第65話 名もない蕾なんてどこにも

 

 

 瑠都がドンララン山へ来てから、すでに十日が経っていた。


 やはり初めにアスノが予想した通り、今回の竜の道は明けるまで二週間はかかるのだろうか。それとも、もっと日数を要するのだろうか。


 気持ちだけが焦る。こうしている間にも時間は刻々と過ぎていくのだ。待つ以外に、何ができるのだろう。もっと考えなくては。早く帰らなくては。


 でなければ皆に、もっと迷惑をかけてしまうから。





 その日の昼過ぎ、農園からアスノだけが一人で帰ってきた。いつもより早い戻り。珍しくフーリとタズネに残りの仕事を任せてきたようだった。


「ルル、出掛けるぞ」


「えっ?」


 唐突な誘いに、洗濯物を抱えていた瑠都は動きを止める。


「母さん、あとは任せていいか」


「もちろんよ」


 アスノは洗濯物を瑠都から取り上げると、意気揚々と近付いてきたグレーに託す。


「デート?」


 楽しそうな様子のグレーは知らない振りをして、アスノはもう一度瑠都を促した。瑠都は頭上に疑問符を浮かべたまま、早々に家の外へと出たアスノへと続いたのだった。


「あの、どこに行くんですか」


 追い付いた背中に声を掛ける。急に立ち止まったアスノにぶつかりそうになって、瑠都も慌てて足を止めた。首だけを少し後ろに向けたアスノが、呟くように告げた。


「……散歩」





 村を出て、山の中を進む。木々の間を抜けているとはいえ、アスノが先導してくれるので瑠都が歩きにくさを感じることはほとんどなかった。


 生い茂る木々が段々と少なくなってくる。やがて、開けた土地へと辿り着いた。光と共に視界に入った光景に、瑠都は目を見開いた。


「花畑……」


 見渡す限り一面に広がる、色とりどりの鮮やかな花たち。風に揺られ、溶けだすような甘い匂いが瑠都たちの元まで届く。


「綺麗だろ」


 言いながら、アスノが瑠都の手を引いた。


 連れられて花畑の側まで寄ってから、瑠都は横に立つアスノの顔を見上げた。


「どうして……」


 意図せず出た瑠都の問いかけが小さく落ちる。そっと手を離したアスノは、身を屈めると桃色の花を一輪摘んだ。体勢を戻して、その花を瑠都に見せる。


「……こういうの、好きかと思って」


 桃色の花から互いの瞳へと、視線が戻る。


 花。それは瑠都の胸に淡く咲いた印。リメルフィリゼアたちの胸に欠片を残した、約束の証。


 瑠都がリメルだということを、アスノは知らない。それなのに、ここに連れてきてくれたのか。明るい光の中で色付いた、たくさんの花たちのもとへと。


「竜の道が明けたら町に連れていく。どこまででも一緒に行ってやる。帰る場所は、必ず俺が探し出すから」


 アスノは手を伸ばして、瑠都の髪を耳に掛けた。露になった耳の上に、摘んだばかりの花を差す。


「難しいかもしれないけど……元気出せ」


 決まりが悪そうに言ってから、アスノは踵を返した。


「……俺は向こうに用事があるから、ゆっくり待っててくれ」


 来た道を戻っていくアスノが見えなくなるまで、瑠都はその背中を視線で追った。辿ってきた道は木々ばかりで、用事に寄れるようなところなんて見当たらなかったはずだ。

 それでもアスノは、振り返らなかった。




 姿が見えなくなって、一人になった瑠都はおもむろに花畑へと向き直る。見渡す限りの花の絨毯。形も色も様々な花は、自然とここに咲いたものだろうか。

 踏み入れば壊してしまうから、瑠都は花畑を眺めながら周りを歩く。


「綺麗……」


 誰に聞こえるでもない称賛が、こぼれ落ちた。心地よさそうに揺れる花を越えて、柔らかな風が瑠都を通り抜けていく。まるで奥底に根を張った感情を、引き上げるみたいに。


──皆は、元気だろうか。


 リメルフィリゼアたちは、マリーや、アヴィハロは。ミローネやフーニャは心配しているだろうか。ルビーはちゃんと動けているだろうか。巻き込んでしまったであろうメイスは、無事だろうか。

 考えると同時に、館で過ごした日々を思い返す。気付けば無意識に口を開いていた。


「……帰りたい」


 自ずと空気を震わせた言葉の意味を理解して、瑠都は息を飲んだ。咄嗟に口元に触れた手が、微かに震える。


 はたと、気付いてしまったのだ。


 帰りたいなんて、そんなこと。

 元いた世界から渡ってきた時に、願ったりしただろうか。



 寂しかった、悲しかった、悔いもした。けれど、帰りたいとすがったことは、おそらく一度もなかった。

 なんて、薄情なのだろう。そんなの、生まれた世界を簡単に捨てたことと、なんら変わりないではないか。


 それなのに、こうも簡単に、あの館へと、皆の元へと帰りたいと望んでしまった。愚かで、浅ましい、願い。


 皆の顔を思い浮かべた。過ごした日々が、再び瑠都の心を駆け巡る。

 もらった優しさと、堪らない温度と、どうしようもない切なさを。嬉しかったことも、大切だと思ったことも、愛しいと、思ったことも。

 この世界に渡ってきてから知った、たくさんの感情と想いが、いつの間にかこんなにも熱く焼き付いている。


 子どもの頃から、瑠都を待っていたのはいつも冷たい家だった。迎えてくれる人は誰もいなくて、望まれたことなんて、きっとなかった。

 帰るべき場所は、本当はないのかもしれないとずっと思っていた。


 瑠都の目から、涙が溢れる。


──あったんだ。


 帰る場所はもう、あったんだ。


 瑠都が帰りたいと願える家はあの館で、そこで待ってくれているであろう彼らはとっくに、家族だったのだ。


 とめどなく頬を伝う雫がんでくれないから、両手で何度も拭った。落ちてやがて地面を濡らしていく。青空の下、まるでそこだけ雨が降っているみたいに。


 溢れる理由は、もう自分でもよく分かっている。喜びと心苦しさと、後ろめたさ。それでも早く会いたいという、願い。


「会いたい、」


 口をいた願いを、攻める者はここにはいない。みっともなくしゃくりあげたって、見ている者は誰もいない。なびいた風が、止まらない涙を連れていった。


 色鮮やかな花畑。


 静かな、静かな空間だった。澄んだ空から、太陽の光が降り注ぐ。甘い匂いが、刻まれた印ごと胸を焦がしていった。





 アスノが迎えに来た頃には、夕刻になっていた。


 遅くなったと謝ったアスノは、瑠都の目尻が赤くなっていることは気付かないふりをした。その手には、何か握られている。今度は林檎ではない。


 アスノは再び手を伸ばすと、自分が差した花を瑠都の耳の上から抜き取った。桃色の花の行方を目で追った瑠都の頭の上に、持っていた物を置く。


花冠はなかんむり、ですか」


 被る前に少し視界に捉えただけの花冠にそっと触れて、瑠都は首を傾げた。


「子どもの頃に妹のを作った以来だから、下手くそだけどな」


 照れたように視線を逸らしたアスノが、ここより立派ではないが、少し離れた所にも花畑があるのだと教えてくれた。


「帰るか」


 促したアスノの手から、瑠都は先程まで自身の耳の上に飾られていた花を抜き取った。今度はアスノが、菫色の目でその行方を追う。


「どうするんだ」


 無造作に摘んだだけの、たった一輪の花。置いて帰るはずだった桃色を、瑠都は静かに胸元へと引き寄せた。


「これも……持って帰りたいです」


 大事だと、言われているみたいだった。

 アスノが授けた一輪を両手で握る仕草が、とても眩しく映る。


「……そうか」


 向き合ったまま花畑を横にして立つ二人を、茜色が差す。


 瑠都は握った花を顔に近付けた。やっぱり切なくて、どんなものより、愛しい香りがした。

 

 

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