第67話 月夜の来訪者
かつて妹のものだった部屋から出たアスノは、一つ息を吐いた。
時刻は真夜中。多くの者が寝静まっている時間帯だが、アスノには眠っていられない理由があった。閉めたばかりの扉の中にいる人物を思い描いてから、一階へと足を向ける。
瑠都の体に異変が起こったのは一昨日のことだ。花畑から帰ってきてすぐに、瑠都は自分一人で起き上がることすらできなくなった。
目眩を起こしただけだと瑠都は言ったが、アスノにはそう思えなかった。現に、二日経った今もまともに起き上がれずにベッドに沈んでいる。時折意識が浮上するが、その顔色は血の気を失って白いまま。触れた手の温度を思い出して、アスノは階段の踊場で立ち止まった。
暗闇の中、自身の手を見る。花畑へと導いた時には、瑠都の小さな手は確かな温度を持っていた。だが、異変に気が付いて触れた時は、異様なほど冷たかった。
いつの間にか、雲が流れて消えていた。踊場にある窓から月の光が差し込んできて、アスノを照らす。見上げた視線の先で、丸く大きな月が輝いていた。
そういえば、今夜ほどではないが、瑠都がここにやって来た日の月も同じように大きかった。
──迎えがくる。
瑠都がこぼした言葉の意味を、アスノはこの二日ずっと考えていた。
遠のきそうになる意識の中で、瑠都はいったい何を感じてそう口にしたのか。未だ竜の道が明けていないというのに、誰がどこから迎えにくるというのか。
「……なんだよ、月にでも帰るってのか」
目を細めて視線を逸らす。下ろした手に、僅かに力が入った。
「兄さん」
呼ばれて顔を向けると、階下からタズネが見上げていた。タズネはそのまま階段を上がり、踊場から数段下で止まる。
「ルルは?」
「眠ってる」
「そっか……」
山の上にあるこの村に医者はいない。瑠都が動けなくなった原因が分からないので薬を飲ませることもできず、ただベッドの上で休ませることしかできていない。
夜半ではあるが、瑠都の様子が心配でタズネはなかなか眠れずにいた。一階ではフーリとグレーも同じようにまだ起きている。
「何が起こってるんだろう」
この二日で、何度口にしたかも分からない疑問。
「……さあな」
それに対するアスノの返答も、変わらない。
瑠都がここにやって来たことと、今回のこと。何かしらの関係があるのだろうか。
やはり不思議だ。竜の道が閉ざす山へ一人現れたこと、加えて、記憶まで失っていること。
瑠都には、計り知れないような特別な事情があるのかもしれない。
もちろん予期していなかったわけではないが、今回のことがあって、アスノの中でその考えはますます確信に近くなっていた。
魔法に関する事柄にただ巻き込まれたのではなく、瑠都自身が、その中心にいたのではないかと。
アスノも、家族も、村の住民も、瑠都のことを何も知らない。十日余りの付き合いなのだから当たり前だろう。
いったい何者なのだ。どこから来て、どこに帰るのか。過ごしてきた日常はどんなものだったのか。その時隣には、誰がいたのか。
(……別に、なんだって構わない)
どんな肩書きでも、名前でもいいんだ。住んでいるのが遠い町でも、どこぞの城でも、なんなら海の中でもいい。事柄の中心にいようと、どんな事情を背負っていようと、もうなんでも、きっと責めやしないから。
笑ってくれていれば、それでいい。
だから早く、元気になってくれないと困るんだ。
「まだ十日くらいしか一緒にいないってのに、ずいぶん肩入れしちまってるな、俺たち」
アスノは月を背に、笑みを見せながらタズネに言った。その笑みが少しだけ寂しさを滲ませていた気がして、タズネは珍しい兄の表情に目を見開いた。
「あー、まあな」
言いたいことが纏まらないのか、頭に手をやったタズネは、やがて一つだけ答えを口にした。
「でも、あんなに不安そうにしてる女の子をさ、ほっとけなくて当たり前だよ」
それに多分、記憶が戻っても悪い子じゃないよ。タズネは自信ありげにそう言った。
「……そうだな」
階段を下り始めたアスノは、近くなったタズネの頭を撫でた。
二人連れ立って一階に下りる。同時に、玄関の扉を数回叩く音がした。
夜半の来訪者。タズネと目を合わせてから、アスノは黙ったままで扉を開けた。
そこに立っていたのは、隣に住むウルの兄だった。
「どうしたんだ」
アスノが尋ねる。いつになく深刻な面持ちのウルの兄は、一度振り返って外の様子を確認してから、アスノとタズネを交互に見た。家の中に入ることもせず、玄関口で性急に述べる。
「村の入り口に人がいる。一人じゃない、多分軍人だ」
「軍人? なんでそんなのが……」
そこまで言ってから、タズネはもう一つの疑問に辿り着いて口を閉ざした。
どうやって、竜の道を超えてきたのか。
ウルの兄もタズネも、アスノの意見を聞くためにその顔を見た。アスノはふと瑠都の言葉を思い返しながら、それを表には出さずに答えた。
「すぐに行く。念のために人を集めておいてくれ」
「ああ、分かった」
了承を示したウルの兄がすぐに立ち去っていく。開け放した扉の向こうから、冷たい空気が吹き込んだ。
静寂の中で、瑠都は目を開いた。
自然に覚めたというよりは、何者かに揺り起こされた感覚。
「……行かなくちゃ」
呟くような決意が暗い部屋の中に落ちる。床に足を着ければ、ひんやりとした感触が足先から全身に広がった。
まだ夢を見ているかもしれない。一人きりのはずなのに、視界の片隅で懐かしい赤が瞬いた。
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