第62話 偽りの日々
ドンララン山は、思っていたよりも大きな山だった。
青々と茂る木に囲まれた村から見えるのは、満天の青空。まさか麓から村のすぐ下まで激しい嵐が起こっていようとは、教えてもらわなければ想像もできなかったろう。
瑠都がドンララン山の山頂近くの村に飛ばされてから、すでに三日が経っていた。
初めて出会った村の住人アスノは、長である父、母、弟との四人暮らしだった。アスノが提案してくれたように、瑠都はそのシルラドゥ家で世話になっている。
一見平穏に見えるこのドンララン山は今、竜の道と呼ばれる雲にぐるりと一周覆われている。並みの者では生きて通ることすら叶わない危険な嵐にも関わらず、突如として現れた記憶喪失の女。なんて怪しい存在なのだろうと、瑠都自身ですら思う。
だがシルラドゥ家の面々は、そんな怪しい瑠都をすんなりと受け入れた。
父フーリと母グレーは共に穏やかな性格で、何か魔法絡みの事件にでも巻き込まれたのかもしれないというアスノの推察を聞いて、哀れんではあれこれと世話を焼いてくれる。弟のタズネは明るい性格で、瑠都によく話し掛けてくれたり、村を案内してくれた。
そして初めて会った時には険しい顔をしていたアスノも、今ではそんな様子を見せることはない。
申し訳ないと、瑠都は思った。これほどまでに良くしてくれる人たちに対して、嘘を
リメルだと、知られてはいけない。例えシルラドゥ家や村の住人が良い人たちであっても、魔法で飛ばされた原因が分からない以上、安易に名乗ることなどできなかった。
──早く、山を下りないと。
その思いだけがずっと頭を占めている。山を下りて、なんとかレスチナールへ帰り着かなければ。
だが、竜の道ができている以上、なんの力も持たない瑠都に帰る術はない。連絡を取る手段だって、未だ見付けられていないのだ。
焦りと共に訪れるのは、皆はどうしているだろうという胸の痛み。きっと、探してくれているのだろう。魔力不足から回復したばかりで、また迷惑と心配を掛けてしまった。
せめて無事だということだけでも知らせたい。だが、どうやって。この三日間、瑠都は堂々巡りの中にいた。
快晴の空の下、瑠都は村の中を一人歩いていた。
瑠都が今着ている服は、アスノとタズネの間にいる長女の物だった。寝泊まりしている部屋も、二十歳で嫁に行ったという長女が昔使っていた部屋だ。
家では、世話になりっぱなしなことを申し訳なく思った瑠都が申し出て、簡単な家事を手伝わせてもらっていた。先程までグレーと一緒に洗濯物を干していたのだが、今日の仕事はこれで終わり、せっかくだから散歩でもしておいでと背中を押されて今に至る。
「ああ、ルルちゃん。こんにちは」
「こんにちは」
擦れ違った住人が声を掛けてくれたので、立ち止まっていくらか言葉を交わす。
村の住人たちは皆等しく、穏やかで明るい人たちばかりだ。恵まれた気候と豊かな土地がそうさせているのだろうか。
記憶喪失ということになっている瑠都を気遣ってくれて、疑いをかけることも厳しい視線を送ることもない。
誰かと出会う度に話し込む。そんなことを繰り返しながら村の中を歩いていると、やがて大きな農園の前に辿り着ついた。
外から様子を窺って、目当ての人物を見付ける。少しだけ迷ったあと、瑠都は中へと足を踏み入れた。
シルラドゥ家は代々、林檎農園を営んでいる。
土には魔法がかけられていて、たくさんの種類の林檎を一年中育てているらしかった。果実そのものや、酒やジャムなどの加工品。様々な品物を市場へと卸しているのだという。
たわわに実った赤い果実をきょろきょろと眺めながら歩き、瑠都は作業している人物の元へと顔を覗かせた。
「アスノさん」
作業していた手を止めて、長身のアスノが瑠都を見下ろした。
「ルル? どうしたんだ?」
言いながら、首から掛けた手拭いで
「お仕事中にすみません。あの、何か手伝えることありませんか」
瑠都の一言にアスノが目を丸くする。一瞬思案する素振りを見せたあと、言葉を濁した。
「そりゃ……手伝ってくれるなら助かるけど」
言いにくそうなアスノに、瑠都はまた申し訳なさが込み上げる。大切な仕事だ、やはり農園のことも林檎のこともよく知らない女が関わらないほうがよかっただろうか。後悔で眉を下げた瑠都の顔を、アスノが覗き込む。
「体は大丈夫なのか」
菫色の瞳は、まっすぐに瑠都を捉えている。胸にじわりと広がる温かさにぎゅっと唇をつぐんでから、瑠都は頷く。
「……全然、大丈夫です」
「あんまり無理するなよ。何が影響して飛ばされてきたのかもまだ分かってないんだ」
笑んでもいなければ、穏やかな瞳をしているわけでもない。心配しているということをおくびにでも出さないアスノの静かな優しさが、瑠都の心に滲んでいく。
「じゃあ、あっちの倉庫に籠があるから、二つ取ってきてくれ」
アスノが顎で差した先に、木の小屋があった。了解を示してから、ここより少し離れた小屋に行くために歩き出す。簡単なお使いだが、頼まれたことが嬉しくて、心持ち足取りが軽くなる。
途中、遠くのほうで作業するフーリとタズネを見掛けた。手を振るタズネに振り返す。
小屋には鍵がかかっていなかった。少し重たい扉を両手で開けると、ぎぃと音が鳴った。薄暗い小屋の中を見渡しながら足を踏み入れる。
「これかな……」
一人で呟きながら、籠を手に取る。他にそれらしき物も見当たらないので、瑠都は二つを重ねて両手で持ち上げた。見た目よりも随分と軽い。
そのまま小屋を出た瑠都の体を、一陣の風が撫でていった。
見上げた先の空は青く照っているというのに、黒い髪と服の裾を揺らした風はほのかに冷たい。やはり雪国が近いからだろうかと、そんなことをぼんやり思った。
瑠都が戻ると、元の場所にアスノの姿はなかった。どこかに移動してしまったのだろうか。
探しにいくべきかと悩み始めた瑠都の背後から、足音が近付いてくる。振り返ると、アスノがこちらに向かってきていた。片手に何かを持っている。
「アスノさん、これで合ってますか」
瑠都のすぐ前までやってきたアスノに、籠を見せながら尋ねる。
「ああ、助かった」
籠を片手で受け取ったアスノは、交換に自身が持っていた皿を瑠都に手渡した。皿の中には、綺麗にくし切りにされた林檎が入っていた。
「昼飯が入ってた皿だけど、ちゃんと洗ったから」
意図が分からずに、瑠都はアスノを見つめながら首を傾げる。
「次の仕事、それの味見」
「えっ」
思わず声を上げた瑠都に構うことなく、アスノは作業に戻ろうと背中を見せる。
「でも……」
アスノと林檎を見比べながら、瑠都は困惑の表情を浮かべる。林檎は蜜がたっぷりと入っていて、おいしそうだ。けれど一応は手伝いにきたのに、働いている人の前で呑気に食べていていいのだろうか。
「それ、うちにある中で一番甘い林檎なんだ」
いいから食べてみろよ。そう言ったアスノに促されて、瑠都はおずおずと一つ手に取ってかじりついた。しゃく、と音が鳴って、香りと甘さが口の中に広がる。
「おいしい……甘いです」
感想を聞いたアスノが、手を止めて瑠都のほうを見やる。遠慮気味にもう一度、おいしいと繰り返した瑠都の目が嬉しそうに輝いているを見て、そりゃよかった、とアスノが笑った。
簡単なものではあったが、色々と手伝いをしてアスノたちと一緒に家に戻った頃には既に夕刻になっていた。
「グレーさん、すみません。すぐに手伝いますね」
瑠都は夕飯の準備を始めていたグレーに慌てて声を掛けて、手を洗う。
「あら、ありがとう。いつも助かるわ」
目尻を下けてグレーが笑う。帰宅して早々、夕飯は何かとグレーの手元を覗き込んでいたタズネが、居間に戻って椅子に座った。
「腹減った~」
「お前、おやつだとか言って持ってった菓子一人で食ってたろ」
大きな声で空腹を告げるタズネに、父フーリが即座に反応する。賑やかな空気を背中で感じながら、瑠都はグレーの側に立った。
「そこの野菜を切ってくれるかしら。大きさは全部一緒でいいからね」
「はい」
頷いて、並べられたいくつかの野菜に視線をやる。よし、と意気込んで包丁を握った瑠都の耳に、居間で交わされる会話が聞こえてくる。
「あ、ウル、来てたのか」
「うん、今日も借りていくの」
「ほんっとに好きだよな~本」
タズネが誰かに声を掛けている。ウル、と呼ばれたその幼い声の主を瑠都は知っていた。
「ルルちゃん」
声の主がひょっこりと台所に顔を出す。瑠都は一旦手を止めて振り返った。
「ウルくん、こんちには」
「こんちには!」
ウルは隣の家の住人だ。本を読むのが大好きな少年で、この家の一階にある書庫から頻繁に本を借りていくのだという。アスノたちの祖父も同じような本の虫で、世界各地の書物を集めていたのだと、ここで目覚めた日にアスノに教えてもらった。
ふわふわの髪の毛を揺らしながら、ウルが瑠都の足元までやってくる。大きな本を二つ抱えたウルに視線を合わせるように、瑠都は包丁を遠くに置いてからしゃがんだ。
「あのね、あとでまた一緒に本を読んでほしくて……。いい?」
「うん、もちろん」
「やったあ」
すぐに頷くと、ウルは本を抱き締めながら喜んだ。
三日前の夜半、村の中で倒れていた瑠都を見付けたのは、アスノとこの少年、ウルだった。
初めて対面した時には、興味津々に、けれどどこか用心深くアスノの後ろから瑠都を見上げていたウルだったが、そのあとは割とすぐに心を開いてくれた。
ルルとウルで名前が似てるね。そう言いながら嬉しそうに手を握られた時にざくりと刺さった罪悪感。その胸の痛みを、瑠都は今でもよく覚えている。
グレーが、ウルに声を掛けた。
「今日の本はどんなお話なの?」
「今日は、大きな蛇を退治しにいく話と」
説明しながら、ウルが二人に表紙を見せた。大きな本なので持ち変えるのが少し大変そうだ。だがその表情は楽しそうなので、瑠都とグレーは微笑ましく見守る。
「ブルーナピに来たリメル様の話だよ」
もう一つの本の表紙を向けられて、瑠都の心臓が音を立てた。
「ブルーナピのリメル様ね。何代前の方だったかしら」
鍋をかき混ぜながら考えるグレーと、本を向けながら答えるウルと。どちらの声も、膜の中にいるみたいにくぐもって聞こえる。
表紙に描かれた絵には、花を纏うリメルの姿があった。いつかのリメル、瑠都と同じ立場にあって、違う人生を歩んだ異世界の人。
今は目の前にウルたちがいるというのに、身の内に仕舞いきれない焦りと不安が再び頭をもたげようとする。いけない、と自分に言い聞かせた瑠都の名前が、ぼんやりと耳に届く。
「ルルちゃん?」
「……ん?」
今は、どうしたってルルであらなければ。自分にそう言い聞かせながら、目の前のウルに応えるように首を傾げて笑んでみせた。
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