に目を大きく見開いた。


「ま、まさか……。ルト様、約束を破ったんですか!」


「約束?」


「そうです、フーニャと交わした大事な大事な約束です! 寂しい時はすぐにフーニャを呼ぶって約束したじゃないですか!」


 瑠都がドンララン山へ飛ばされたあと、フーニャと約束を交わしたのだ。変な物には触らない、怪しい人には付いていかない、寂しくなったらフーニャを呼ぶと。

 良からぬ物から瑠都を守るためだとフーニャは言ったが、前の二つとは意図が違う最後の約束が、ここで持ち出されるとは思っていなかった。


 破ったんですか、それとも忘れてたんですかと悲しそうな顔で詰め寄られて、瑠都は慌てて首を横に振る。


「違うんです、あの、ただ水を飲もうかと……」


「え? そうなんですか。なーんだ、安心しました! もう、びっくりさせないでくださいよお」


 部屋から降りてきた理由を説明すると、フーニャはあっさりと態度を変えた。


 昼間ともまったく変わらないフーニャの様子に、先程まで瑠都の中にちらついていた暗闇の恐怖が和らいでいく。


 冷静になって見てみると、フーニャはいつもと同じ侍女姿のままだった。それになぜか、少しだけ甘い香りがする。


「すぐに準備しますね!」


 走っていきそうな勢いのフーニャを呼び止める。


「フーニャさん、まだお仕事中だったんですか」


 仕える主として申し訳ない気持ちになりながら尋ねると、フーニャは一瞬きょとんとした表情を見せた。すぐに自身の格好を見下ろして、なぜ瑠都がそんな疑問をいだいたのかを理解する。


「いえいえ、違いますよ! 実は……厨房を借りてお菓子作りの練習をしていたのです」


「お菓子作り?」


「はい! あ、もちろん料理長にもミローネさんにも許可はもらってありますよ!」


 無断ではないのです、と何度も主張する。


 なんでも、どうしても作ってみたいお菓子があったが、自信がなかったのでみなが寝てから練習しようと思い立ったらしい。二度失敗したが、三度目でようやく成功したのだと教えてくれた。


「明日ルト様に召し上がっていただこうと思っていたのです」


 腰に手を当てて得意げに胸を張るフーニャは、どこか嬉しそうだ。


「ありがとうございます、楽しみです」


 どんなお菓子か聞いてみようか。それとも明日の楽しみに取っておくべきか。贅沢な悩みだと思いながら、瑠都も笑った。


「お水、お部屋まですぐお持ちしますね」


 瑠都が降りてきた理由を解決すべく、フーニャが再度踵を返そうとする。フーニャが立ち去ってしまう前にと、瑠都は口を開いた。


「一緒に行ってもいいですか」


「え? それはもちろんいいですけど……やっぱり眠れないんですか」


 心配そうなフーニャに、また否定を示す。


「そういう訳じゃないんですけど……」


 一人になることが、なぜか怖かった。いや、怖いと表現すべきなのかも分からない。暗闇のせいなのか、どうしても思考が深い所へと沈んでいく。

 夢、狼、そして、花。それらが思考を埋め尽くすのを、誰かといることで少しでも食い止めたかったのかもしれない。

 

「……フーニャさん、結婚式の儀式で使った白い花のこと、覚えてますか」


 それなのに、気付けばフーニャにそう尋ねていた。フーニャはすぐに頷いてみせる。


「光を放った花ですよね。すっごい光でしたねえ。もちろん覚えてます!」


「あの花って、普段はどこにあるんですか」


「大聖堂に保管されてますよ」


 大聖堂、フーニャから聞いた答えを、口の中で繰り返す。夢の中で一面に咲き誇った白い花。狼が贈ってくれたリメルの象徴。


「そういえば、あの花にもリメル様に関する噂がありましたね」


「噂?」


「はい! なんでも、いにしえのリメル様が、ご自身のリメルフィリゼア様に贈られた花じゃないか、っていう噂です」



 いにしえのリメル。今も人々に語られることの多い、偉大な魔法使い。そして、愛する人を失い、自ら命を断った悲劇の人。


 そんなリメルは、あの白い花を好んでいたのだという。


 摘み取って、決して枯れることのない魔法を掛けた一輪を、リメルフィリゼアの一人に贈ったことがある。


 リメルが命を落としたあと、悲しみにくれたリメルフィリゼアはその一輪を生涯側に置いていた。そして彼は死の間際、祈りが集まる場所である大聖堂に、何よりも大切な花を置いてほしいと言い残したのだ。


 己の祈りが届くように、命を断ったリメルが、どうか悲しみから解放されているように。愛していると、天を通じて伝えるために。


 花はそのあと大聖堂で大切に保管され、リメルの結婚式の時だけその姿を表した。


 そのことから、大聖堂があるジーベルグこそ、彼の産まれた国なのではないかと言われている。



「私も祖母から一度聞いたことがあるだけなんですけどね。祖母も、幼い頃に近所に住んでいた魔法員から教えてもらったそうですよ」


 あとにも先にも、噂を聞いたのはその時だけだったと。顎に手をやって考えながら、フーニャはそう言った。


 瑠都は、結婚式での儀式を思い出した。あの時、瑠都は確かに白い花に触れたのだ。


 いにしえのリメルと、愛したリメルフィリゼアが手にしたかもしれない花。ならばあの花も、遥か昔、いにしえの時代から存在していたということだ。


 何を、見てきたのだろう。どんな想いを、注がれてきたのだろう。


 贈られた嬉しさ、共にあった幸せ。失った悲しみ、置いていく痛み。それでも愛していた、確かな心。


「……あの花、もう一度見ることはできるでしょうか」


 今夜、夢の中に現れた白い花。


 再びまみえたなら、結婚式の時のように、また奇妙なことが起きるかもしれない。それでも、もう一度この目で存在を確かめたかった。


「ルト様なら問題なく見にいけると思いますよ。朝になったらすぐに確認しますね。フーニャにどどーんっとお任せくださいっ」


 瑠都が頼み事をしたことが嬉しかったらしいフーニャが、胸を力強く叩いて応える。


「ありがとうございます。あの、でも全然急ぎじゃないので、いつでも……」


「大丈夫ですよ! なんなら今からでも飛ぶように走っていけるくらい、フーニャの胸は熱く燃えています!」


「飛ぶように……?」


 早さと情熱を伝えたいらしいフーニャの話を真剣に聞く。だが、ふと気配を感じて瑠都は後ろを振り返った。


「ルト様? どうかされましたか」


「あ……いえ、何も」


 広がるのは夜の闇と、燭台がもらたす明かりだけ。気のせいだとフーニャに伝えてから、二人は並んでその場を離れた。


 そう、気のせいだ。藍色がこちらを見つめているなんて、そんなことありえないのだから。


 寄り添うように側にいてくれた、優しい存在。これが、温かく美しい獣が夢に現れた、最後の夜だった。

 

 

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リメルの花 園田紅子 @sonobeni

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