第73話 慈悲なき目覚め

 

 

「今日はよく晴れていますね」


「そうですね、すごく暖かそうです」


 目の前で静かに橙色の目を細めたフェアニーアに同意を示してから、瑠都も視線を外にやった。


 雲一つない晴天の日、瑠都はフェアニーアと共に馬車に揺られながら、キィユネの屋敷へと向かっていた。

 一つの揺れさえも感じない馬車の中では外の気温を確かめるすべもないが、降り注ぐ日差しと、通りかかる人々の格好を眺めているだけで、暖かさが充分に想像できた。




 アヴィハロを伴ったキィユネがリメルの館へ訪ねてきたのは、先日のことだ。


 目的は、瑠都の行方が分からなくなった時に、場所を示すことができなかったことへの謝罪だと聞いて、瑠都は驚いた。


 元の世界での位置づけとは違って、ここでは占いがより重要な意味を持つ。分かっているつもりでいたが、それはまだ理解という門のほんの入口に立っているだけに過ぎなかったのかもしれない。


 不思議な、あるいは畏怖さえいだかれる、希有な力。力を研ぎ澄ませた者にだけ授けられる啓示。キィユネのような特別な占者は、過去も現在いまも、未来でさえ見通すことができると言われている。

 だがすべては天の決め事。与えられる時もあれば、何かの意味を持って沈黙だけが視える時もあるだろう。それなのにわざわざ出向いて謝罪の言葉を述べたキィユネに、瑠都の胸は痛んだ。


 そのことを後日マリーに相談すれば、キィユネは今回のことでかなり気を落としているのだと教えてくれた。

 

(キィユネさんは、何も悪くないのに)


 どうしようもない申し訳なさが瑠都を襲う。だがいくら慰めの言葉を口にしたところで、キィユネの心が晴れるわけではないだろう。


 だからこそ、今度はこうして瑠都がキィユネの元に向かっているのだ。


 いつものようにアヴィハロと会うためと銘打ってはいるが、今日はいつもより少し多めに土産を携えている。タルーミミの菓子に、キィユネが好むという茶葉。そしてアスノが送ってくれた、甘くておいしい林檎。


 少しでも元気を出してくれたなら。瑠都がそう考えていると、馬車が止まった。


「着きましたよ」


 丁寧にそう教えてくれたフェアニーアが、先に馬車を降りた。自然な動作で差し出された手に触れながら、瑠都は礼を述べる。外に出た瞬間、心地よい日差しが全身を照らした。


 キィユネの屋敷は、レスチナールの中心部からは離れた閑静な場所にある。辺りに人の気配はなく、どこからか鳥のさえずりが聞こえてきた。


 門の前には、すでに一台の馬車が止まっていた。


 どうやら先客がいたようだ。そのため瑠都たちが乗ってきた馬車と、馬車の前後に付いてくれていた護衛の兵士を乗せた馬は、門から少し離れた場所で止まっていた。


 手を離したフェアニーアが、護衛の兵士や御者におおよその帰りの時間を伝えている間、瑠都は先客の馬車を眺めていた。


 随所にきんが施された豪華な馬車の周りにはすでに従者らしき人たちが控えていて、主人が屋敷から出てくるのを待っているようだった。


「もうすぐ約束の時間ですし、私たちも向かいましょうか。少し歩きますがよろしいですか」


 話し終えたフェアニーアは瑠都に向き直ると、丁寧に断りを入れた。 


「はい、もちろんです」


 どれだけ一緒の時を過ごそうと、フェアニーアはこうした丁寧さを決して失わない人だった。その優しさが滲むから、フェアニーアの瞳は温かな橙色を宿しているのだ。瑠都はいつもこっそりとそう思う。


 二人が歩き出した時、屋敷の門が音を立てて開いた。自然に顔を向けた瑠都がそこから出てきた人物を認識するより早く、フェアニーアが自らの背に瑠都の姿を隠してしまった。


 軍服を纏っていないフェアニーアの白いシャツが視界一面に広がる。爽やかな香りを鼻先で感じながら、瑠都は守るように立ちはだかった兵士の背中を見上げた。


 高い靴音、そして聞き覚えのない女の声が辺りに響く。


「あら、フェアニーア殿ではないの。久しいわね」


「……ココオット夫人」


 いつもよりも神妙なフェアニーアの声色に、瑠都は大人しく息を詰める。


「なぜ、あなたがこちらに」


「私が占いに興味を持ったらおかしいかしら」


「いえ……そういう訳では」


 少しだけ声の主が近付いてくるのが分かる。聞いたことがない名だが、フェアニーアの様子から、もしかしたら貴族なのかもしれないと瑠都は思った。

 足元に目をやる。フェアニーアの背中に隠されてはいるものの、ドレスの端はどうしても相手から見えてしまっているだろう。


「後ろにいるのはどなた?」


 やはり指摘が飛んでくる。肩を揺らした瑠都が見上げたフェアニーアの背中からは、思案している様子がありありと伝わってきた。


 瑠都にとって、フェアニーアにとって、どうすることが正解なのか。分からないが、このまま隠れているわけにもいかないだろう。決心した瑠都は目の前の白いシャツに触れた。


「フェアニーアさん」


 互いにしか聞こえないくらいの小さな声で呼びかければ、僅かに振り返ったフェアニーアと目が合う。フェアニーアの瞳が揺れたのは一瞬のことだった。やがて、固く結ばれていた唇が開く。


「……ルトさん、すみません。応対は私がしますので、何を言われても気にしないでください」


 告げられた言葉に戸惑いながらもそっと頷く。フェアニーアが、ゆっくりと体をずらした。


 開けた視界の先。静かな景観の中に、暗い色のドレスと帽子を身に着けた一人の女が立っていた。


 女は瑠都の姿を捉えるやいなや、目を大きく見開いた。持っていた扇で咄嗟に隠された赤い唇から、震えた息が漏れる。


「ああ……、ああ……!」


 明らかな喜色を孕んだ声。半分しか見えていない頬が、上気するように淡く染まった。


「リメル様っ、リメル様ではありませんこと……?」


 扇を閉じた女が、高い靴音を響かせながらこちらに近付いてくる。瑠都の前で立ち止まると、両手でドレスをつまみ、優美な仕草で膝を曲げた。


「お初にお目にかかります、リメル様。私はココオット家の当主が妻、ナガと申します」


「はじめまして、ルト・ハナマツです……」


 瑠都が挨拶を返すと、女、ナガはそっと体勢を戻した。


「ああ、リメル様……」


 湧き出る興奮を隠すこともなく、うっとりと瑠都を見つめる。目深に被ったつばの広い帽子の奥からは、身に纏うドレスと帽子の暗い色とは相反あいはんする、朱色の瞳が覗いていた。その明るい瞳が放つあまりの力強さに、瑠都は気圧けおされてしまう。


「こんな所でお会いできるなんて思ってもいませんでしたわ。なんという幸運なのかしら!」


 先程までの落ち着いた声の様子とは違って、ナガはどこか恍惚とも取れる表情を浮かべていた。そのまま一度も瑠都から視線を逸らすことなく、フェアニーアに声を掛ける。


「どこぞの令嬢を連れ立ってきたのかと思えば……。そうよね、あなたはリメルフィリゼアですもの。リメル様とご一緒でもおかしくないわ。でもだめよ。もっと早く紹介してくださらないと」


 そうですわよね、リメル様。同意を求めたナガが笑う。瞳と同じ朱色の髪は後ろで一つに纏められているが、顔の横に一房ずつ垂らされていて、ナガが首を傾げると、一緒になって小さく揺れた。


「今日ここに来ることは公にしていませんので、あまり人と接触しないようにしているのです」


「実は以前、ノムーセ様の誕生会でお見かけしましたのよ」


 フェアニーアの返答は、明らかに届いていたはずだ。


 しかしナガはそれを遮るように、また別の話題を口にする。視線はあいかわらず、瑠都だけをまっすぐに捉え続けていた。


「ご挨拶に伺おうと思っていたのですが、目障りな物を視界に入れないようにしていたら機会を逃してしまって」


 するりと出た言葉の違和感に、瑠都の体が強張る。


(目障りな、もの……)



 ナガの背後で、再びキィユネの屋敷の門が開いた。そこから、キィユネの唯一の弟子であるアヴィハロが姿を現す。


 来客を乗せて帰ったはずの馬車がまだ門の前にいることに眉をひそめたアヴィハロは、すぐに瑠都たちの存在に気が付いた。


「ナガ様、なぜまだこちらに? お帰りのはずでは……」


 早足で近くに寄ったアヴィハロが、背後からナガに問う。その顔には常と違って、僅かな焦燥が浮かんでいた。


 一拍の間を置いて、ナガはやっと瑠都から視線を外した。持っていた扇を広げて、また口元に持っていく。


「随分と冷たいことを言うのね。大人はないがしろにするものではなくってよ」


 アヴィハロのほうへ体を向けたナガが、またゆっくりと首を傾げた。


「それにしても、リメル様がいらっしゃるから私を早く帰そうとしていたのね。いけない子。本当に躾がなっていないわ」


「──ココオット夫人」


 語気を強めたフェアニーアがその名を呼ぶ。今度はフェアニーアを見やったナガの瞳にはもう、瑠都を捉えていた時のような熱は宿っていない。


「予定が立て込んでいて、少し先を急ぎますので」


「……あら、そうなの」


 静かに返したナガが、再び瑠都に向かって膝を曲げた。


「リメル様、今日はこれで失礼させていただきます。また近い内にお目通りできるよう願っておりますわ」


 笑顔で言い残して、ナガは己の従者が待つ馬車のほうへと戻っていった。




「ルトさん、大丈夫ですか」


 ナガが馬車に乗り込んだのを確認してから、フェアニーアが尋ねる。


「はい……ありがとうございます」


 もやのような少しの違和感が、なぜか胸に引っかかっていた。そのことは表に出さず答えてから、瑠都はアヴィハロの隣に立つ。


「迎えにきてくれたんだね、ありがとう」


 去っていく馬車を見つめたまま動かないアヴィハロの顔を覗き込む。血の気を失った肌の上には、珍しく僅かな汗が滲んでいた。


「アヴィハロ?」


 心配になってもう一度呼びかけると、アヴィハロはようやく瑠都を見た。


「……ごめん。ごめんね、ルト」


 聞き逃してしまいそうなほどに、か細い声だった。告げられた謝罪が何を意味していたのか分からなくて、瑠都はそれ以上何も言うことができなかった。





 その日の夜、食事を終えて部屋に戻った瑠都は珍しくそのままベッドに身を預けた。お腹も満たされたが、同時に頭の中も考え事で満たされている。


 お茶会は、うまくいったように思う。


 おいしい食べ物と飲み物を囲んで、瑠都とフェアニーア、そしてキィユネとアヴィハロで開いたお茶会。様々な世間話をしていく内に、キィユネもいつもの調子を取り戻してくれた気がした。


 だがそんなお茶会の最中も、瑠都は時折、屋敷の門の前で出会った人物のことを思い返していた。


 ナガ・ココオット。

 その人物について、帰りの馬車の中でフェアニーアが教えてくれた。


 名門ココオット家の当主、バン・ココオット。その後妻ごさいに入ったのが、同じ高位貴族の産まれであるナガだった。

 当主のバンは婚姻の数年後に病に倒れ、それ以来社交界には顔を出していないのだという。通例であればそういった場合は子息らが当主の座を引き継ぐが、バンとナガの間には子がいない。前妻との間に産まれた子が二人いたが、一人は不慮の事故ですでに亡くなっており、もう一人は家督を放棄して国外に住んでいる。


(……なんていうか、少し独特な雰囲気を持った人だったな)


 ナガの視線や、言葉の意味を思い返す。


 ベッドにうつ伏せになったまま考える瑠都の頭に柔らかい物が触れた。顔を上げると、桃色のふわふわが至近距離で瑠都を見つめていた。


「ルビー」


 体を起こして、いつの間にかベッドに上がってきていたルビーを抱き締める。


 ミローネによると、留守番をしていたルビーは同じぬいぐるみのエメラルドを抱いて、今日も元気に館の中を駆け回っていたようだ。今エメラルドはルビーによって枕の上に寝かされている。


「疲れたね。今日はもう寝ようか」


 擦り寄ってきたルビーの頭を撫でながら呟いた、その時だった。



『──誰かいるのか』


 他には誰もいないはずの部屋に、凛と透き通るような、涼やかな声が響いた。

 

 

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