第58話 誰が為に高鳴るか

 

 

「……泣いてないですよ」


 一拍置いてから、瑠都は小さく否定を口にした。嘘はいていない。ここに辿り着くまでも、今だって、瑠都からは一滴の涙だって流れ落ちてはいなかった。


 ジュカヒットは黙ったままで手を上げると、瑠都の頬に触れた。いつかの夜と同じ、温かな感触。親指で目尻をなぞった動作が、まるで流れてはいない涙を拭っているように思えて、瑠都の瞳が揺れる。


 優しい、手付き。本当に溢れてしまいそうな気がして、瑠都は誤魔化すように別の話題を探す。


「あの……ジュカヒットさんは、リメルフィリゼアになった時どう思いましたか」


 尋ねてから、瑠都はしまったと思った。こんなこと、聞くべきではない。慌てて訂正しようとした瑠都より先に、ジュカヒットが口を開く。


「やっと見付けたと思った」


 その不思議な物言いに、瑠都はジュカヒットの闇夜のような漆黒の瞳を見つめる。静かに見下ろすジュカヒットもまた、逸らさずに瑠都を射抜いていた。引力があるかのように惹き付けられた視線が、絡まったまま離れようとしない。


 見付けた、それは。


「リメルを……ですか」


 瑠都は無意識にそう溢していた。これ以上触れてはいけないと思うのに、戸惑いの正体を暴いてしまえと、身の内の本能がそうさせたかのように。


「いや……」


 視線は絡めたまま、ジュカヒットは瑠都の頬からゆっくりと手を離した。


「運命を」


 頬に残る僅かな熱を感じながら、瑠都は息を飲んだ。運命、と頭の中で繰り返した瑠都に構わず、ジュカヒットは続ける。


「落ちてくるのを見た時から、リメルフィリゼアに選ばれるだろうという確信があった」


 瑠都はたくさんの花びらに包まれながら、この世界へと落ちてきた。あの場には、のちにリメルフィリゼアとなる六人が揃っていた。


 しかし、あの場では花の欠片は咲かなかったはずだ。リメルフィリゼアたちの胸に想いの証が刻まれたのは、瑠都が目覚めたあとだった。それなのに、確信があったというのはどういうことなのか。


「……ずっと、この時を待っていたんだと思った。欠片を、証を抱くために……守るために、俺はこの世に生を受けた。巡り合う、運命だったんだと」


 確信は、落雷を受けたかのような衝撃と共に訪れたわけではない。穏やかなさざ波がやってきて、心ごと体を包んだみたいに、ああそうだったのかと、点と点が結ばれたかのようにに落ちたのだ。


 きっと、生まれる前から知っていた。


 それを思い出しただけなのだ。天から授けられた運命を、約束していた巡り合うべき人を、やっと見付けた。


「欠片が咲いた時に、胸に熱が灯った。あの熱はどこから来て、どこへ帰っていったのか考えていた。天から与えられて、天へと帰っていったのか。それとも……心の内から来て、もう一度心に強く焼き付いたのか」


 リメルフィリゼアたちに欠片が咲いた時、瑠都の胸にも、焼け付くような、焦げるような熱が灯った。

 同じ場にいたジャグマリアスやフェアニーアも胸を押さえていたから、同じように確かな熱を感じていたのだろう。


 リメルとリメルフィリゼアだけに許された、特別な証。天が定めた伴侶だということを示した、桃色の鮮やかな花と欠片。


「答えは後者だ」


 定めたのは天でも、その想いは自身の内からやってきたと。躊躇いなく言い切ったジュカヒットに、瑠都はもう一度尋ねる。


「……あの熱は、元々心の内にあったもの、なんですか」


 その声はやはり消え入りそうなほど小さかったが、ジュカヒットは今度もそれを聞き逃さなかった。


「俺の心はもう、とうの昔に捧げてある。天でもなく、リメルでもなく……目の前の、唯一に」


 言葉を失くした瑠都の喉が震える。そこから漏れ出しそうになるのが、嗚咽だったのか衝動だったのか、すがるような祈りだったのか、瑠都には分からなかった。


(だって……そんなのまるで、)


 まるでジュカヒットが、瑠都のことを。


 認めてはいけない気がして、距離を取るように反射的に一歩後ろへと下がる。天井に空いた穴の真下、瑠都の体が細かい雨にさらされた。


 ジュカヒットは瑠都の手を取って、自身の元へと引き寄せた。もう片方の手を腰に回したジュカヒットを見上げる瑠都の頬を、一筋の雨がなぞっていく。


 二人の間にあった距離がなくなる。触れた体が熱い。柔らかくも燃えるような熱を宿していたのがどちらだったのか、あるいは双方だったのか、瑠都には考える余裕もなかった。



 認めてしまったら、どうなるんだろう。


 ジュカヒットの想いを、確信しているという運命を。認めてしまったら、享受してしまったら、きっともう、この力強い手を離せないと思った。


 瑠都の瞳がまた揺れる。

 

 その潤んだ瞳から読み取った躊躇いと恐れと、渇望を、ジュカヒットはどんなふうに捉えただろう。


「……ジュカヒットさんは、優しいから」


 精一杯に理由付ける。それは多分、自分を守るためだった。手が離れた時に、離れていってしまった時に、傷付かなくてもいいように。


「……それだけだと思うか」


 ジュカヒットは、握っていた瑠都の手を自身の胸元に触れさせた。触れた先、漆黒の軍服の下には花の欠片があるはずだ。手から、鼓動が伝わる。その高鳴りに触れている瑠都の手を、ジュカヒットは上から握り締めた。


「これほど熱く、たぎるものの答えが、それだけだと思うか」


 いつも通りの静けさを保ったまま、けれどジュカヒットのその声色はどこか乞うようでもあった。渇望を抱いたのは決して、瑠都だけではないのかもしれない。


 重なる手に力が入る。鼓動が、より近くなった。


「答えはいつも、ここにある」


 見つめ合う。絡まりあったまま逸らせない視線が、互いに僅かな熱を灯していた。



「──誰かいるのか」


 唐突に、声が割り入った。すぐに庭師のタツが顔を覗かせる。


「ルト様、とジュカヒット様じゃないですか。これは珍しい。あれ、マリー様はご一緒じゃないんですか」


 辺りを見渡しながら、タツが二人の元へと近付いてくる。


 ジュカヒットと瑠都の体が離れた。離れたはずなのに、体が熱い。ジュカヒットにも、タツにも何か言わなくてはと思うのに、瑠都はうまく言葉にすることができなかった。


「……今日は夕食までには帰る」


 ジュカヒットはそう言い残すと、踵を返してあっという間に植物園から立ち去ってしまった。


 瑠都はつい先程までジュカヒットが触れていた手を、余韻を閉じ込めるように自身の胸元で握り込んだ。漆黒に魅せられたまま動かない瑠都を、タツが不思議そうに見つめる。


 ガラス越しに、日差しが降り注いだ。キラキラとした輝きが植物園に落ちたことに気が付いて、瑠都は空を見上げた。


「雨が……」


「ああ、んだみたいですね」


 ただの通り雨だったと、タツが言った。


 青く澄んだ空が見える。覗いた太陽の光がガラスに反射して植物園全体を照らす。打って変わった眩しさに、瑠都は目を細めた。


 雨はいつか必ずむ。


 人々はそう言って太陽を待ち望むけれど、天と地上を繋ぐ雨だっていつも、そっといだきたくなるような静けさと優しさを、連れてくるのだ。

 

 

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