第57話 願い事は唱えないから
マリーからもらった植木鉢は、瑠都の自室に飾ってある。
一輪だけで咲き誇る黄色の花はすでに満開で、けれどそのまま時を止めているかのように変化を見せない。いずれ瓜二つの対なる花と繋がり、その持ち主との会話が可能になるという、特別で、不思議な花。
魔法が織り込まれたそれを眺めながら、瑠都は毎日考える。
対なる花は今どこにあるのだろう。どんな人の元にあって、いずれ誰かに渡るのか。もし本当に繋がったとして、リメルとも明かさない瑠都と友達になってくれるだろうか。形としては少し変わっているけれど、特別で、不思議な友達に。
そうしたら、真っ先にマリーに報告しよう。きっと満開の笑みで喜んでくれるであろう大輪に、もう一度必ず、ありがとうと伝えるのだ。
住まいである館と、豪壮なるジーベルグ城。二つを繋ぐ道、囲む森。普段から瑠都が一人で行動することを許されているのは、それらのみである。
瑠都は今、その中の一つジーベルグ城の客間で、アヴィハロと共に過ごしていた。なぜそうなったかというと、時は少し前に遡る。
そもそも城に来たのは、マリーとの約束があったためだ。普段から暇を持て余している瑠都は、いつものように時間よりも早く館を出た。ちなみに、瑠都の体調を心配したフーニャが一緒に行くと最後まで申し出ていたが、なんとかお願いして一人で出発することが許された。これ以上世話を掛けることなどいたたまれないので、瑠都はほっと安堵の息を吐いたのだった。
約束の時間まで、植物園で過ごそう。そう決意しながら城までの道のりを歩く。
今日は庭師のタツはいるだろうか。そういえば、あのガーベラに似た黄色い花の存在をタツは知っているのだろうか。
(マリーのことだから、タツさんにはもう報告してそう)
魔法が織り込まれた花の存在を、嬉しそうにタツに語るマリーの姿がありありと想像できる。瑠都は人知れず笑みを溢した。
城に辿り着くまでには、いつもよりも時間を有した。道から逸れて森の中を散策したりしながら、ゆっくり歩いていたためだ。何を隠そう、瑠都は暇なのである。
城に着くとすぐ、勝手知ったる植物園へと向かう。その道中で、アヴィハロとばったり出くわしたのだった。
なんでも、今日も師である占者キィユネの付き添いで城にやってきたらしい。スティリオ王との面会中、少しの間だけ席を外すように言われたアヴィハロもまた、暇を潰すために城の中をぶらりと歩いていたのだという。
「……元気そうで安心した」
呟くように掛けられた言葉に、瑠都は近頃自身に起こった出来事を、アヴィハロが把握していることを知る。
占者として様々なことを予言、予期してきたキィユネは、この国にも大きく関わりがある。瑠都が過去のリメルの中でも、より強大なリメルテーゼを持っていることは、スティリオの判断で二人にも知らされた。知っておいたほうが、視えることも、その時に理解できる事柄も増えるだろうと考えたのだ。何かあった時に、天の啓示によっても瑠都の力となれるように。
「うん、すっかり元気だよ」
答えながら笑んでみせる。そのあと二人は幾らか言葉を交わした。
「じゃあ」
「うん、また」
そう挨拶を交わしてすぐに別れるはずだったが、たまたま通りかかったマリー付きの侍女がそれを引き留めた。
「これはルト様とアヴィハロ様ではありませんか。あら、この様な所で立ち話などせずにどうぞ部屋をお使いください。すぐにご用意いたしますわ!」
二人は勢いよくそう言った侍女に、空いていた客間へと押し込まれた。お茶を用意するために飛び出していった侍女が消えた扉を見つめながら、その勢いがなぜかマリーを思い起こさせる、なんて瑠都は思った。
「……仕えてると、主人に似てくるんだ」
瑠都の横で、アヴィハロも一人納得したようにぽつりと溢した。
そうして二人は今に至る。
瑠都はマリーとの約束が、アヴィハロはキィユネを迎えにいかねばならず、それほど長くは過ごせない。
だがせっかくの侍女の好意を無駄にすることもなかったので、二人でお茶を嗜む。その中で、近頃あったこと、夢の話、町の様子など、とりとめのない会話を交わす。
元来の二人の性格もあって、絶えず大きな笑い声が上がるような賑やかさはなかったが、穏やかな時間が過ぎていった。
『視える』ことを除いても、アヴィハロはとても物知りだ。知識の豊富さに瑠都が瞳を輝かせたり感嘆したりするのを、いつもなんともないような顔をして静かに受け止めている。その分、自分のことも多くは語らないけれど。
同い年とは思えない落ち着きを持ったアヴィハロに、こっそりと尊敬の念を抱くのも毎度のことだ。
マリーが太陽ならば、アヴィハロは月のようだと、瑠都は思う。心地よい静寂の中、けれど見上げれば、確かに寄り添うようにそこにいる。対極のようでいて、どちらも瑠都にとっては欠かせない大切な存在だ。
「そろそろ行かないと」
幾分か経った頃、アヴィハロがそう告げる。
「あ、もうそんな時間か」
元々長くは居られなかったので、本当に束の間のお茶会だった。立ち上がったアヴィハロに瑠都も続き、二人で並んで扉まで向かう。扉を開けたアヴィハロが振り返ったので、瑠都が今日二度目の挨拶をする。
「じゃあ、また。キィユネさんにもよろしくね」
「うん」
そのまま出ていくものだと思ったのだが、アヴィハロは不意に目を伏せると黙り込んでしまった。瑠都が首を傾げると同時、アヴィハロはその灰色の瞳を合わせないまま呟くように言葉を落とす。
「……黒」
「黒?」
意味するところが分からずに繰り返す。
「ごめん、なんでもない」
気にしないで、じゃあ。そう残して、アヴィハロは去っていった。
「ラッキーカラー、かな?」
それならば、そうと言ってくれそうなものだが。少しの疑問を残しつつ、瑠都は口の中でもう一度、黒、と繰り返した。
そのあと、瑠都は再び植物園へと向かっていた。約束の時間は過ぎているのだが、マリーの先の用事が長引いているのだという。先程の侍女が、客間へとやってきて申し訳なさそうに教えてくれた。
植物園に行っているので気にしないで、とマリーへの伝言を頼み、瑠都は客間をあとにした。
城の中を、顔を知っている人と挨拶を交わしたり、そうでない人にも会釈をしたりして進んでいく。
回廊までやってくると、歩む速度を落として景色を眺める。回廊には他に誰もいない。瑠都の足音だけが響く空間に突如として、ぽつりと音が鳴った。
(雨だ……)
城にやってきた時には空は青かったのだが、いつの間にかどんよりとした雲が覆っている。細かな粒が落ちて地面に消えていくのを、回廊の中から眺める。
このまま雨脚が強くなるのだろうか。帰る頃には止んでるといい。そんなことをぼんやりと考えながら歩いていたものだから、数歩先で瑠都の姿を認めて立ち止まった人物がいることに気が付かなかった。顔を外に向けたまま、瑠都はその人物の胸に飛び込むことになる。
「わ、」
突然の緩い衝撃に、思わず目を瞑る。誰かにぶつかったのだ、そう理解して慌てて離れると顔を上げた。
「ごめんなさ、い」
瑠都が発した謝罪は、ぶつかった人物を見て思わず勢いを失くしてしまった。
「……エルスツナさん」
白いローブを纏った見知った姿に、思わずその名が口から漏れる。
エルスツナは眉間に皺を寄せたまま、黙って瑠都を見下ろしていた。表情からは、いつもよりも数段不機嫌であることが伝わってくる。
なぜ不機嫌なのか、理由は瑠都にも容易く推測できた。魔力不足が発覚してからというもの、瑠都と会うのを皆に止められていたせいだ。
瑠都が部屋の外に出るようになってからは、ちょうどエルスツナが仕事で数日家を空けていたため、今の今まで会う機会がなかったのである。
こんなところで、ばったり会うなんて思ってもいなかった。周りには誰もいない。雨音だけが響く回廊で二人、無言のまま向き合う。落ちた沈黙は、アヴィハロの時とは違ってどこか重たい空気を孕んでいた。
「もう出歩いてるのか」
まるで瑠都が引き込もっていたみたいな冷たい物言いに、一瞬押し黙る。
(まあ……引き込もってたんだけど)
言い返すこともできないので、瑠都は小さな声で返事をする。
「なぜ魔力が足りていない可能性があると言わなかった」
「……ごめんなさい」
真っ先に聞かれると思っていたこと。予想通りの質問に、瑠都は素直に謝罪を口にした。
「調査していることは知ってるだろう、魔法に関することは必ず報告しろ」
「……はい」
指摘されたように、魔法員であるエルスツナが、リメルテーゼの謎を解き明かしたいと調べていることは知っている。抱いた疑念は、真っ先に打ち明けるべきだったのかもしれない。
なぜ瑠都が自分の中だけに秘めていたのか、理由はエルスツナにとってはどうだっていいのだ。隠されていたということだけが、エルスツナの中にある事実。眉を顰めたまま紡がれる言葉に反論する余地もなく、瑠都はただ真正面から受け止めた。
「ぬいぐるみは動いたのか」
渡されてから何度目か分からない問い。いくら問われようと、やはり答えは変わらない。
「いえ……」
消え入りそうな声に、エルスツナがますます
「リメルテーゼが強大ならなぜ動かない。やはり条件だけでなく、何か他の魔法も関係しているのか……」
エルスツナは難しい顔をしながら顎に手を当てて、一人で考え込み始める。その前でじっと佇む瑠都は、思っていたよりも質問攻めに合わなかったことに安堵していた。やはり、すぐに会わなくて正解だったのかもしれないとこっそり思う。
あれこれと推測する、呟くようなエルスツナの声。聞きながら、瑠都はそっと視線を落とした。
エルスツナの瞳にはいつだって、瑠都が持つリメルテーゼと、そこに秘められた可能性しか映っていない。
本当に、魔法が好きなんだ。
魔法や、魔力や、リメルの謎が。研究熱心で
そんなエルスツナに、瑠都はいったい何をしてあげられるというのだろう。託されたぬいぐるみも動かせない、リメルテーゼを自由に駆使して魔法を使うこともできず、議論さえ碌にできない、役立たずのリメルが、できること。
──あなたは昔から、誰かの役に立つようなことなんて、なんにもできないんだから。だったらせめて人に迷惑をかけないように心掛けなさい。
頭の中に、いつかの母の言葉が甦る。
だめだと、これ以上重ねないようにと意識する度、エルスツナの声が聞こえなくなって、雨音だけがいやに響く。
ふと、瑠都の頭上に影が落ちた。
反射的に顔を上げた瞬間にはもう、エルスツナの唇が瑠都のそれに触れていた。
開かれたままの空色の瞳が、すぐに離れていく。
「……何を……」
体の中を巡る魔力の熱さを感じながら、呆然とする瑠都の口から無意識に言葉が滑り落ちる。
「魔力の交換以外に何がある。動かないから魔力不足を起こしているのかと思うだろう」
なるほど、確かにリメルテーゼの量が増えている。そう言いながら、エルスツナは流れ込んできたリメルテーゼを確かめるように、自身の手を一度ぎゅっと握り締めた。
それは、初めて手を握って魔力を交換した時とまったくの同じ動作だった。
──ああ、本当に、なんでもないんだ。
エルスツナにとったら、手を繋ぐことにも口付けをすることにも、大差なんてない。それはただの魔力の交換の方法で、そこに一片の感情だって乗ることはない。
分かっている。そんなことは当たり前だと分かっているはずだ。それなのに、胸が、痛い。
「怒ってるのか」
「え……」
エルスツナが、唐突に言った。
どんな顔をしていたのか、自分では分からない。まっすぐに見据える空色から逃げたくて、瑠都は咄嗟に視線を逸らした。なんとか言葉を紡ごうとするのに、胸から迫り上がる衝動がそれを許さない。
「怒って、ません」
やっとのことで漏れ出た声は、微かに震えていた。なんて、情けない声色。考える度に瑠都の胸がまた痛みを増す。だめだもう、これ以上ここにいたら、きっと。
「じゃあ、」
エルスツナが再び何かを言い掛ける。瑠都はその言葉を待たず、気付いた時には背を向けて駆け出していた。
これ以上ここにいたら、聞いてしまったら、泣いてしまうと思った。そうしたらエルスツナは、今よりずっと呆れて、また瑠都から離れてしまうんだ。
どこを通ったのか、誰かと擦れ違ったのかさえ覚えていない。瑠都はいつの間にか違う道を駆けて、植物園へと辿り着いていた。
乱れた息を整えながら、ゆっくり中へと進む。
ガラスでできたドーム型の植物園は、天候も相まって昼間なのにどこか陰っている。中には誰もいない。静寂の中に差し込む雨音と、花から香る甘い匂い。
やがて中央にある屋根がない場所へと着くと、瑠都は空を見上げた。ガラスの天井に空いた丸い円から、いつもとは違って細かい雨粒が落ちてくる。濡れている円のすぐ側に立つと、跳ね返った雨粒が微かに足に触れた。
エルスツナから、逃げてきてしまった。
怒っているだろうか。やっとのこと部屋から出たと思ったら、話も聞かずに去っていったことを。
吐いた息が、まだ微かに震えている。逃げたのはもしかしたら、情けない自分からだったのかもしれない。そう考えながら、瑠都は小さく唇をかんだ。
出会った時からずっと、エルスツナの瞳に瑠都自身が映ったことはない。映るのはいつだって、リメルという異質なものだけだ。そんなことは充分に理解している、それが当たり前だと納得しているはずだった。
それなのに、どうして胸が痛むのか。
怒ったわけではない、憤ったわけでもない。
ただ、悲しかったのだ。
瑠都はエルスツナにとって、リメル以上にはなり得ない。その事実を容赦なく突き付けられた気がして、ひどく悲しかったのだ。
(もし、もしリメルテーゼが自在に使えたら──)
そうしたらエルスツナは、瑠都を見てくれるだろうか。呆れたりせずに、いつもとは違う、笑ったり喜んだりする顔を、見せてくれるのだろうか。
考えて、すぐに自分で打ち消す。
一緒だ。元いた世界で、父や母に抱いていた浅ましい感情と、エルスツナに感じる気持ちは、やはりよく似ている。
雨音だけが、静かに響く。
こんな時、夢の中ではいつも銀色の狼が側にいてくれる。何も言わない、何も聞かないけれど、いつも瑠都だけをまっすぐに見ている。夢の中だからと子どもみたいに甘える瑠都を、ただ優しく受け止めてくれる。
だが、ここは現実だ。狼はもういない。
閉じ込めた願いを捨てるふりをして、瑠都はそれでも一人で立っていなければならない。
背後で、微かな音がした。
タツだろうか。振り返った瑠都の視界に入ったのは、思いもよらない人物だった。
「……どうして」
ほとんど無意識に出た声は、消え入りそうなくらい小さかった。だが悠然と近付いてくる人物には聞こえていたらしい。
「走っていく姿が見えた。何かあったのか」
目の前で立ち止まったのは、銀色でも、獣でもない。艶やかな漆黒を身に纏ったリメルフィリゼア、ジュカヒットだった。
仕事中だったろうに、わざわざ様子を見にきてくれたのか。また、心配を掛けてしまった。
「そうなんですね……。何も、ないですよ。雨が降っていたから」
声はもう震えていなかった。きっと、ジュカヒットの前に立っているのはいつも通りの瑠都だ。
すぐに立ち去ると思っていた瑠都の予想に反して、ジュカヒットは動かなかった。吹き込んだ風が、漆黒の長い髪と軍服のマントを揺らしていく。
「言い方を変える」
なんでもないと答えたはずの瑠都に、言い淀む素振りさえ見せないまま、ジュカヒットは告げた。
「泣いていたから、追ってきた」
雨音が鳴る。濡れた空気に混じって、色濃い花の香りがそっと密度を増した。
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