第71話 好きなんだ

 

 

「メイス、ちょっと買い物に行ってきてくれないかい」


 夕刻が近付いた頃、レスチナールの一角にあるリメルフィリゼアの生家で、母親は自分の息子に声を掛けた。


「うん……」


 声を掛けられたメイスは、どこかにぼうと視線を投げたまま小さく応えた。だが、いくら待っても動き出す気配はない。

 だらりとソファーに背を預けているメイスに向かって、母親は腕組みをする。


「あんた、最近よく帰ってくるけどいいのかい」


「うん……」


 相も変わらず力の抜けた返事をするメイスに、溜息を吐いた。


 結婚してからも、メイスはよく学校帰りに実家へと顔を出していた。それだけなら何もおかしなことはないのだが、近頃は長時間ここで過ごして、辺りが暗くなった頃に館へと帰ることが増えていた。

 しかもその時は決まって、今のようにじっと動きもせず、何かを考え込んでいるのだ。


 初めは、実家が恋しくなったのかしら、なんてのんきに構えていた母親も、おかしな様子の息子を見る頻度がこうも増えると、別の心配を抱くようになる。


 リメル様とうまくいっていないのか。はたまた、うまくいっていないのは優れたリメルフィリゼアたちとか。それとももっと別の、帰りにくい理由でもあるのか。


 いくら栄誉あるリメルフィリゼアであろうと、母親にとってはただの愛する我が子。

 何も気にせずに、あれこれと浮かぶ疑問をぶつけて元気付けてやりたいところではあるが、どこか落ち込んでいるようにも見えるメイスの心の中に、今は簡単に踏み込んではいけない気がしていた。


 突如として、リメルフィリゼアとなり巣立っていった息子。まだ幼い心と体にし掛る重荷がいかほどのものか、すべてを理解することは母親であっても難しい。


 メイスをソファーに沈めているであろう、不安や憂慮、躊躇い。それらはリメルフィリゼアになったからこそ、メイスが知ることとなったもの。


 だけれど、母親はメイスが得たものが決してそれだけではないということもよく分かっていた。


 ここへ戻る度に、城や館で起こった面白い話や、驚いた体験を身振り手振を交えて教えてくれる。その姿の、なんとも楽しそうなこと。

 魔法をより近くで感じることで強くなる魔法員への夢。その眼差しの、力強さ。


 そして何より、嬉しそうに瑠都のことを語る、母親さえ知らなかった、あの笑顔。


 天が与えたのは何も、胸元に咲いた印だけではない。当の本人はそのことに、気が付いているだろうか。

 記憶の中のメイスの様々な姿を思い返しながら、母親は口を開く。


「……メイス、それがあんたの運命なんだから。がんばりなさいよ」


 愛する息子には聞こえないくらいの声で呟いてから、母親は運命を定めた天へと祈りを捧げる。


 どうか、迷い悩む息子を守ってほしいと。メイスならどんな困難が訪れても、きっと自ら乗り越えていくから、どうか幸せへと導いてほしいと。


 唱えた祈りを飲み込んでから、母親ははっきりと響く声をいつものように張り上げた。


「ほら、店が閉まっちまうよ! 早く行っておくれ。あんまり遅くなると、リメル様だって悲しむだろう?」


 異世界から訪れた尊い人のことを口にすれば、メイスはぴくりと反応を示した。やわく唇をかんでから答える。


「……うん」


 先程までと同じ、力のない返事。


 だが、はっきりと意味を理解しているはずのメイスは決して、母親の問いを否定することはなかったのである。




 

 冷たさを感じさせる山から、賑やかな町の上へ。鮮やかな黄色を艶めかせる鳥は、軽やかに空を舞っていた。


「ピュウ!」


 すっかり慣れた旅路。歌うように鳴く鳥は楽しげだ。視界の先に目的地を捉えて、その場でくるりと一回転する。


 近くを通りかかった鳥が思わず何度か見返すくらいの速さと軽やかさで進む鳥の足には、束ねられた手紙の紐がしっかりと握られていた。


 鳥はやがて城と森を越え、大きな館へと辿り着く。


 迷うことなく降り立った窓の前で何回転かしてから、小さなくちばしで窓を叩く。するとすぐに窓が開け放たれ、黒髪の少女が顔を出した。


「こんにちは」


 柔らかく笑んだ少女こそ、掴んできた手紙の受け取り人、瑠都である。


「ピュウ!」


 高らかに返事をしてから部屋の中に舞い込む。机にとまった黄色い鳥の元へ、ルビーがぱたぱたと足音を立てながら近付いていった。


「ありがとう」


 手紙を受け取った瑠都に頭を撫でられて、鳥は嬉しそうにもう一鳴きする。

 そして休憩する間もなく再び羽を広げると、机の前で待っていた桃色のふわふわの頭上を回った。跳ねるように手を伸ばしたルビーと、部屋の中での追いかけっこが始まったようだ。


 瑠都はその光景を微笑ましく思いながら、手紙を机の上に置いた。遠くからやってきた客人のために水と餌を用意するが、ルビーと遊んでいる鳥がそれらを口にするのは、いつも通りもう少し遊び終えてからだろう。


 視線を外して、再び手紙を手に取った。


 瑠都がドンララン山から帰ってきたあと、道を覚えた黄色い鳥が手紙を運んでくれるようになった。送り主はその時々によって違うが、今回はタズネとウルのようだ。

 運んでくる鳥も一羽でなく、どうやら交代制らしい。手紙の返事が書き上がるまでこの館の周辺で待っていることもあれば、数が多い時などは数日経ってからまた受け取りにやってくこともある。


 賢い鳥が運んできた手紙を丁寧に開封をして、現れた文字に目を通していく。


 訳があったとはいえ、瑠都はドンララン山の住人たちに素性を偽っていた。

 だが彼らは一切責めることもなく、今もこうして交流を続けてくれている。瑠都は何よりもそれが嬉しかった。


 タズネの手紙に、ドジをしてアスノに怒られたと綴られていて思わず笑みをこぼしてしまう。


 今朝はアスノからたくさんの林檎が届いていた。タズネとルルには返信を、アスノへはお礼をしたためようと決意するが、そのためには林檎の感想も必要だろう。


(メイス、早く帰ってこないかな)


 学校から帰ってきたら、一緒に林檎を食べようと約束したのだ。

 

 甘い香りがするね、なんて微笑んでいた同い年のリメルフィリゼアのことを思い出して、瑠都はまた顔をほころばせた。





「メイス!」


 肩の上で髪を切り揃えた少女は、見慣れた町の中に幼なじみの姿を見つけて思わずその名を口にした。

 呼び掛けられたメイスは立ち止まって辺りを見渡すと、駆け寄ってくる少女に気が付いて体を向ける。


「アンナ」


「久しぶりね!」


 思いがけない邂逅かいこうに、アンナは声を弾ませた。

 少しの立ち話をして、お互いに母親から頼まれた買い物の帰りだということを知る。かごいっぱいに野菜やら肉やらを詰め込んだ二人は、同じ方向にある家へと並んで歩き出した。


 久しぶりの、二人の時間。


 アンナは、自らの気持ちが高揚しているのを感じていた。何せ、メイスがリメルの館に移ってからはこうした機会がめっきり減ってしまったのだ。

 以前までなら、いつだって隣にいたというのに。会いたい時に会えて、話したい時に話せて、それが当たり前だったというのに。


 聞いてほしいことがたくさんあった。学校のこと、家のこと、友達のこと。矢継ぎ早に話を続けるアンナの横で、メイスはいつも通りの毒気のないまっすぐな瞳で、相槌を打ってくれたり、笑ってくれたりする。


(やっぱり、メイスは何も変わってない)


 話しながら、アンナはどこか得意げにそう思った。


 リメルフィリゼアになったって、メイスはメイスのまま。アンナがよく知る、優しい幼なじみのままだ。


 周りの者はみな、メイスがリメルフィリゼアになったことは特別なことだと口を揃える。天に選ばれたのは、またとない幸運で、これほどの奇跡はないと。あげく、もう違う世界の住人なったなどと言う者までいて、アンナはそんな言葉を聞くことが何よりも嫌いだった。

 みなが口にする栄誉とか名誉とか、それのいったいどこが、それほどまでに誇れるものなのか分からない。


 メイスは遠くへ行ったりなんかしない。自分たちとはもう歩む道が違ってしまったなんて、そんなこと、絶対にない。


 アンナは、隣を歩く幼なじみを見上げた。見慣れた眼差し、見慣れた笑顔。だけれど、以前と比べて少し背が伸びた気がする。そのことに気が付いて、アンナは思わず視線を逸らした。


 背くらい、伸びるだろう。何もおかしなことはない。久しぶりに会うから驚いただけだ。自分に言い聞かせるアンナは、いつの間にか口を閉ざしていた。

 二人の間に沈黙が流れる。気まずさもつくろいも必要ないはずなのに、その短い時間すらやけに長く感じてしまう。


 もう一度、隣を見上げた。


 なんとなく、いつもに比べて少しだけ元気がないように感じる。思い過ごしだろうか。


 そうであってほしいのに、まっすぐ前を見つめるメイスの瞳には町の喧騒ではない別の何かが映っている気がして、アンナの胸がどくりと嫌な音を立てる。


 隣にいるはずの幼なじみが、急に知らない他人みたいに見えた。このまま離れてしまったら、もう二度と、並んで歩くことなどないのではないか。そんな予感が一瞬でも掠めたことが、たまらなく嫌だった。


 メイスのことはなんだって知っている。今までも、これからだってずっと、そうあり続けるはずだった。

 静かな横顔に混じった見覚えのない大人らしさ。その瞳に映っているものを、アンナは知らない。


「……メイス、あのね。お母さんに教えてもらったアップルパイ、やっと一人でもおいしく作れるようになったのよ。だから今度、」


「林檎──」


「え?」


 過ぎった不安をぬぐい去りたくて、アンナは再び口を開いた。だが、喜んでくれるだろうという予想に反して、メイスは突然足を止めた。


「林檎……」


 果物の名前を繰り返したメイスの数歩先で、アンナも立ち止まった。振り返った先でメイスの瞳が徐々に生気を取り戻していくのをの当たりにして、アンナは持っていたかごを強く握り締めた。



「そうだ、今朝林檎が届いたんだった……」


 甘い匂いと共にやってきた真っ赤な林檎のことを、メイスは突如として思い出した。


 瑠都が迷い込んだドンララン山から届けられた美味しそうな果実。嬉しそうに微笑んだ瑠都と、学校から戻ったら一緒に食べようと約束していたのだ。


(しまった、うっかりしてた……)


 メイスの中に後悔がぎった。大切な約束だったのに、すっかり忘れてしまっていた。空は茜色に染まり始めていて、じきに日も暮れるだろう。待ってくれているであろう瑠都の姿を簡単に思い描くことができて、メイスの中で焦りが増してく。


 近頃メイスの足は、館から遠ざかりがちだった。


 ドンララン山へ飛ばされるまでの経緯、助けることも、迎えにいくこともできなかった自分のふがいなさと頼りなさを思い知る度に、どうしても体が重くなるのだ。


 だが、そんなことは瑠都との約束を破ってもいい理由にはならない。約束一つできない男に、いったい何が守れるっていうんだ。またそっと、唇をかんだ。


「早く帰らないと」


 メイスの呟きに反応したアンナが、視線を鋭くした。


「……帰るってどこに? おばさんが待ってるから?」


「ううん。そうじゃなくって、ルトが──」


 自分から尋ねたのに、その続きを聞きたくなくてアンナは視線を落とした。


 また、その名前が邪魔をする。


 せっかく会えたのに、どうしてあの人のことを聞かないといけないんだろう。メイスはどうして、帰るなんて、言うんだろう。


 メイスの帰る場所は、生まれ育ったあの家一つのはずだろう。他に居場所があるなんて、どうしてそんな、アンナがよく知るまっすぐな瞳のままで口にするの。


「ごめん、ちょっと急ぐね」


 断りを入れてから、今度はメイスがアンナの横を通り過ぎた。


 急いでいるんだったら、そのまま行ってしまえばいいのに。振り返らず、去ってしまえばいいのに。


「……アンナ? どうしたの?」


 黙って立ちすくむ幼なじみの姿を気にして、メイスが足を止めたのが分かった。昔から何一つ変わらない優しい声が、アンナの胸を締め付けた。


「……私、メイスはずっと隣にいると思ってた」


 メイスのほうへ体を向けたアンナの目から、大粒の涙が次々と落ちていく。


「大人になっても、ずっと一緒にいると思ってた。一番近くにいるのは私なんだから……いつかお嫁さんにしてくれるって、思ってた」


 昔から、メイスがアンナのことを妹のようしか思っていないことなんて知っている。それでもいつかは、隣にいるのが誰なのか気が付いて、その気持ちに熱を宿してくれると思っていた。


「私、メイスが好き」


 アンナはその潤んだ視界にメイスを映し続けた。


「それなのに、突然現れた別の誰かに取られるなんて思ってもいなかった」


 メイスは息を呑んだ。涙を流すアンナの表情が、今の言葉が決して戯れではないことをはっきりと示していた。


「……アンナ、僕は」


「リメルなんかより、私のほうがメイスのこと知ってるもん! 無理矢理結婚させられて、そんなの、うまくいくはずないんだから」


 荒げた声が、差し込み始めた茜色の陽の中に響く。いっそのこと痛いくらいの感情が、メイスを射抜いた。


「私のほうが……好きだもん。メイスは? メイスは……私のこと、好きじゃないの?」


 惑うことなく口にした濁りのない感情が、メイスの心を激しく揺り動かす。


 物心が付いた頃から、一緒に過ごしてきたアンナと、他の幼なじみや友人。一緒に駆けて、学校に通って、馬鹿なことをして怒られて、それでも笑って。

 そんな記憶が荒波のように押し寄せて、メイスを飲み込んだ。


 やがてメイスの元だけに訪れた光が、辺りを包んでいく。一緒に遊んだ彼らの姿が遠ざかって、胸元に宿った欠片の存在に気が付いた。色とりどりの花が舞う。その眩い恐れと戸惑いの中で、メイスは見付けたのだ。


(──ルト)


 違う世界からやってきた、天に定められてメイスの伴侶となった人。運命の、人。


 躊躇いながら擦れ違った視線。触れた小さな手の温もりと、そっと、笑う仕草と。約束した幸せと、誓った己を。

 記憶が、思い出が、メイスの心を熱く包んで焦がしていく。


「……好きだよ」


 こぼしたメイスとアンナの眼差しが交差する。


「アンナのこと、好きだよ。父さんや母さん、姉さんたち、一緒に過ごしてきた友だち……みんなと同じくらい、好きだよ。でも、ルトは。ルトのことは……」


 メイスは震えそうになる声を止めた。吸い込む息すら意味ありげに温度を持って、思わず胸を押さえる。


「──好き、なんだ」


 たった一言の、同じ言葉。


 それなのにどうして、口にすることすらこんなにも躊躇うのだろう。


 姿を思い浮かべただけで、痛いくらい胸を締め付ける。だけど振り向いてほしい。側にいたい。ずっと、その手を離したくない。


「……っ、メイスの、馬鹿!」


 涙声を大きく張り上げたアンナが、メイスの横を駆けていく。足音が遠のいても、メイスは今度こそ振り返ることができなかった。




 そうだ、好きなんだ。


 口にすることが、震えるほど怖い。だけど、止めることができない。


 身の内から湧き上がるものを認めれば、あっという間に飲み込まれる。体全体を、心を、いとも容易く染めあげる強い感情を、メイスは初めて知ったのだ。


 いつから、だろう。


 出会った時からか。城までの道のりで、幸せを誓った時だろうか。それとも、手を繋ぐのが当たり前になってからか。

 考えても考えても答えは出ない。ただ、ほころぶような笑顔を向ける瑠都がそこにいる。


 いつ芽生えたかは、きっと重要ではないのだ。ただ隣に瑠都がいてくれるなら、それだけで、もういい。


 隠れていた感情が制御できずに溢れ出す。つと流れた涙に、メイスはまた自分のふがいなさと情けなさを思い知った。


 次に瑠都に会っても、言葉にはできないだろう。覚悟も力も足りない今の自分には、きっとまだ。

 だが、好きだと、大切だと思ったこの尊い感情を、閉じ込めたりはもうしない。


 だからそうだ、早く、帰らないと。


 顔を上げたメイスの濡れた頬を、茜色が包むように照らす。その温かさが瑠都みたいだと、そう思った。

 

 

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