第72話 旅路への誘い
「新婚旅行……ですか」
不思議そうに首を傾げた瑠都に対して、王スティリオは、うむと一つ頷いてみせた。
話したいことがあるから近い内に顔を出してほしい、とスティリオから呼び出しがあったのは昨日のことだ。元来暇を持て余している瑠都は早速約束を取り付け、こうして城までやってきたのである。
客間の中には瑠都とスティリオ、そして瑠都が伴ってきたミローネの三人しかいない。
自身に向けられた言葉をかみ砕くのに時間がかかった瑠都は、助けを求めるようにソファーの後ろに控えるミローネに視線をやるが、そっと優しく頷くに留められてしまった。
「新婚、旅行」
「なに、そう深刻に考え込まずともよい」
辿々しくもう一度繰り返した瑠都に、スティリオはこぼれる笑みを隠すことなく言った。
「結婚してもう日も経つ。今回の事件がなければ、もう少し早く提案しようと思っていたのだがな。どうだ、行ってみないか」
明るく尋ねられるが、瑠都はすぐに答えることができなかった。
もちろん、意味は分かる。だが、今まで向けられたことがなかった単語を飲み込むのには、多少の時間が必要だった。
(そっか……結婚したんだから、そういう行事があったっておかしくないんだ)
今回の事件とは、瑠都を転移させた贈り物が紛れていたことだ。未だ犯人も目的も判明していないのだから、スティリオが提案を遅らせた理由もよく分かる。
「私、遠出とかしても大丈夫なんでしょうか」
旅行に行くとなれば、それ相応の危険や、対応するための準備も伴う。特に瑠都は何者かに狙われたばかりなのだ。大人しくしているのが一番いいと思っていた。
おそるおそる尋ねた瑠都に、スティリオはすぐに肯定を示した。
「心配はいらぬ。頼れる我が国の護衛がしっかりとそなたを守る。それに、共に行くのはあのリメルフィリゼアたちだからな。実力者ばかりのあの者たちが側にいるというのに、そう易々と手を出そうと考える者もおるまいよ」
スティリオの言葉を聞いても、瑠都は依然何かを考え込んでいる。どうやら他にも心配事があるようだと気が付いたスティリオは、優しい声色で瑠都に話しかける。
「何か気になることがあるなら、遠慮せずに申してみよ」
スティリオにとって瑠都は、自らが治める国に降り立った二百年ぶりのリメルであり、末の娘マリーの友でもある。
どこか親心にも似た親愛を抱く少女の不安を少しでも取り除こうと、目尻を下げて尋ねたその様子に、唯一の目撃者であるミローネは静かに胸を熱くしていた。
仕えるリメル、瑠都は、もはやミローネたち館に住まう従者にとって、なくてはならない大切な存在である。そんな主人が、不安と恐れの中で降り立った異界の地が、このジーベルグでよかったと心の底からそう思った。
様々な思惑に望まれ、取り込まんとする者が
「新婚旅行なので、その、リメルフィリゼアの方たちも、みんなで行くんですよね」
「もちろん。ルトと彼らが主役だからな」
「でも、みんな忙しいのに、時間を使ってもらうのは……」
言い辛そうに途切れ途切れ紡がれた、思いもよらない言葉に、スティリオは目を丸くする。
リメルとの新婚旅行ともなれば、何を差し置いてもリメルフィリゼアは全員参加となるだろう。つまり瑠都は、そうやってリメルフィリゼアの時間を奪うことを躊躇っているのだ。
この場にマリーがいたならば、何を言っているのよと、その柔い両頬を引っ張りながら叱っていたに違いない。話が終わるまで立ち入りを禁じておいてよかったとスティリオはそっと息を吐く。
リメルフィリゼアの中に、共に行きたくないと拒否する者などいるはずがない。確信はあったが、そう口にしてもきっと、瑠都の憂いが晴れることはないのだろう。
スティリオは目の前の少女を見つめながら片手を顎にやって、伝えるべき言葉を思案する。
「うむ、ならば休暇を与えていると思えばよい」
「休暇、ですか」
「そうだ。彼らは確かに
スティリオの提案に、瑠都はぎこちなくも一度だけ小さく頷いた。まだ完全には飲み込めていないようだが、多少なりとも肯定を示しただけで進歩と言えよう。
「何も必ず遠い所に行く必要もない。国内でも、国外でも、望むところがあればどこでも検討しよう。転移魔法を用いれば、日もかけずにその地へ赴くことも可能であるからな。それに、必然ではないのだ。行きたくなければ、それでもよい」
幸いジーベルグは国交を結んでいる国も多い。瑠都が望むのであれば、どんな交渉でも行うつもりだった。
大切なのは、瑠都の気持ちを取りこぼさないことだ。どんな答えが出されても、スティリオは迷わずに頷こうと決めていた。
「……ありがとうございます。少し、考えてみます」
「返事は急がぬ、ゆっくりと考えてくれ。だが、マリーに相談するのはおすすめしないぞ。きっとブルーナピがいいと申すであろうからな」
そう言って肩を
客間の外では、やはりマリーが待ち構えていた。そのまま庭園でのお茶会へと誘われた瑠都は、そこでミローネと別れた。
庭園に辿り着くまでに、スティリオと何の話をしていたのかと問われたので素直に答えれば、やはりマリーからはブルーナピという国名が飛び出した。
「何がそんなに面白いのかしら」
「ううん、なんでもない」
父親が予見した通りの言動に思わず笑った瑠都に、マリーが頬を膨らませるものだから、ますますおかしくなってしまう。
大輪の花のように
「もしブルーナピに行くのなら、わたくしも着いていこうかしら」
真剣な眼差しでマリーが呟く。この場にはいないはずのスティリオが、瑠都の頭の中でやれやれとまた肩を
「新婚旅行? それは楽しそうだね」
マリーとのお茶会を終えた瑠都は、城から館までの帰り道を、マーチニと共に歩いていた。
スティリオから頼まれたのだというマーチニは、館まで瑠都を送ったあとまた仕事に戻るのだという。
申し訳なく思った瑠都が一旦は断ろうとしたのだが、あの甘い笑みでエスコートするように腰に手を添えられてしまえば、それ以上は何も言えなくなってしまった。
相変わらず近い距離で歩くマーチニをなるべく意識しないようにしながら、瑠都はスティリオからの提案を相談してみた。
すると思っていたよりもマーチニがあっさりと肯定するものだから、瑠都は少しだけ面食らってしまった。
「マーチニさんは、どこか行きたい所はありますか」
「ルトちゃんと行きたい所はたくさんあるけど、そうだな……。まずはルトちゃんがここだと思った所に、一緒に行きたいかな」
「私が、ここだと思った場所……」
優しく笑むマーチニから静かに目を逸らす。
行きたいと、望む場所。
「そんなに深く考え込まないでよ。一緒に行くことに意味があるんだからさ」
マーチニはそう言うと、瑠都の手を取った。
思わず立ち止まった瑠都が、
優しい感触と
「あの……」
言葉を無くした瑠都の手を引いて歩き出したマーチニは、どこか楽しそうだ。
「君と一緒ならどこだっていい。喜んでお供しますよ、我らが姫君」
手から伝わる温度が熱い。いや、熱いのはきっと瑠都のほうだ。分からなくなって、瑠都はその手を小さく握り返す。
「……時々、マーチニさんは優しいのか、意地悪なのか、分からなくなります」
「そう? お褒めに預かり光栄だな」
「褒めてないです……」
マーチニが声を上げて笑う。それと同時に瑠都の心も、ふと軽くなる。
どこでも、いいのだ。
行きたいと思った場所があったら、素直に告げてみよう。決意した瑠都の視界が幾分か明るくなったのは、きっと気のせいではない。
「ジャグマリアスさんやジュカヒットさんなんて特に働きづめだから、いい気分転換になるんじゃないかな。エルくんは研究所の机から離れなさそうだけど、新しい魔法の宿が見つかるかもって言えばすぐに飛んでくるさ」
マーチニが口にしたその名を聞いて、瑠都は先日エルスツナが見せた不思議な言動を思い出す。真意は分からぬまま、あれから姿を見ることもない。避けているのか、避けられているのか。いつかも浮かんだ疑問に答えてくれる人はいない。
「そういえば、ルトちゃんは仲直りしたの?」
「え?」
「エルくんと。キスされてから喧嘩中だって聞いたけど」
目を丸くして、次いでまた頬を染めた瑠都が慌てる様子を、マーチニはあいかわらず楽しそうに眺めている。
「だ、誰がそんなこと」
「トムから聞いたんだけど。違った?」
トム、エルスツナの上司で、マーチニの友人でもある魔法員だ。エルスツナが魔力を送るために瑠都に口付けたあの回廊には、他に誰もいなかった。つまり、誰も知らないはずなのだ。
エルスツナからトムへ、そしてトムからマーチニへと伝わったのだろう。知られているという事実に恥ずかしさを感じると同時に、事実が違って伝わっている気がして、瑠都は急いで口を開く。
「喧嘩じゃなくて、あれは……私が大人げなかっただけで」
起こった事実、そのあとの変化。
あれは喧嘩、だったのだろうか。本当にエルスツナがそう口にしたのだろうか。そんな単語を発するエルスツナがどうにも想像できなくて、瑠都はますます混乱してしまった。
「でも……この間少し話した時は、様子がいつもと違っていた気がしました」
素直に吐露した瑠都を見やって、マーチニはなるほどね、と答えた。
「突然キスしたことは謝るべきだ、ってトムは言ったらしいけどね」
「謝るなんてそんな。あれは魔力を渡すために、仕方なくしたことで」
眉を下げた瑠都が声を落とす。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。その内、贈り物の一つでも持ってひょっこり顔を出すさ」
「贈り物、ですか」
「ルトちゃんが一番喜ぶ物を、エルくんはよく知っているはずだから。贈り物をして仲直りしてこいって、これもトムの助言だったみだいだよ」
何を贈られるのが一番嬉しいのか、自分でも分からないのに、エルスツナは知っているというのだろうか。
なぜトムがそう助言したのか分からなくて、瑠都は首を傾げた。それに、受け取る資格なんてものは瑠都にはないのだ。魔力不足で倒れたのも、
「俺も突然キスした側だから、偉そうなことは何も言えないけどね」
マーチニの一言が、沈みかけた瑠都の思考を手繰り寄せる。同時に、甘い記憶が蘇った。
「あれは……」
館はもう目前だ。言葉が出ない瑠都とマーチニが、再び立ち止まって見つめ合う。
互いに同じ記憶を辿っているのだと思うと、言いようのない痺れが胸を支配する。薄く開いた瑠都の唇にマーチニが視線を落とした時、どこからか声が掛かった。
「──ルト?」
意識を引き戻した瑠都が声がしたほうを見ると、そこにはメイスが立っていた。
「メイス」
「もうそろそろ戻ってくるかと思って、迎えにいこうかと」
ちょうど、学校から帰ってくる時間だ。すぐに城に迎えにきてくれようとしていたのだと知って、瑠都は素直に礼を述べる。
「じゃあ、俺はここまでかな」
笑んだマーチニが、瑠都の手を離す。マーチニにも礼の言葉を口にしようと向き直るが、瑠都の動きはそこで止まった。
マーチニが顔を下げて、そっと瑠都の耳元に口を近付けたのだ。さらりとした緑の髪から香る清潔感のある香りが、瑠都を包み込む。
「続きはまた今度ね」
僅かに耳に触れた唇。漏れた息が、体中を支配していく。先ほどまで触れていた手で瑠都の頭を撫でてから、マーチニは静かに離れていった。
「ルト……大丈夫?」
「大丈夫じゃない、かも」
赤くなった同い年の二人が、遠くなるマーチニの後ろ姿を見送る。
「……行こっか」
熱を取り払うようにぎこちなく促した瑠都に、メイスは一拍遅れて、うん、と返した。
「早かったんだね」
近頃メイスは帰りが遅いことも多かったが、ここ数日は前と同じような時間に帰宅していた。
嬉しさから何気なくそう口にしたものの、瑠都は自分が発した言葉の意味を思い返して少し慌てる。
責めているように、聞こえてしまっただろうか。
ここに、瑠都の元に縛り付けるようなことを、声に出すべきではなかった。
「これからは、また早く帰ってくるよ」
はっきりと答えたメイスに対して、瑠都は
「違うの、ごめんね。用事とかがあるなら気にせずに」
「──ううん、僕が帰ってきたいんだ」
メイスが珍しく瑠都の言葉を遮った。
その眼差しがあまりにまっすぐ捉えてくるものだから、瑠都は目を逸らすことができなかった。
「大切なものは、もう一つも取りこぼさないって、決めたから」
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