第70話 閉ざした扉のその先で

 

 

 ドンララン山の住人に別れを告げ、瑠都はジュカヒットたち特殊部隊の隊員と共に麓の町へと下った。


 麓の町では、ジャグマリアスが従える第ニ部隊が待ち構えていた。すぐに駆け寄ってきたフェアニーアの橙色が安堵で薄く滲むのを見て、瑠都の胸にも様々な感情がこみ上げる。支えるように背中に添えられたジュカヒットの大きな手は、しばらく離れることはなかった。


 第ニ部隊は、転移魔法を扱うことが得意な魔法員を伴ってきていた。

 転移魔法とは、場所と場所とを双方から魔法陣にて結び付けるもの。約束の刻に、レスチナールで待っている別の魔法員と同時に発動させるのだという。


 魔法陣に触れるだけで人を移動させることができる転移魔法は、非常に高度で緻密な物だ。


 魔力を持っているだけでは、魔法は扱えない。いかにその魔法の性質や構成を理解し、自らの魔力で構築、実体化するだけの柔軟性を持てるかが重要なのだ。魔力を多く持っていようが、それらができていなければ魔法は決して応えてくれない。もちろん、魔法との相性もあるが。


 ゆえに大魔法使いと呼ばれる存在であっても、現在までにあらわになっているすべての魔法を自由自在に扱うことなど不可能だった。


 魔法というものは難解で、人によっては厄介かつ恐ろしいものだ。その一方で誰かの心強い味方にもなり、盾にも矛にも、救いにもなる。

 

 かつてすべての魔法を従えていた、いにしえのリメルの、なんと異質なことか。

 そして魔法を呼び戻せるリメルの特異さと、祝福が約束されたリメルフィリゼアの座を欲する、欲深き者たち。




 魔法員がレスチナールと繋げた魔法陣は複雑な文様を描きながら光り輝いていた。魔法陣そのものを初めて見た瑠都は目を見開く。高揚しなかったといえば嘘になるが、今から自分がその輝く円に足を踏み入るのだと思ったら、やはり多少の不安も感じる。

 何も言葉にしないまま、けれど自分のために繋げてもらったのだからと意を決して一歩踏み出した瑠都の手を引いたのも、やはりジュカヒットだった。


「ジュカヒットさん……」


「恐れることはない、俺がいる」


 見上げた先の美しい漆黒は、ほんの少しも笑んでなんていないというのに。手の温もりと、落とされた一言。瑠都を安堵させるのは、それだけで充分だった。



 転移魔法で渡った先に待っていたのは、リメルフィリゼア、王スティリオ、研究所総長ルーガ、軍の関係者に、魔法員。錚々そうそうたる面々が一様に帰還を喜ぶ光景に驚いた瑠都だったが、その場では経緯を簡単に説明しただけで、すぐに辞することとなった。これも、瑠都の体調や心境をおもんばかってのことだった。


 開いた扉の前で待っていたマリーに泣きながら強く抱き締められた時。館でミローネやフーニャ、サフたちに、おかえりなさい、なんて、まるで家みたいに言われた時。やはり帰りたい場所はここにあったのだと、強く、強くそう思った。




 

 穴が開くのではないかと思うほど見つめられている。


 瑠都がぎこきなくそちらを見やれば、いくつかの畳んだタオルを両手で持ったまま、じっとりとした視線を送る侍女フーニャと視線がかちあう。


「ルト様、どこに行かれるんですか」


「えーっと、館の中をルビーと散歩しようかと」


「へー、そうなんですね、ふーん。ほんとにそれだけですか。危ないことしませんか」


 怪しまれている。


 弁明するべきようなことは何もしていないはずだが、何回も迷惑や心配を掛けている手前、へらへらとかわすことができないのもまた事実である。繋いだ手の先で、ルビーがこてんと首を傾げた。




 瑠都が館へ帰ってきてから、一週間が経っていた。


 何度かスティリオやルーガとも話をしたが、贈り物の中に魔法が仕掛けられたペンダントを忍ばせた人物は未だに分かっていない。


 不思議なほど、なんの証拠も証言も出てこないのだという。実際に事を起こしたのは少人数、あるいは一人や二人であっても、背後にはおそらくなんらかの大きな組織、または国がいるのではないかというのがジャグマリアスの考えだった。


 ペンダントに込められた、人を丸ごと一人移動させるだけの魔法。瑠都が触れるまでうまく潜ませていた巧妙さ。そして、粉々に砕けた黒い石は、かなり高価な宝石だった。

 遥か遠い大陸で採掘されている石は、ジーベルグだけでなく、他国にも広く流通しており、身分が高い貴族や王族も好んで身に付けているため、購入者を探ることは難しかった。


 石から辿ることは困難だ。魔法を扱うことに長けたルーガでさえ、石の欠片を見てそう結論付けたというのに、エルスツナは今もまだ、なんらかの痕跡が残っていないか調べているのだという。みなが瑠都を迎えたあの場にも、エルスツナだけがいなかった。


(帰ってきてから一度も、エルスツナさんのこと見かけてない……)


 瑠都はただ、この館でエルスツナの帰りを待つことしかできない。時間だけが過ぎていっていた。


「いいですかルト様! 何度も言いますが、変な物には触らない。怪しい人には付いていかない。寂しい時はフーニャを呼ぶ! ですからねっ」


 ずい、と人差し指を前に出して念を押すフーニャに、思考を現実に引き戻される。


「聞いてますか、ルト様!」


「はい、あの……約束のことですよね」


「そうです! ぜぇーったい、忘れないでくださいね!」


 明らかにリメルを狙った事件。あれからますます警備は厳しくなったが、瑠都の従者たちも今まで以上に瑠都を守ろうとしてしてくれている。

 どこに行くにも、何をするにも目を光らせるフーニャにあれこれと質問され、交わした約束を繰り返す日々。

 最後の、寂しい時は、の約束は少し意図が違うのでは、なんてフェアニーアが不思議そうにしていたのも記憶に新しい。


「あ、そういえば」


 何かを思い出したらしいフーニャが、人差し指を上にしたまま身を引いた。


「今度キィユネ様が訪ねてこられるそうです。ミローネさんに伝えておくようにと言われていたんでした!」


「キィユネさんが?」


「はい! アヴィハロ様も一緒だといいですね」


 大事なことは先に言いなさい。青筋を立てながら注意するミローネの姿が頭上に浮かんだのは瑠都だけらしい。フーニャはにっこりと笑っている。

 こくりと頷いた瑠都は、浮かんだ疑問をそのまま口にした。


「どうしてキィユネさんが館にいらっしゃるんでしょうか」


 用事がある時はいつも、瑠都が城かキィユネの屋敷を訪れていた。

 フーニャもどうやら、理由までは聞いていないらしい。足を止めたままの瑠都を促すように、ルビーがぐいとその手を引いた。





 館の中や周囲を、ゆっくりと歩く。走ったり飛び跳ねたりする桃色を微笑ましく見つめる瑠都を、ルビーもまた何度も見上げてきた。まるでその存在を、確かめるみたいに。



 瑠都がドンララン山から自室に戻った時、広いベッドにはルビーがぽつりと寝かされていた。身動みじろぎ一つしないその姿は、どこからどうみてもただのぬいぐるみ。マリーが瑠都にそうしたように、駆け寄って冷たい桃色の体を強く抱き締める。


 ルビーは、瑠都の居場所を探しだしたことで、体の中に満ちていた魔力を使い果たしたのだ。だがそれだけでは足りずに、遠くにいる瑠都からリメルテーゼを引き出したのかもしれない。だから瑠都も突如として、魔力不足に陥った。誰に聞くでもなく、瑠都はそう確信していた。


「ねえ、ルビー」


 すっかり元気になった後ろ姿に呼びかける。ぱたりと動きを止めて瑠都を待つルビーの前でしゃがむ。愛しいぬいぐるみ、大切な友達。頭を撫でれば、長い耳を倒して嬉しそうに擦り寄ってきた。


「ありがとう」


 何度口にしたか分からない言葉。けれど、何度伝えたところで、多すぎることなんてないのだ。ルビーは紛れもなく、瑠都を助けてくれたのだから。





 遊び疲れてすっかり眠ってしまったルビーを抱きながら、部屋へと歩を進める。もうじきメイスも学校から戻ってくるだろう。いや、最近帰りが遅いことも多いから、まだかもしれない。


 そんなことを考えながら歩く瑠都の目に、久しぶりに見る相手の姿が飛び込んできた。白いローブを着た、灰色がかった水色の髪の男。


「エルスツナさん……?」


 エルスツナは、瑠都の部屋の前に佇んでいた。呼びかけに、さしておどろく様子もなく顔を動かしたエルスツナの澄み切った青の瞳が、いつも通りの温度で瑠都を射抜く。


 一瞬だけ躊躇って、瑠都はエルスツナのすぐ目の前まで歩いていった。


「あの……ペンダントのこと、調べてくださってありがとうございました。色々とまたご迷惑をお掛けして、すみません」


 瑠都の言葉に、エルスツナはなんの反応も示さなかった。自身が瑠都の部屋の前にいた理由を述べることもない。きっといつものように鋭い言葉が飛んでくるのだろう構えていた瑠都は、その以外な反応に面食らう。


「えっと……」


 間が持たない。元々饒舌ではない瑠都に、この空間の静寂を割くだけの話術も度胸もない。ならば先に自分がエルスツナに伝えたかったことを言ってしまおう。焦りながら、瑠都はこっそりとそう決意する。


「もう聞いてるとは思うんですけど、魔法の宿を一つ持ち帰ったんです。ずっと昔からそこにあった本らしいんですが、最初から魔法の宿だったのか、いつの間にか宿ったのかは分からないそうです」


 シルラドュ家から託された本のことを思い出しながら報告する。だがやはり、エルスツナから反応は返ってこない。


「そ、それから、突然ルビーと繋がって、ルビーがみんなに居場所を教えてくれたんです。リメルテーゼを使った……みたいで……」


 エルスツナの眉間に段々と皺が寄っていくのを感じて、語気が弱まっていく。やはりもう報告を聞いていたのだろう。

 一番に報告しなかったからだろうか。誰かから聞いている以上の情報がないからだろうか。射抜く空色からどうやったら逃れられるのか分からなくて、瑠都は思考をぐるぐると巡らせる。


「他に言うことがあるだろう」


「えっ」


 やっとのこと返ってきた言葉が意外なもので、瑠都は目を丸くする。


「他、ですか……?」


 何か報告しておくことが他にあっただろうか。


 だいたいのことはルーガや他の魔法員からも聞いているだろう。もしかしたら、ジュカヒットが近付いた時に竜の道が勢いを弱めたことだろうか。

 いや、でもそれはすでに、瑠都からもジュカヒットからも、他の者にではあるが伝えている。


(他……)


 帰ってきてから、エルスツナとは初めて会った。最後に会ったのは、城の回廊。ばたりと出くわした記憶が蘇る。


(雨の、回廊──)


 途端、あの日の冷たさと、対照的な鼓動を思い出して瑠都の胸が小さく震えた。


 口付けて魔力を送ってきたエルスツナの言葉を最後まで聞かずに、瑠都はあの場から逃げ出したのだ。


 忘れていたわけではない。ただ、思い出さないようにきつく、閉じこめていた。

 目の前のエルスツナの表情を見るのが怖くなって、瑠都はそっと視線を逸らした。


「……あの日、急に立ち去ってしまって、すみませんでした。私、話も最後まで聞かずに」


 エルスツナが悪いわけではない。その前に魔力不足で倒れたのも、魔力を渡すのがリメルフィリゼアの義務であるのも、口付けがより深い渡し方であるのも、事実なのだから。


 耐えきれなくなったのは瑠都のほうだ。


 雨に包まれた回廊で、浅ましい感情を溢れさせてしまいそうになったのは、瑠都のほうだ。


 エルスツナがますます不機嫌そうに顔をしかめたことに、瑠都は気が付かなかった。


「責めればいいだろう、俺を」


「え……」


 エルスツナはそれだけを言い残すと、踵を返して立ち去ってしまった。ぽつんと立ち尽くす瑠都を振り返ることはなかった。





 漆黒の、闇夜だった。


 飲み屋街の喧噪からも遠ざかったレスチナールの一角で、夜の色と同じ黒のローブを纏った、一つの影が立ち竦む。その手のひらの上には、闇夜に馴染むことのない真っ白な鳥が乗っていた。

 ただ姿形は鳥そのものであっても、生気を宿してはいない。置物のように微動だにしない鳥は、異質な明るさを保ちながらくちばしを開いた。


『──ああ、失敗か』


 小さな鳥から放たれた声は、しわがれた男のものだった。


『苦労してペンダントにまで落とし込んだというのに。ジカテジーンめ、必ずうまくいくなどとうそぶきよって。途中の山に落ちるなど、笑止よの。まったく……長い時間をかけてこれか』


 低く唸る鳥の恨み言を黙って聞くローブの人物は、深くフードを被っている。微かな風では揺るぐこともなく、その者の表情を伺い知ることはできない。


『あるいは、お前が失敗したのではないだろうな』


 静かな怒りの矛先が、突然深いローブの中へと向いた。


『愚図で無能な、愚かしいお前のことだ。途中でよからぬ魔法にでも引っかかったのではあるまいな』


 冷たく、暗い声色だった。

 びくりと体を固くしたローブの人物の答えを待つこともなく、鳥はまた独りでに話し出す。


『──まあよい。お前のような異端者に、崇高なる我らの計画の端くれを担わせてやっているのだ。しくじったら次はないと思え』


 そう言い切って、くちばしを閉じた。


 途端、闇夜は再び静寂に包まれる。

 明るさを失った鳥はその形を崩したかと思うと粉々にちぎれ、手の中には真っ白な紙くずだけが残されていた。下ろした手の中からこぼれ落ちていくそれらは、やがて風に連れられて漆黒の中に消えていった。



 暫しの間を開けて、ローブ姿の人影は溶け込むように夜の町へと消えた。


 誰とも擦れ違うことなく歩き続け、中心部から離れた閑静な場所にある、大きな屋敷に辿り着いた。

 音を立てずに中に入り施錠すると、暗闇の中で迷うこともなく進んでいく。


 一階の一番奥にある部屋に入り、明かりも点けず、扉も開け放したまま、脱ぎ去ったローブを椅子に掛けた。

 窓から差し込む月明かりに照らされて、息もかずに視線を落とした時、背後から声が掛かった。



「──遅かったじゃないか、アヴィハロ」


 勢いよく振り返った拍子に、左耳の下で一つに結ばれた長い紺色の髪が揺れる。見開いた灰色の瞳に映ったのは、己の師の姿だった。


「こんな時間まで何をしていたんだい」


 もう一度声を掛けたのは、大国ジーベルグの繁栄に欠かせない老齢の占者、キィユネである。すっかり寝支度を整えた格好で、弟子に静かな視線を向けていた。


「……申し訳ありません」


 小さく呟いたアヴィハロの唇には色がない。夜の冷えのせいか、それともフードの中できつく閉ざしていたからか。


「星を読みに、外へ……」


「まったく、そんなことはここからでもできるだろう。こんな夜更けに若い娘が出歩くものじゃないよ」


「はい、申し訳ありません」


 再び謝罪の言葉を口にしたアヴィハロは、それ以上何も紡ぐことなく押し黙っている。キィユネはその沈黙を追求することなく、そっと扉に手を掛けた。


「今夜は冷える。暖かい格好をして早く寝なさい」


「はい、キィユネ様」


 外から閉じられた扉をじっと眺める。気配が離れていくのを感じて、アヴィハロはまた視線を落とした。


 壁際にある机に近寄ると、一番下の引き出しを開ける。そこには、小さな箱が入っていた。


 なんの飾り気もない、無地の質素な箱を大事そうに取り出して、机の上に置く。蓋を開けると、中には紫色の布が入っていた。

 布を開くと、二センチほどある宝石が姿を現した。その宝石は透明で、闇の中にあっても静かに輝いていた。


 アヴィハロは透明な宝石を取り出すと、顔の上へと掲げる。見上げた拍子に、右耳に一つだけ付けられた翡翠色の細長い耳飾りが揺れた。


 月明かりを受ける宝石の輝きが顔にも映って、目を細めた。その輝きはやはり、アヴィハロには少しだけ眩しかった。

 

 

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