第61話 竜が巡る山

 

 

──眩しい。


 朧気にそう感じながら、瑠都は目を覚ました。


 瞼を開いた先に見慣れない天井があって、少しの間思案したのち勢いよく体を起こす。


「ここは……」


 小さくこぼして、辺りを見渡した。家具が取り揃えられた木造の部屋の中は質素ながらも清潔感があって、瑠都の他には誰もいない。今まで横になっていたベッドを見下ろす。服装はあの時と同じ、若草色のドレスのままだ。


 瑠都はベッドの上で座ったまま、自身の右手を見た。

 あの時、客間でネックレスに触れた瞬間、急に眩しい光が放たれたのだ。咄嗟に瞼を閉じた瑠都の体を、瞬く間に強烈な光が包んでいった。瑠都が覚えているのはそこまでだ。


(そうだ、メイス)


 あの場にはメイスもいたのだ。メイスは、どうなったのだろう。光に巻き込まれやしなかっただろうか。無事、だろうか。


 不安が胸を渦巻く。色々なことに頭が付いていかない。どうしよう、小さく呟いた声は一人きりの部屋の中に吸い込まれていった。


 いつまでもベッドの上で大人しくしているわけにはいかない。まずはここがどこだか探ろう、そう決心してベッドから立ち上がる。



 ネックレスには、魔法の類いでもかけられていたのだろうか。触れた瞬間に発動する、そんな魔法が。魔法に詳しいわけではないので、実在するのかは分からない。けれど、突如として光を放ち、そのあと見覚えのない場所にいたことだけは確かだ。


 部屋の中には、ここがどこだか分かるような物は何もなかった。瑠都は次に、光が入ってくる窓へと近付いた。


 瑠都が覚えているのは、夜の客間での出来事まで。窓から入ってきている光は、太陽から降り注ぐものだった。日付が変わっている。その事実に気が付いて、瑠都の顔色が更に悪くなる。


 ここは、どこだ。なぜここにいる。いくら考えても答えは出ない。それでもぐるぐると巡る思考が、焦りと不安をより募らせていく。


 窓の外に見えるのは、青い空と生い茂る木々のみ。なんの情報も得られない窓枠から、一歩下がる。


 その時、背後で部屋の扉が開いた。


 驚いて振り返った瑠都の視線の先に、体格のいい一人の男が立っていた。


「……目が覚めたのか」


 男も、瑠都が起きていることに驚いたらしい。赤銅色の髪色をした男は一瞬動きを止めて目を丸くした。おそるおそる頷いた瑠都を映す菫色の瞳は、およそ友好的とは言えない。瑠都の出方と様子を窺っていることを隠そうともしない視線に、瑠都はそっと身を固くする。


「どうやってここに来た?」


 単刀直入に尋ねた男に、瑠都の瞳が揺れる。


 どうやってここに。男は確かにそう口にした。つまり、瑠都をここに連れてきたのはこの男ではないということだ。


 やはり、魔法のせいなのだろうか。


「あの、私──」


 言いかけて、瑠都は口をつぐんだ。


 正直に言ってもいいのだろうか。リメルであることは明かさずとも、魔法に触れて別の場所に来てしまった可能性があるなどと。信じてもらえるかも分からない。それに、うまく言葉を紡げる自信もない。どこからかリメルだと知られてしまう恐れもある。


 瑠都は最近フェアニーアに聞いた話を思い出していた。リメルやリメルテーゼを利用しようと考える者がいるかもしれない、と案じていたことを。


 目の前の男は、どうなのだろう。険しい表情をしている男の様子を見るに、この状況で怪しいのはむしろ瑠都のように思える。


 だが、誰が聞いているかも分からない。周りに知っている者がいない今、自分を守れるのも自分しかいないのだ。


「私……覚えてなくて」


 瑠都の返答に、男が眉を寄せる。


「覚えてない?」


「はい。あの、ここはどこですか」


 今度は瑠都がそう尋ねた。男は一瞬考える仕草を見せたあと、淡い菫色にもう一度瑠都を捉えてから教える。


「ここはドンララン山の山頂近くにある村だ」


「ドンララン、山……」


 繰り返した瑠都は、その名をどこかで見たような気がして考える。けれど混乱する頭ではうまく答えを導き出せなかった。口を閉ざしてぎゅっと手を握り込む瑠都の様子に、男は幾分か口調を和らげる。


「……記憶がないのか」


 顔を合わせたまま、男が一歩近付いてきた。薄く口を開いたものの、答えることができない瑠都を見て頭を掻く。


「名前は?」


「名前、は……」


 状況が分からない以上、この場では記憶を失っていると、そういうことにしておいたほうが都合がいいのかもしれないと逡巡しゅんじゅんする。

 名前は、どうなのだろう。すべてを忘れている場合も、いくつかの事柄だけは覚えている場合だってあるだろう。

 ひとまず、リメルの名を知っている可能性があるので、本名はなしだ。


「……ルルです」


 今後再び聞かれた時に、咄嗟に本当の名を答えてしまいそうだった。ならばあらかじめ別の名を、と思わず公園で子どもたちに名乗っている名を口にする。


 名乗った途端に、別世界に来てしまったような孤独感が更に色濃く瑠都を支配した。公園も、館も、すべての物が遠くなってしまった気がした。


 いったい何が、起こっているのか。答えの出ない問いをもう一度巡らせる。


 瑠都の顔色を見て、男は小さく息を吐いた。


「怖がらせたな……悪かった」


「え?」


 降ってきた意外な言葉に、瑠都は声を上げる。


「着いてきてくれ」


 男に促されて、瑠都はなんとか頷いた。背を向けた窓から降り注ぐ太陽の光を振り返る余裕もないまま、動き出した男に続いて一歩を踏み出した。





 瑠都がいた部屋は二階にあった。部屋を出て、男と一緒に一階へと下りる。そこへ、一人の女が駆け寄ってきた。


「まあまあ、目が覚めたのね」


 明るい笑みを浮かべた壮年の女は、瑠都の顔を覗き込みながら肩に触れる。


「気分はどう? 痛いところは?」


「大丈夫、です」


 矢継ぎ早に質問されて、目を丸くした瑠都はぎこちなく答える。


「本当はもっと楽な格好で寝かせてあげたかったんだけど。勝手に着替えさせられるのも嫌かと思って、そのままだったのよ。ごめんなさいね」


「いえ……ありがとうございます」


 むしろ、着替えていないため胸に咲いている花の印を見られずに済んだ。どきりと跳ねた心臓に気付かれないように、瑠都は息を詰める。


 瑠都と女が会話するのを見ていた男が、歩を進めて椅子に座った。大きなテーブルを挟んだ対面の席を指して、瑠都を呼ぶ。


「ルル、こっち。座ってくれ」


「は、はい」


 自分で名乗ったはずなのに、なんの戸惑いもなく紡がれた音に驚いて身を固くした。言われるまま、瑠都は男と向き合う席に座った。


「母さん、何か飲む物を」


「そうね。温かい物がいいかしら。お湯は沸かしてあるのよ」


 最後の言葉は笑顔と共に瑠都に向けてから、女は隣の部屋へと消えていった。


 二人きりになり、沈黙が下りる。瑠都は辺りを見回した。二階の部屋と同じ、木造の室内は生活感がありながもきちんと整えられている。彼らの住まいだろうか。


「昨日の夜、外で倒れてたんだ」


 掛けられた声のほうへ顔を向ける。男の菫色の瞳は、二階で見た時ほど剣呑な雰囲気を醸し出してはいない。


「随分と遅い時間だったし、見ない顔だから驚いた。本当に何も思い出せないか」


 むしろ、その声色は瑠都の不安感を刺激しないように柔らかささえ帯びているように思える。悪い人ではない。直感でそう感じながらも、瑠都はやはり正直に話すわけにもいかなかった。


「はい……」


 小さく頷いた瑠都に男は、そうか、とだけ返した。何かしら考え始めたらしい男に、意を決した瑠都が話し掛ける。


「あの、ここはどの辺りなんですか」


 頭はまだ混乱している。このドンララン山がいったいどこにあるのか、未だ思い出せていなかった。すぐにジーベルグへと、レスチナールへと帰れる距離なのだろうか。


「ここはジーベルグの国境近くにある山だ」


「ジーベルグ」


 聞き慣れた国の名に、瑠都はいささか安堵する。国を超えてはいないようだ。それならば自力で帰れるかもしれない。早く、早く戻らなくっちゃ。急く気持ちを隠すように唇を結ぶ。


「地図があったほうが分かりやすいかしら」


 隣の部屋からトレイを持ってやってきた女が、男と瑠都を見比べながら言った。


「ちょっと待っててちょうだい」


 湯気が立つ二つのカップが乗ったトレイをテーブルの上に置くと、女はまた別の部屋へと入っていく。そして丸まった紙を片手に持ってすぐに戻ってきた。


 紙を結んで止めていた紐をほどく。テーブルの上に広げられたのは大きな地図だった。瑠都は身を乗り出すように覗き込む。ジーベルグがある、シマザラーガ大陸の地図だった。


「ここよ。ここがドンララン山」


 女が地図の上を指差す。ジーベルグの北側に置かれた指の先には、確かにドンラランと記載されていた。地図に釘付けになる瑠都に、男が教える。


「東の大国ジーベルグの最北にある。ドンラランを越えて少し行けば、もう北の大国マドゥニネだ。ああ、ルルは記憶がないらしい」


 黙って聞く瑠都の側で首を傾げる女に向けて、最後に男が付け加える。


「まあ、そうだったの。大変だったわね」


 心配そうに眉を下げた女が、慰めるように瑠都の背を撫でた。


「国の名前は覚えているかしら。ええと、そうね。ジーベルグは最近リメル様が降り立った恵まれた国よ。ずっと昔から安定して繁栄している豊かな地」


 地図の上、ジーベルグをぐるぐると指で囲みながら説明する。その指は徐々に北へ上がるとドンララン山を越え、今度はマドゥニネという名の上へ辿り着く。


「マドゥニネは一年のほとんどが雪で包まれた静かな国。王族の方も滅多に姿を現さないし、あまり他国の者を寄せ付けない、謎が多い地。呪われた国なんて言う人もいるけど……」


「呪われた国?」


「ええ。遥か昔に大きな争いを起こして、天の怒りに触れた国なの」


 天の怒り。徐々に冴えてきた頭の中で、瑠都はマドゥニネという名を繰り返す。


 そうだ、マドゥニネ。遥か昔、いにしえのリメルが自ら命を絶ち、魔法が隠れる原因を作った激情の王が治めていた国。それ以来、リメルが訪れたことがないという、天罰を受けた大国。


 凍えるような寒気が身の内を巡った気がして、瑠都は思わず片手で口元を隠した。


 瑠都の様子に、男と女が顔を見合わせる。静かな空気が流れる中、沈黙を破ったのは瑠都だった。


「……ジーベルグのほうに、降りようと思います。道を教えていただけませんか」


 震える声色を抑えて頼んだ瑠都を見て、男は言いづらそうに口を開く。


「それはできない」


 拒否を示した男と、視線を合わせる。


「……いや、教えることはできるが、どっちにしたって今は山からは降りられない」


「どうして、ですか」


「今は竜の道ができてるからよ」


 瑠都の疑問には女が答えた。段々と生気を失っていく少女をいっそ哀れみながら、なるべく刺激しないようにと意識して。


「麓からこの村の少し下まで、雲がぐるりと山を一周覆っていてね、それをこの辺りでは竜の道と呼んでいるの。中は雷と風が激しく吹き荒んでいて、その雲が出ている間はとても通れるような状態じゃないわ」


「ひどい嵐だ。余程の魔法でも使えたら別だろうが……普通なら無事では済まない。迷うどころか死ぬ可能性のほうが高いからな」


 降りられない、ということは登ることもできないということだ。だからこそ余計に、ここに瑠都がいるのはおかしい。


 男が瑠都を怪しんで険しい顔をしていた訳が、ようやくはっきりと理解できた。常ならば辿り着くことすら困難な場所に、突如としてたった一人で現れたのだから、危機感を抱いて当然だ。


「竜の道は……嵐はいつみますか」


「分からない。竜の道は不規則に現れるものなんだ。ただ雲の様子を見ると、もしかしたらあと二週間はこのままかもしれない」


──戻れない。


 その事実に、打ちのめされる。



 血相を悪くした瑠都は、今にも再び倒れてしまいそうだ。男は、落ち着くからと茶を進める母親と、言われるままぎこちなくカップに触れた瑠都を見比べた。


(……本当に、意図せずここに来たみたいだな)


 男には、この村を守る義務がある。良からぬ者である可能性も考えて探ってみたが、どうやら杞憂だったらしい。

 服装から見るに、どこぞの良家の令嬢だろうか。ただの町娘ではないように、男には思えた。


「俺はアスノ。アスノ・シルラドゥ」


 名乗ってみれば、瑠都はカップから男、アスノへと視線を移した。その黒い瞳が不安げに揺れるのを見て、アスノの胸が小さく痛んだ。


「……この村の長の息子だ。竜の道がなくなるまで、ここにいていいから」


 だから、安心してほしいと。そう最後まで言い切ることはできなかった。記憶を失くしているのに、そんな容易い言葉で安心できるはずもないだろうと思ったからだ。


 代わりの言葉を探す。頭に浮かんだことを一旦は音にしようとするが、結局アスノは口をつぐんだ。あとは気遣ってあれこれと話し掛ける母親に任せることにして、もう一つのカップを手に取る。


 ここにいていいから、思い出せるように手伝ってやるから、泣くなと。

 先程思い浮かべた言葉を、自分の中だけで反芻はんすうする。泣いてもいない少女に向かって、言うべきではないだろう。


 でも確かに、あの瞳の向こうには、悲しみが見えたんだ。



 厄介なことになったと、昨晩と同じことを考える。含ませた意味合いが変わったことに自分では気付かないまま、アスノは温かい茶を一口飲み込んだ。

 

 

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