第74話 ずっと彼方で待っていた

 

 

『──誰かいるのか』


 言葉を話す者は瑠都以外にいないはずの部屋の中に、突如として響いた声。


 瑠都は部屋の中を見渡しながら、側にいるルビーを腕の中に閉じ込めた。


(今、何か)


 誰かいるのか、なんて。本来は部屋の主である瑠都が発するべきはずの言葉だ。


 自分の鼓動が早くなっているのを感じながら耳を澄ます。だが、何も聞こえない。

 気のせいだったのだろうか。そう結論づけようとした瞬間に、再度響く声。


『……気のせいか』


 瑠都が考えついたことと同じ台詞。完全には納得していないだろう声色。


 早く、誰かを呼びにいかなくては。


 腕の中のルビーを強く抱き締めなおして、決意した瑠都はベッドから離れようとそっと動き出した。

 ベッドから降りながらもう一度部屋の中を見渡しても、やはり他に人影はない。違和感を感じるようなところも、どこにもない。再確認した瑠都の視線が、ふとある場所で止まった。


 窓際に飾られた鉢植え、そこに一輪だけで咲き誇る黄色い花。その花が、淡い光を纏っていた。


 ガーベラによく似たその花には、魔法が織り込まれている。満開のまま時を止めた花はいずれ対なる花と繋がり、持ち主同士で会話することが可能になるらしいのだと。贈ってくれたマリーからそう教わった、大切で貴重な花。


(まさか……)


 瑠都の中で一つの可能性が芽生える。打って変わった勢いで、急いで花の元に向かった。やはり淡く光る可憐な黄色。もしかしたら声は、ここから聞こえたのではないか。


「……聞こえますか」


 意を決して声を発した瑠都の腕の中で、一緒に連れてきてしまったルビーも、じっと花を見つめていた。


『──誰だ』


 やはり答えは花から返ってきた。


 本当に、魔法の花だったのだ。

 嬉しさと感動で胸を満たした瑠都の脳裏に、マリーの笑顔が浮かぶ。


 だが、花から返ってきた声には、明らかな警戒心が含まれていた。瑠都は慌てて、花にもう一歩近付く。


「あのっ、目の前に花がありませんか。黄色くて、満開の」


 うまく纏まらないまま懸命に、向こう側にいるであろう誰かに伝える。暫しの間を空けて、反応が返ってきた。


『……まさか』


 短い言葉だったが、反応からして相手もこの花の不思議な噂のことを知っていたのだろう。


『こんなことが現実に起こりるとは……』


 呟いた涼やかな声は決して幼くはないが、まだ年若い少年の物のように思えた。


 訪れた沈黙に、どうしたものかと瑠都は悩んだ。こうなることを楽しみにしていたが、いざ実際に起こるとどうしたらいいのか分からない。

 何を話題にしたらいいのだろうか、なんて声を掛けるのが正解なのか。そもそも相手は、こうなることを望んでくれていたのだろうか。


『すまない、まだ頭が混乱していて』


 黄色い花の向こうから届いた気遣いに、瑠都は口をつぐむ。


 同じ花を前にした人。どんな姿をして、どんな名で、どんなふうに生きてきた人なのか。瑠都には知ることもできないし、尋ねるべきではないことも分かっている。


「私も……まだびっくりしてます。うまく話せなくてごめんさない」


 同じような謝罪を返す。花は相変わらず淡く光って、瑠都の言葉を待っていた。


「でも、ずっと楽しみにしてたんです。同じ花を持った人と、本当に繋がれたら嬉しいって。ずっと、こうやって声が届くのを待ってました」


『……そうか』


 静かに受け止めた涼やかな声が、もう一度、そうかと繰り返した。


『ならば私も、ずっと待っていたのかもしれない』


 ありがとうと続いた言葉に、瑠都の胸がまた嬉しさでいっぱいになる。


『──分かった、すぐに行く。……すまない、呼ばれてしまったからもう行くよ』


 聞こえてきた言葉に首を傾げるが、どうやら誰かが相手を呼んだらしい。初めての邂逅もここまでだ。

 光は自然に消えるのだろうか。そんなことを考えながら、瑠都は別れの挨拶をする。


「はい、ありがとうございました。それじゃあ……また」


 別れと、再会を願う言葉。期待を含ませた声はまだ、相手に届いているらしい。


『……ああ、また』


 その言葉を最後に、淡く花を包んでいた光がゆっくりと消えていった。


 瑠都は余韻を噛みしめながら、緊張でいつの間にか上がっていた肩の力を抜く。


「本当に、繋がったんだ……」


 しばらく呆然としていたが、我に返って慌てて部屋から出る。先程まで夕食を共にしていたメイスに伝えるため、駆け足で向かったのだった。





 翌日、朝早くにマリーに宛てて送った手紙の返信には、喜びの言葉と共に、たくさんの不満が綴られていた。

 なんでも、すぐに花を見にいくためにリメルの館へ向かおうとしたのだが、公務があるからと止められたらしい。次にこちらに来られるのは早くても二日後のようだ。更に、昨日予定していた習い事をさぼったことが父スティリオにばれて、怒られてしまったのだという。


 リメルフィリゼアたちはみな仕事や学校で出払っており、昨夜とは違って静まりかえった館の中。マリーの手紙を居間で読み返しながら、瑠都はくすりと笑みをこぼした。



 昨夜、瑠都の知らせを聞いて目を輝かせたメイスと共に部屋に戻ったが、やはり花はすでに光を纏っていなかった。

 次に階下に向かい、ミローネやフーニャに身振り手振りで伝えると、瑠都が心待ちにしていたことをよく知っている二人も、とても喜んでくれた。


 誰かに出会う度に伝えれば、一様いちようによかったと目を細めてくれる。喜びすぎてなんだか子どもっぽかっただろうかと、少し恥ずかしくなってしまったのは瑠都だけの秘密である。


 マリーの手紙への返信と、花市場の主人であるシンにも知らせをしたためたいところだ。今日は気分を変えて居間で書こうかな。そう決めて、瑠都は隣に座っているルビーを見た。


「ルビー、準備してくるから少し待っててね」


 返事の代わりなのか、長い耳を僅かに動かしたルビーは、そのふわふわした体の上にエメラルドを乗せていた。


 ルビーはエメラルドのことをいたく気に入っている。もしエメラルドが動いたのなら、今のように抱くだけでなく、一緒に駆けることもできるだろう。


「ルビーもそのほうが嬉しいよね」


 順に頭を撫でると、なぜかルビーはエメラルドを抱き上げて瑠都に差し出した。腕の下に手を差し入れて受け取り、緑色の目をじっと見つめる。ルビーと同じように側に置いているつもりになのに、動いてはくれない白いぬいぐるみ。


「……やっぱり、無理なのかな」


 宝石のようにきらきらと輝く緑色の目。その目に映っているのは、夢の中と同じ。昔から変わらない、役立たずのままの己の姿だ。


 ふと人の気配を感じて、瑠都は顔を上げた。


 居間の入口近くに、白いローブを着た人物が立っていた。それが白いぬいぐるみの贈り主であるエルスツナだと気が付いて、瑠都は思わず立ち上がる。反射的に後ろに隠してしまったエメラルドの行方を、エルスツナが視線で追ったのが分かった。


(しまった……)


 隠す必要などなかったのに、体が勝手に動いてしまった。他意はないのだと説明もできないまま、静かな時間が過ぎる。


「まだ動かないのか」


「すみません……」


 飛んできた鋭い言葉に、瑠都はおずおずとエメラルドを体の前に戻した。


 顔を逸らしたエルスツナはそのまま立ち去るかと思ったのに、なぜか瑠都のほうへ近付いてきた。その手に何か握られていることに気が付いたが、確認する前に勢いよく瑠都の眼前に突き出された。


 それは、桃色の花だけで作られた、小さな花束だった。


「え……」


 意図が分からなくて動揺する瑠都に構うことなく、エルスツナは無言のまま更に花束を近付ける。おそるおそる受け取った瑠都の腕の中に、動かないぬいぐるみと可憐な花束が並んだ。


「あの……」


 見上げた先で、眉をひそめたエルスツナが顔を背ける。


「トムが、詫びに贈り物でもしろと言った」


「詫び?」


──謝るべきだって、トムは言ったらしいけどね。


 いつかの帰り道、マーチニからそう教わったことを瑠都は思い出した。


「詫びなんて、そんな。あれは魔力を渡すために、仕方なくしたことで……」


 だから、謝る必要なんてないのだと。


 最後まで言い切れないまま、瑠都はまた花束を見た。桃色の花だけが集められた、小さな花束。鮮やかな桃色は、胸元に咲いたリメルの証と同じ色だ。甘い香りが微かに届く。


 そうだ、マーチニはこうも言っていた。瑠都が一番喜ぶ物を、エルスツナはよく知っているはずだと。


 はっと顔を上げた瑠都の前で、エルスツナは踵を返す。その後ろ姿が、なぜか幼い日の記憶と重なった。



 エルスツナは、父親に似ている。


 瑠都ではない、別の何かを見つめているところ。必要な時だけやってきて、振り返らずに行ってしまうところ。引き止めようと伸ばしかけた手があったことを、気にも留めなかったところ。


 一瞬の幻影のあと、気付けば瑠都は一歩踏み出していた。


 伸ばした手が、白いローブを掴む。片手に閉じ込められた花束とエメラルドが触れあって、香りを増した。


 立ち止まったエルスツナが振り返る。同時に我に返った瑠都は、急いで手を離した。


「……すみません」


 エルスツナは、いつもと同じ不機嫌さを隠そうともしていない。当たり前だ。いきなり引き止められて、嫌な気分にならないはずがない。


 そうだ、分かっていたのに。


 手を、伸ばしてしまった。幻影と重なったみっともない渇望を、どうして、仕舞っておけなかったのだろう。


(だめだ、)


 これ以上重ねてはいけないと思うのに、白昼夢を見ているみたいに瑠都の頭を幻影が支配する。


 きっと、次にエルスツナの口から出てくるのは、母によく似た言葉だ。


 なぜなら、エルスツナは母親にも似ている。

 瑠都のことなど嫌いなのだと、隠そうともしないところ。そうやって、心の奥底に沈む言葉を、いとも簡単に残していくところ。


「何を謝罪している」


 問われたのだと認識するのが遅れて、僅かに吐息が漏れる。


「手を伸ばして……引き止めてしまったから」


「それのどこに謝る必要があるんだ」


 不機嫌そうに歪んだ顔。何度も見た表情。


 でも、エルスツナは咎めなかった。手を伸ばしたことを、引き止めことを、責めなかったのだ。


 花の甘い香りが色濃くただよう。

 桃色の花束、瑠都が一番喜ぶ物。強くかかえながら、瑠都の胸がきしむみたいに音を立てて痛んだ。


 エルスツナは、どうして瑠都が喜ぶ物を知っていたのだろう。知ってくれていたのだろう。エルスツナがこの花束を手に取った時、その考えの先には、ちゃんといただろうか。リメルでもない、ただの瑠都が、いただろうか。


「……ありがとうございます。あの……花束、すごく嬉しいです」


 どうにか取り繕って伝えた瑠都から、エルスツナはまた顔を背けた。しばらく考え込んだあと、端的に告げる。


「もう一つだけなんでも贈ってやる」


「え?」


「花束だけなら素っ気なさ過ぎるとトムに言われた。確かにそれだけで満足しろというのは無理がある」


 エルスツナと目が合う。澄み切った、空色の瞳。


「……なら、」


 瑠都は、無意識に口をいた言葉を途中で止めた。どうしようもない渇望が、口にすることへの恐れを簡単に乗り越えてしまいそうで、怖かった。


 だめだと、思っているのに。

 あの日の幼い自分が、背中を押すのだ。求めていた頃、諦めきれなかった望みは、きっと恐れを越えた先にあるのだと。


 目の前にいるのは、父でも、母でもない。幾度も夢に出てきた、幻でもない。


 澄み切った空色の瞳を持つ人。エルスツナという、ただ一人の人。


「……名前を、呼んでほしいです」


 映してほしい。


 夢の中に取り残された幼い娘でもなく、リメルでもなく、ただそこにいる、瑠都という唯一を。その空色に、映してほしい。



 エルスツナは少しだけ目を見開いて、じっと瑠都を見つめている。


「──ルト」


 あまりにもなんの躊躇いもなく呼ばれた名。瑠都の瞳が揺れたことに、エルスツナはきっと気が付かない。


「なぜそんな物ばかり欲しがるんだ」


 エルスツナは心底不思議そうに顔を歪めた。


 何も言えないままでいる瑠都の腕に、先程までとは違う感触が伝わる。顔を下げると、輝く緑色と視線がかち合った。


 不思議そうに首を傾げる様はルビーによく似ている。ふわふわの手で瑠都を撫でた白いぬいぐるみ。ただのぬいぐるみであったはずのエメラルドが、動いていた。


「エ、エルスツナさん!」


 声を張り上げた瑠都に反応したエルスツナによく見せようと、先程ローブを掴んだ手でエメラルドを持ち上げてみせた。


 エメラルドが動いている。


 そう声にしようとしてして、はたと瑠都は止まった。

 エルスツナにエメラルドの名付けのことを伝えたことはなかったはずだ。安直な名付けだと言われてしまいそうで、なんとなく避けていた。


「あの、この子の名前は──」


「知ってる」


 遮ったエルスツナが、瑠都から白いぬいぐるみを受け取った。


「知ってる。エメラルドだろう」


 安直な名だ。そう続けたエルスツナは、エメラルドの体を動かして興味深げにあちこち眺める。



 研究所に持っていってよく調べたい。やはり瑠都の側に置いておくことで動き出したのだ。リメルテーゼが力の源であることは間違いないだろう。

 だがなぜこんなに時間がかかったのか。大きさだけなら、ルビーよりも小さいエメラルドのほうが早く効果を得そうなのに、動き出したのはルビーにかかった時間の倍以上ではないか。


 考え込むエルスツナの前で、瑠都が小さく笑った気配がした。気が付いてすぐに顔を上げる。


 何を言うでもなく、瑠都は静かにそこに立っていた。眉を下げて静かに笑んだその瞳には、薄い膜が張っていた。


(笑いたいのか泣きたいのか、どっちなんだ)


 どちらか判断できない表情に、エルスツナはまた眉をひそめて考え始める。だが結論は出ない。


 エメラルドが動いたことが嬉しいのかとも思ったが、その表情はぬいぐるみではなくエルスツナに向けられている。自分の言動を思い返しても、なんらおかしいところはなかったはずだ。笑わせるようなことも、泣かせるようなことも。


 今まで学んできたことでは解明できない。エルスツナにとって、瑠都というのはそういう人間だ。


 過去のリメルの文献とは異なることばかり次々起こし、変なところで謝ったり、黙ったりする。高価な贈り物ではなく、なんの価値があるのかと問いたくなるような物で喜んだりする。

 エルスツナの前で初めて笑ったくせに、泣き出しそうなのはなぜなんだ。


(──また難題を増やされた気分だ)


 だからエルスツナは考え続ける。

 分からない。分からないから解き明かしたい。この人生のすべてを、かけてでも。

 

 

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