第55話 溺れる蜜は甘くていい
瑠都は翌日も、ミローネより絶対安静を言い渡されていた。
体調はもうすっかりいいので、いつまでも横になっているのも申し訳なく感じてしまう。けれど心配してくれているのもよく分かるので、昼食を摂ったあとも言い付けを守り、ベッドの上で本を読みながら時間を過ごす。
昼前には、ジャグマリアスがタルーミミの新作だという焼き菓子を持ってきてくれた。どうやら仕事の途中で立ち寄ってくれたらしく、すぐに去っていった。
ジャグマリアスがいたのは昨日よりもずっと短い時間であったが、瑠都は気付いたことがあった。
それはジャグマリアスと入れ替わりでやってきたメイスに掛けていた言葉。
「ルトに菓子を渡しているから、一緒に食べるといい」
言われたメイスですら気にも留めないくらい小さな、けれど確実に生じた変化。
(名前……呼び捨てになってた)
本を読む手を止めて考える。けれどいくら考えてみたって、ジャグマリアスの気持ちを読み解くなんてできやしないのだ、いつだって。
「……このまま駄目になりそう」
瑠都が次に目覚めた頃には、すっかり夜が更けていた。
いったい、いつ眠りに落ちたのか。それすらも覚えていない。本当に寝ているだけで一日が終わってしまった。ここ数日、日に日に人として駄目になっていっている気がして落ち込む。
ベッドから出て、用意されていた水差しからコップに水を移す。喉を潤してようやく、夜の静けさに体が順応する。
部屋の中にを見渡すと、ルビーはベッドの上で寝息を立てていた。クマのぬいぐるみエメラルドは、相変わらず椅子の上でじっとしている。
「よし」
小さく決意を漏らして、瑠都はそっと部屋から出た。
両手で水差しを持ったまま、暗い廊下を歩く。一定の間隔で灯る明かりを頼りに、一階の厨房まで向かっていた。
起きてすぐに飲み干した一杯と、注ぎ足してきた一杯。水差しの中にはまだ水が残っていたが、これでも理由にしないと外に出るのが
(うん……絶対終わる)
一人で考えて一人で納得する。
そうして一階まで辿り着いた時、横から声が掛かった。
「もう動いて平気なのか」
「わっ」
ぼんやりと歩いていたものだから、反射的に声が出てしまった。落としそうになった水差しをぎゅっと握り直して、声がしたほうを見やる。そこには、漆黒に包まれたジュカヒットがいた。
「……すまない」
ジュカヒットは瑠都の反応を見て、謝りながら側に寄る。驚きから激しくなった鼓動を落ち着かせながら、瑠都もそちらへと体を向ける。
「ジュカヒットさん、おかえりなさい」
「ああ」
マリーが泊まりに来る日、夕食を共にできるかと尋ねた時にしばらく仕事で館を開けると言っていたので、今戻ったところなのだろう。
「スティリオ様から倒れたと聞いた」
自身に起こったことは、すでにこの国の王の耳にも入っているらしい。リメルのこと、更に魔力に関することなので報告されるのは当然なのだろうが、なんとなく恥ずかしさを覚える。
「どこか行くのか」
「水を足しにいこうかと」
答えながら、まだ半分ほど中身が残っている水差しを隠すように胸元から下げる。
「侍女を呼んでこよう」
「自分で行きます! あの、体が鈍るかと思って……」
ジュカヒットが早速と言わんばかりに足を動かしそうになるので、瑠都はおずおずと正直に答えた。
「ならば付き添おう」
「いえ、そんな。仕事で疲れてるのに、悪いです……」
どちらの案も断った瑠都を、ジュカヒットが静かに見下ろす。二人の間に流れる沈黙。しばらく時が過ぎて、ジュカヒットは
指が、瑠都の頬に触れる。
「……体はもう、なんともないのか」
大きな手がそっと下りてきて、親指が唇に触れる。動くこともできないまま、瑠都はただまっすぐにジュカヒットの黒い瞳を見つめた。
「は、い」
頷くことすら、できない。
ぎこちなく僅かに開いた唇を撫でていく、温かな感触。
「そうか」
言いながら滑るように離れた指を、ジュカヒットだけが目線で追う。
「あまり無理はするな」
最後にそう残して去った漆黒を、瑠都は茫然と見送ったのだった。
たっぷりと水を入れた水差しを持ち帰った瑠都は、再びこっそりと部屋を出た。なんとなく、寝付ける気がしなかった。
お気に入りのバルコニーへと辿り着く。そのまま柵の前まで進むと、少しひんやりとした外の空気を目一杯胸に吸い込む。
柵に手を置いて、景色を眺めた。庭にある噴水、森の中から城まで続く一本道、輝く大きな城。
眺めながら、ここ数日のことを思い出す。
皆の優しさ、心配を掛けたことに対する申し訳なさ、それから、部屋を出たいとミローネにお願いしてみようという決意。
「優しい人、ばっかりだな……」
ぽつりと、そんなことを呟く。
色んな形があれど、与えられる言動は瑠都のためを思ってだということが、ひしひしと伝わってくる。
そんなことを考えていると、なぜか元いた世界で風邪を引いた時のことを思い出した。
部屋の中に、一人きり。訪れる者もいない部屋で、ただ時間が過ぎるのを待つ。時折聞こえる物音に期待して、けれど開くことのない扉に落胆して、見たくないと目を瞑る。
そんなこともあったと懐古するには、まだ近すぎる過去。
今こんなにも、たくさんの優しさに触れていていいのだろうか。いつか
考えを深くする瑠都が気付かない内に、一人のリメルフィリゼアがバルコニーの入り口に立っていた。
「いけない子だね」
そう声を掛けたのは、マーチ二だ。
「休んでなきゃいけないじゃないか」
「マーチニさん……」
風に髪を靡かせる瑠都の横に立ったマーチ二が、同じように外の景色を眺める。この場で語らったいつかの夜を思い出しながらその端正な横顔を見つめていると、不意に視線がかち合う。
「眠れないの?」
瑠都はなんとなく、目を逸らしてしまった。
「いえ、そういうわけじゃ、ないんですけど……」
「冷えるといけない、戻ろう」
マーチ二は瑠都の手を取ると、部屋へと一緒に足を向ける。繋いだ手はぎゅっと握って、離さないまま。
部屋へ戻るまでの道中、マーチ二も水を飲むために出ていたのだと教えてくれた。バルコニーに足が向いたのはなんとなくだったが、そこで迷子の子羊を見付けたんだよ、と。
「眠れないなら絵本でも読んであげようか」
おどけたように言ったマーチ二は瑠都の部屋の扉を開けると、そのままベッドまで誘導する。瑠都は子どものように寝かしつけられることを恥ずかしがったが、お構い無しに横にさせてシーツをきっちりと首元まで掛ける。そして自身はベッドの横に引っ張ってきた椅子に腰掛けた。
「おやすみのキスでもしようか」
「からかってますか」
少しだけ唇を尖らせた瑠都が堪らなく愛しく思えて、マーチ二は笑った。月明かりしかないせいでよく分からないが、きっと瑠都の頬は赤く染まっているのだろう。
「でも、これからは手を繋ぐ以外に、キスも魔力の交換に含まれるんだよ? 徐々に慣れていかないと」
組んだ足の上に肘を置いて、掌に顎を乗せたマーチ二がベッドの中にいる瑠都を眺めながら言った。
「それは……そうですけど……」
言い淀んだ瑠都が、視線を外す。
「すみません……迷惑を掛けてしまって」
「迷惑? 誰も迷惑だなんて思っていないさ」
はっきりと言い切ったマーチ二だったが、瑠都の様子を見て言い直す。
「うーん……じゃあ、もし迷惑と思っている奴がいるなら俺が一人占めしてしまおうかな」
冗談に混ぜた、少しの本音と、願望と。本当に一人占めできたのなら、どれほどよかったか。胸に渦巻く感情に、大人げないと自分でも呆れる。
迷惑だなんて、思う奴がいるはずない。
例え当人がどう言おうと、マーチ二にはそう断言できる自信があった。その理由は、リメルだからという天の決まりごとだけでは決して片付けられない。
瑠都だから、だ。それを言ったところで、目の前の妻は信じてはくれないだろうけれど。
未だ視線を合わせようとしない瑠都がどこか悲しそうに見えて、マーチ二は声色を落とす。
「……不安だったかい?」
優しく問われて、瑠都は思わずシーツを頭の上まで引き上げた。そうまでしないと、あの夜のように泣いてしまうと思った。
(やっぱり、夜はいけない──)
静寂が流れる中、眠っていたはずのルビーが瑠都にぴたりとくっついてくる。そしてシーツが捲られたかと思うと、マーチ二までもが瑠都の隣に滑り込んできた。
「マーチ二さん?」
ルビーとマーチ二に挟まれることになって動揺する瑠都に構わず、マーチ二は手を伸ばしてルビーを撫でた。もう片方の手で肘をつき、自身の頭を支える。
「あの……」
「ん? どうかした?」
どうかしたもなにも、なぜベッドの中に入ってきたのだろう。ルビーから離した手で再び、恥ずかしさで混乱する瑠都の首元までシーツを被せる。
「ルトちゃんが寂しくないように」
「寂しくなんて……」
「そう? じゃあ、俺が寂しいから側にいてよ」
マーチ二に乞われて、瑠都はようやくそちらを見た。月明かりしかないが、至近距離にあるため表情がよく分かる。
「寂しいんですか」
そう問うたルトの頭を、そっと撫でる。
「うん。魔力が足りないかも、って悩んでたルトちゃんが、こうやって眠れない夜を過ごしてたのかなって思うと、寂しくなる。俺には頼ってくれなかったんだな、ってね」
瑠都の瞳が小さく揺れる。
「でも、君が何を思って言わなかったのかは、多少なりとも分かってるつもりだよ。だからこれは……俺の勝手な感情」
撫でていた手が離れた。マーチ二が本当に寂しそうに見えて、今度は瑠都が手を伸ばした。湧き上がる感情をうまく伝えられる言葉を持ち合わせないから、存在を確かめるように頬に触れる。
「これからは、覚えておいて。君のことになるとすぐに取り乱すような、どうしようもない奴が隣にいるから、寂しくなる前にこうやって手を差し伸べてほしい、ってね」
マーチ二は頬に触れる瑠都の手を取ると、その指に口付けた。肘を離して体を動かすと、上半身を瑠都に覆い被せる。そのまま顔を近付けると、目を閉じて唇を合わせた。
ゆっくりと、唇が離れる。再び近い距離で絡まった視線を逸らせないまま、瑠都が口を開く。
「あの……魔力はもう……」
「知ってるよ、だからキスしてる」
確かに、今の口付けでは魔力は送られてきていない。その事実に気が付いて、ではなぜと問おうとした瑠都の唇を、再度塞ぐ。
「今はリメルとリメルフィリゼアじゃないっことさ」
「も、もう……からかわないでください」
いたずらっぽく表情を緩めたマーチ二の胸を、瑠都が軽く拳で叩く。
「じゃあおまじないっていうことにしよう」
今度は熱を持って染まった頬に優しく口付ける。
「おまじない?」
「ルトちゃんがよく眠れますように、っていうおまじない。きっと、いい夢が見れるよ」
そうこう話している内に、不思議と本当に段々眠くなってくる。
包まれている温かさも相まって、
「それは、きっとマーチニさんが側にいてくれるから……」
瑠都が小さな声で置いていった言葉が、届いたのか届かなかったのかは分からない。
最後に映ったマーチニは、僅かに目を開いたあと、そっと眉を下げて笑った。
「ひやあああああっ!」
翌朝、瑠都はフーニャの叫び声で目を覚ますことになった。
何が起こったのか分からなくてぼんやりとする瑠都の耳に、焦ったようなフーニャの声が届く。
「ごめんなさいっ! 私ったらお邪魔でした! ああっなんで今来ちゃったんだろうっ……。ほんっとうにごめんなさい! 過ぎた時間は巻き戻りませんが、とりあえず、私は朝起きた瞬間からやりなおしてきます!」
「やりなおさなくてよろしい」
叫ぶように言い切ったフーニャの言葉を、ミローネがぴしゃりとはたき落とす。
はっきりと覚醒しないままそのやりとりを聞く瑠都は、いつもの朝よりも高い温度に包まれていることに気が付く。
(ルビー? ううん、ルビーはもっと小さくて、私を抱き締めるだけの腕なんて)
「おはよう」
そう挨拶されて見上げた先で、深緑の優しい眼差しと目が合う。瑠都はそのまま言葉を失ったのだった。
瑠都とフーニャが落ち着きを取り戻したころ、マーチ二がベッドから降りる。いや、まだ慌てているフーニャは何事か呟きながら頭を抱えている。
明らかに威圧感を出しながらマーチ二を眼光鋭く捉えるミローネに、瑠都が声を掛ける。
「あの、マーチ二さんは私ががよく眠れるようにと……ええと」
懸命に理由を紡ごうとする瑠都に、ミローネは一つ息を吐く。
「さあ、ルト様はご支度がございますので、マーチ二様はどうぞご自身の部屋にお戻りください」
「ああ、そうだね」
有無を言わさぬ物言いで促されて、マーチ二も素直に従う。そのまま出ていくのかと思いきや、瑠都のほうを振り返った。
「じゃあまたあとでね」
額に口付けて離れると、ひらひらを手を振って部屋を出ていく。ミローネが
昨夜、あのまま眠ってしまったのは瑠都のほうだ。マーチ二が叱られることに申し訳なさを感じるが、今は額に感じる熱を飲み込むので精一杯だった。
額に手を当てながら扉を見つめる瑠都と同じように、フーニャもどこか
「……なんだか、パンケーキにでもなった気分です」
ぽつりと溢した瑠都に、ようやくフーニャが意識を引き戻す。瞬きを繰り返しながら、言葉の真意を探ろうと首を傾げる。
「パンケーキ、ですか」
「なんていうか……瓶からたっぷりの蜂蜜をかけられて、あまりの甘さに溺れそうというか……」
未だ少しぼんやりとしたままそう紡いだ瑠都の代わりに、フーニャは腕を組んで思案する。蜂蜜、そう心の中で繰り返したフーニャは、いつもの通り、思ったことをそのまま口にする。
「いいえ、ルト様」
呼び掛けに反応して振り返った瑠都に、フーニャは至極真面目な顔をして語りかけた。
「マーチ二様はきっと、まだ瓶の蓋すら開けていないですよ」
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