第68話 例えば世界を隔てても

 

 

 タズネを引き連れたアスノが村の入り口に辿り着いた時、そこには黒衣の男たちがいた。傍らには同じように漆黒の馬が静かに佇んでいる。奥にも数騎見えることから、ざっと十人ほどはいるだろうか。


 よく見てみれば、闇夜に溶けそうな黒衣はジーベルグの軍服で、彼らがこの国の軍人であることが分かる。近付くにつれ、なんとも言えない緊張感が重くし掛かった。武器を構えているわけでもないのに、喉元に剣を突き付けられているような威圧感さえ感じる。大国の軍人とは、このように研ぎ澄まされたものであったのか。


「兄さん……」


 タズネが、不安そうに声を落とした。



 アスノの到着に気が付いたウルの兄と、村の若い男たちが一歩下がってアスノを通す。

 深夜、竜の道を超えてきたであろう、決して数は多くない軍人。ここにいる住人は皆深刻な面持ちで、今の状況が異様であることを理解していた。


 ランタンを手にしたアスノは、住人たちの前へと出た。対峙した軍人たちの一番前にいる人物が、アスノへと顔を向ける。


 微かに吹いた風に、長い黒髪が流れるようになびく。月明かりに照らされた顔は彫刻のように整っていて、いやにつやめかしい。女と見紛みまがうほどでありながら、放つ雰囲気の鋭さは他の軍人たちよりも抜きん出ていた。


「夜分に失礼する」


 アスノを村の住人の代表だと認識したらしい軍人が口を開く。静かな、落ち着き払った声色だった。


「珍しいことがあるもんだな。軍人がなんの用だ?」


 いつもの調子を損なわないように努めながらも、アスノはいぶかしげに問うた。


「人を探している。黒髪の少女が一人、ここにいるはずだ」


 軍人は決してアスノから視線を逸らさないまま、そう言った。


 黒髪の少女。思い当たる人物はこの村に一人しかいないが、アスノはすぐに頷かなかった。


「いないと言ったら?」


「いや、いるはずだ」


 何か、確信でもあるのだろうか。すぐに言い切った軍人に、アスノの後ろで村の住人たちが息を詰めたのが分かった。

 軍人の目的は、明らかに瑠都だろう。村に迷い混んだ、記憶のない一人の少女。関係者か、あるいは害をそうとする者か。住人たちの緊張感を背中でひしひしと感じながら、アスノは語気を強めた。


「ルルをどうするつもりだ? 傷付けるつもりなら、ここを通すわけにはいかない」


 ジーベルグとは、善良な王スティリオが治める大国である。その部下である軍人たちが無体を働くとは思えないが、自らの考えだけで動いている可能性も、否定はできないだろう。

 鍛え抜かれた軍人に敵うはずもないが、それでも彼らの目的が分からない以上、易々と瑠都を差し出すことなどできやしなかった。


「……ルル?」


 軍人は、そっと目を細めた。アスノから出た名を、自らの記憶の中にいる少女と一致させる。知っている名とは異なるが、それは立場を明かしていないからだろう。

 少女、瑠都が困惑の中で選択したであろう振る舞いを僅かな時間で理解する。


 大国ジーベルグの軍服をまとっていると、それだけで人を圧倒する。幾度となく経験し、目にしてきた光景だ。山の上にある長閑のどかな村の住人であれば、恐れて理由など聞かずにすぐに通したとしてもおかしくはない。


 だが、アスノは臆することなく真正面から軍人を捉えていた。村の住人たちも狼狽えてはいるが、一歩も引く気はないようだった。


 瑠都を、守ろうとしている。


 この村の住人は敵ではない。ならば瑠都を狙って贈り物に仕掛けを施したのは、彼らではないということだ。おそらく、リメルを手にしようとした者たちの企みは、どこかしらの工程で失敗している。


 瞬時に考えを巡らせた軍人の中で、更に強固なものとなった確信がもう一つあった。


 やはり、瑠都はここにいるのだ。



「……傷付けるはずなどない。彼女を迎えに来た」


「そうだと示せる物は?」


「何もない。敢えて言うのならば、この黒が答えだ」


 軍人は、迷うこともなく短い言葉で告げた。まとう黒が答えだと言い切る姿は、確かにこの国を守る誇り高き兵士である。


「……そうだ、思い出した」


 住人たちの一番後ろにいた一人の男が、突然声を上げた。


 皆がその男に目をやるが、男は数多あまたの視線など気にもせずに、美しい軍人を指差している。その指先は震えていた。


「あ、あんたのこと知ってるぞ。町に商売に行った時に遠くから見かけたんだ。間違いない。あんた、確か特殊部隊の奴だろう。噂されてたんだ、そこの副隊長が、リメルフィリゼアになったって」


 男の言葉を受けて、アスノは勢いよく軍人へと視線を戻した。


 リメルフィリゼア。

 異世界より渡ってくるリメルの、天が定めた伴侶。選ばれた者にのみ与えられる、名誉ある称号。


「まさか……」


 軍人を見つめるアスノの瞳が、微かに揺れる。


「いかにも。俺はジーベルグ王国軍特殊部隊副隊長、ジュカヒット・ナトリミトロだ」


 余程世間の事情に疎くない限り、一度くらいはその名を聞いたことがあるだろう。

 誇り高き軍人、そして花の欠片を与えられし、リメルの──。


「ここを通してくれないか。大切な人を……迎えに来たんだ」





 アスノは、瑠都がいる自分の家までジュカヒットを案内していた。他の軍人は、ジュカヒットの指示により村の入り口で待機している。軍服をまとった姿で村に足を踏み入れたのは、ジュカヒットただ一人。アスノにはそれが、住人を無意味に怯えさせることがないようにと下された、最大限の配慮のように思えた。


 足音も立てないまま後ろを着いてくるジュカヒットのことを考えながら、アスノはランタンが照らす先だけを見ていた。


 リメルフィリゼアと出会ったのは、生まれて初めてだった。そもそも伴侶であるリメルが、別の世界から訪れることすら滅多とないのだから当たり前だろう。


 稀有けうな存在が、後ろにいる。


 ランタンを持つ手に、自然と力が入った。緊張、しているのだろうか。それとも、動揺だろうか。


 リメルフィリゼアであるジュカヒットが、大切だと言い切った人。花畑で向かい合った少女の姿を、アスノは思い浮かべた。




 玄関を開けて、アスノは中にジュカヒットを通した。

 ここに来るまでの間、二人はずっと無言だった。それは家の中に入っても変わらない。目的の場所に向かって、ひたすらに進む。


 階段の下までやって来た時、踊場に人影が見えてアスノはふと顔を上げた。影の正体は、座り込む瑠都の姿だった。


「ルルっ……!」


 本調子ではない瑠都は、妹の部屋で寝ていたはずだ。なぜ、こんな所にいるのか。

 階段を駆け上がろうとしたアスノの横を、あっという間に漆黒が追い抜いていった。


 踊場に辿り着いたジュカヒットが、瑠都の隣に並ぶように片膝をつく。

 窓から入る月明かりに照らされた二人を、アスノはただ、階下から見ていることしかできなかった。





「ルト」


 間近で聞こえた声に、どこかぼんやりとしていた瑠都の意識がはっきりと覚醒する。


 何かに呼ばれた気がして部屋を出たが、重たい体では階段を下りることもできず、踊場に座り込んでしまっていた。

 いったい今は何時で、誰が瑠都の本当の名を呼んだのだろう。ここに、真実を知る者なんていないはずなのに。


 ゆっくりと顔を上げると、目の前には見慣れた漆黒がいた。


「ジュカヒット、さん……」


 こぼした瞬間、片膝をついているジュカヒットがそのまま瑠都を抱き締めた。存在を確かめるようにしっかりと腰に回された力強い腕の中で、懐かしい香りととろけるほどの熱さを感じた瑠都の胸が、ぎゅうと締め付けられた。

 思わず擦り寄った瑠都の頭に触れているジュカヒットの右手が、さらりとした髪をそっと撫で付ける。


 ジュカヒットに名前を呼ばれたのは初めてのはずなのに、なぜだかその声色を聞いたことがある気がした。


(なんだっけ……私、どこかで)


 考えようとするが、今はただ目の前の温もりだけを確かめていたくて、思考が上手く働かない。


「……冷えきってる」


 小さく呟いたジュカヒットが僅かに身を離して、瑠都の顔を見つめた。凍えるほど体が冷たいのは、夜だからという理由だけではないだろう。すぐに手を取って魔力を送る。互いの身の内を巡る魔力が、熱を宿していく。


「ジュカヒットさん、どうして、ここに」


 段々と体が軽くなるのを実感しながら、瑠都は尋ねた。


「ぬいぐるみが……ルビーが教えてくれたんだ」


「ルビーが……」


 やはり、白い空間での邂逅かいこうは夢ではなかった。迎えにいくから待っていてと囁いた赤い瞳の煌めきは、幻なんかでは、なかったのだ。


「無事でよかった」


 視線が交差する。いつもはあまり感情を読み取らせないジュカヒットの瞳には、確かな安堵が浮かんでいた。


 ジュカヒットはもう一度、腕の中に瑠都を閉じ込めた。抱き寄せられた体から伝わる鼓動が、ひどく心地良い。


「ルト……」


 耳元で繰り返された名前。


 やはり、知っている。

 こうして名前を呼ばれるのは、今日が初めてじゃない。


 瑠都の脳裏に、いつかの大聖堂が思い浮かぶ。


 リメルフィリゼアたちと誓いを立てた結婚式。白い花弁に口付けた瞬間、放たれた強烈な光。

 飲み込まれた瑠都のことを、確かに誰かが呼んだのだ。


(ジュカヒットさん、だったんだ……)


 あの時、咄嗟とっさに瑠都の名前を口にしたのは、ジュカヒットだったのだ。


 もしかしたら、ジュカヒットの前には初めから、躊躇いや迷いなんてなかったのだろうか。大切な存在に気付かないままだった瑠都のことを、ただまっすぐに、求め続けてくれていたのだろうか。


 視界が滲んでいくのを止められない。溢れる感情をどう伝えたらいいのか、分からなかった。だけどもう、この温かい人を手放すことだけは、したくなかった。


「……迎えに、来てくれたんですね」


 薄く開いた口から出た瑠都の声は震えていた。


「当然だ」


 ジュカヒットは力強く答えた。至近距離でまた見つめ合う。魔力の流れがんでも触れたままだった手を、指を絡めるようにして握り直した。


「例え違う世界にいたとしても、必ず迎えに行く」



 どちらともなく、唇が重なった。


 離れた瞬間に交わる視線。同じ色の瞳に映るのは、求め合った互いの渇望だった。


 またすぐに触れた柔らかさ。唇から、温度から、魔力から、想いが伝わってくる。


(もっと、伝わればいいのに──)


 欲深さだけが増していく。終わることのない願い事を、二人ともが何度も、何度も、心の中で繰り返した。



 待っていた。

 生まれる前から、この世界で巡り合うのを、確かな熱で、触れるのを。


 大切にしたい。

 どんなものよりも、宝物みたいに、もう二度と、こぼれ落ちたりしないように。


 好き。

 理由も誓いも、運命も、今はまだなんだっていいから。ただこの想いだけは、信じていてほしい。




 月明かりに照らされて、階段に伸びる影は一つ。


 瑠都の目から溢れた一筋の涙を、ジュカヒットが指で拭った。堪らないほどの愛しさが、どうしようもなく募るから。その心ごと抱き締めるみたいに、もう一度口付けたんだ。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る