第53話 永遠の口付け

 

 

「誰かっ、誰か来て!」


 夜の気配が色濃くなりつつある館の中に、叫ぶようなマリーの声が響き渡った。



 横たわる瑠都の傍らに座り込んで、何度も何度も懸命に名前を呼ぶ。今にも涙を溢しそうなマリーの目に飛び込んできたのは、階下からやってきたジャグマリアスとフェアニーア二人の姿だった。二人はすぐに場の異変を感じ取り、倒れている瑠都の元へと駆け寄る。


「ルトさんっ、マリー様いったい何が」


「分からないの、急に倒れてっ。呼び掛けても返事がないの」


 フェアニーアが状況を確認しようと問うが、瑠都が意識を失ったのは突然のことだ。マリーにも何事か分からず、ただかぶりを振るだけで精一杯だった。


 ジャグマリアスも瑠都の真横に片膝をつき、小さな肩に触れて呼びかける。しかし、やはり返事はない。素早く状態を確かめる。


 ぐったりとして、生気がない。息をしているのかすら怪しく、まるで人形のようにすら思える。微かに胸が上下しているのを目視して、ジャグマリアスは動揺するフェアニーアに指示を出した。


「フェア、急いで医者を呼びにいけ」


「っ、はい」


 フェアニーアは頷くと、すぐに駆け出す。


 そこにすれ違いざまにやってきたミローネとフーニャが悲痛な声を上げた。


 ジャグマリアスは二人の侍女にもそれぞれ指示を出しながら、瑠都の背中と膝の裏に腕を回し、なるべく刺激を与えないようにそっと抱き上げた。

 完全に力を無くした体。その体は異様なほど冷たくて、だらんと垂れる手はぴくりともしない。


 閉じられた瞼を見下ろして、ジャグマリアスはすぐに瑠都の部屋へと足を向けた。





 発熱もなければ、発疹などの症状もない。

 ただ深い眠りに落ちているようにも思えるが、けれど呼吸が異様に浅く、冷え切っている。


 フェアニーアが呼んできた、この世界に来てからずっと瑠都を担当している老齢の女性医師は、静かにそう切り出した。


「このような症状は見たことがありません……」


「ではなぜルトは目を覚まさないの」


「それは……」


 瑠都が横たわるベッドの傍らに立つ医師が、問いかけたマリーを振り返る。医師は冷静でありながら、その顔には明らかな困惑が浮かんでいる。



 瑠都の自室には、マリー、マーチニとジュカヒット以外の四人のリメルフィリゼア、そして使用人であるミローネとフーニャ、サフが集まっていた。


 静まり返った部屋の中、フーニャの啜り泣く声が微かに響く。皆が神妙な面持ちで立ち尽くす中、マリーは大きな猫目でまっすぐに、気丈に医師を捉えている。


「さっきまでは普通だったのよ。いつもの通り話して、笑って、隣にいたのに……。突然血の気がなくなって、糸が切れたみたいに崩れ落ちてしまったの。どうしよう……ルトがこのまま、目を覚まさなかったら」


 マリーの瞳が徐々に潤んでいく。唇をかんだマリーだって、まだ十七歳の少女なのだ。目の前で突然大切な友が倒れて、不安にならないはずがない。


 マリーの背にメイスがそっと触れた。そのメイスも湧き出る感情をぐっと抑えながら、ベッドの上で静かに、微かに息をする瑠都を見つめた。


「ルト……」


 胸が痛い。このまま目を覚まさなかったら。そんなマリーの言葉が、何度も頭の中を駆け巡る。


「一つだけ……思い当たることがあります。けれど確証はありません。そのようなことが起こり得るとはとても……」


 医師は、視線をさ迷わせながら言い淀む。誰もが続きを待つ中、ジャグマリアスだけが口火を切った。


「聞かせてください」


 はっきりとそう促したジャグマリアスの深い青の瞳に見つめられて、医師は意を決したように自らの考えを吐露する。


「もしやルト様は……魔力が欠乏しているのではないでしょうか」


「魔力が……? しかし、」


 リメルテーゼと魔力の交換は怠らずに行っている。そう言いかけたフェアニーアは、古い伝承を思い出してはっと息を飲んだ。



 この世界で生きるためには魔力がいる。しかし、別の世界からやってきたリメルには魔力がない。だから足りない魔力をリメルフィリゼアから受け取って、その代わりにリメルだけが持つ特別な魔力、リメルテーゼを渡している。その交換の方法は、手を繋ぐこと。


 しかし、その方法だけでは充分な量の魔力を受け取れないリメルが、かつて何人か存在していたのだという。それは強いリメルテーゼを持ったリメルだ。手を繋ぐだけでは釣り合うだけの魔力を得られず、魔力不足に悩んだという。


 そしてより多くの魔力をリメルテーゼと交換するために見つけ出された方法は、リメルとリメルフィリゼアの間でもっと深い繋がりを持つこと。それは、口付けを交わすことだった。


「一理ある。明らかな病状が見受けられないのに、まるで生命の維持すら危ぶまれるかのように意識を失っている。これは文献にもあった魔力不足の症状と言えるだろう」


 顎に手を当てたエルスツナが、医師の考えを肯定する。


「魔力不足を起こすリメルはここ五百年は現れていない。元々魔法使いでもなければ特別な術も使えないリメルが該当するとは思わなかったが……確かにリメルは無意識とはいえぬいぐるみに自我を持たせるほどのリメルテーゼを注いでいた。なにかきっかけがあったからだと思っていたが、なるほど持ち合わせたリメルテーゼが強大な物であったなら、辻褄が合う」


 自分の考えを整理するように、エルスツナは早口でそう紡いだ。


 リメルとは元来特別な存在である。魔法と自然に愛されて、この世に繁栄をもたらす、異世界からやってくる特別な存在。その中でも更に、強いリメルテーゼを持つリメルは特殊とされる。伝承では、元いた世界でも強大な力を誇っていたリメルが多いからだ。


 今、皆の目の前でかろうじて息をする瑠都は、元いた世界では普通の学生であった。魔法を使うことも、難解な秘密を抱えることも、誰かと戦うこともなかった。それなのに、この世界にやってきて突如強いリメルテーゼを与えられたのだ。


 そこになんの意味があって、天の意思があって、瑠都のどんな身の内から紡ぎ出されたのか、それは誰にもまだ分からない。


「……ルトに話したことがあるわ。時々魔力が足りないリメルがいる、って物語で読んだことがあったから。深い魔力の交換の方法が、キスだということも」


 かつてこの部屋で語らった夜に、瑠都にその伝承を教えたことをマリーは思い出していた。そしてリメルフィリゼアたちの気持ちを確かめるため、その理由を使って口付けをするきっかけを作ってしまえばいいと瑠都に言ったことも。


「わたくしのせいだわ……」


 顔を覆って肩を震わせたマリーが崩れそうになって、横にいたメイスは慌ててその体を支えた。


 空気が重くなる中、いっそ悲痛な表情を浮かべた医師は再び瑠都を見下ろした。年若い少女の容態と、その心情を思いやって哀れむように。


「本当に魔力の欠乏であったとして、そのような前兆は今までの診察では見受けられませんでした。けれど魔力とは徐々に減っていくものと考えられますから、もしかしたら……ルト様ご自身は自覚があったのかもしれません」


 医師の見解に、エルスツナが眉をひそめた。納得がいかないと言うように、声色がきつくなる。


「魔力が足りていないと自覚があった? ならばなぜ言わない。自分の命に関わることだ、気付いていて言わなかったのならどうかしている」


「言えるわけないじゃないっ」


 語気を強めたマリーがすかさずエルスツナに反論した。


「……そんなこと、ルトが言えるはずなかったのよ。だって……ルトは優しい子だもの。優しいから、いつも自分のことより人のことばかり考える。だからこそ、人に何かを求めるなんて……」


 口付けてほしい、なんて。言えるはずもなかったのだ。

 どう思われているのかも、どう思っていいかも分からない、どんな想いを抱くかさえ知らない彼らに口付けをえるほど、きっと瑠都は強くない。


 もし、そんな方法があると知らなければ。瑠都は少しでも体調の異変を感じた時に教えてくれていただろうか。知らなければ、こんなふうに倒れることなんてなかったのだろうか。


「わたくしのせいだわ……」


 もう一度呟いたマリーの目から、大粒の涙が溢れ落ちる。



 誰もが微動だにしない部屋の中、金色を携えた男だけが歩み出す。いっそ眩ささえ引き連れたジャグマリアスが、瑠都が眠るベッドの横に立った。


「ジャグマリアス様……」


 フェアニーアが息を飲んで口にしたその名の人物を捉えて、同じくベッドの横に立っていた医師が慌てて後ろに下がる。


 ジャグマリアスはそっと瑠都を見下ろした。瑠都の様子は、抱き上げた時とまったく同じだ。生きていることすら疑ってしまうような静けさ、このまま起きやしないのではないかと思うくらいの深い眠り。


 いつもまっすぐに、けれど控えめにジャグマリアスを、リメルフィリゼアたちを映す黒い瞳も今は閉じられたまま。


 ジャグマリアスは大きなベッドに片膝を乗り上げると、眠る瑠都の頭の横に片手をつく。そしてそのまま、顔を近付けた。鼻先が触れそうな位置まで来てようやく、微かな呼吸を感じ取ることができた。


(ああ、生きている──)



 色付いた唇に視線を落として、瞳を閉じる。

 ゆっくりと、二人の唇が重なった。


 触れた瞬間から魔力が流れ込む。強大なリメルテーゼが熱を持ちながら体の中を巡り、己の魔力が渡っていくのを感じる。


 それはまるで互いを待ち望んでいたかのように急速に絡み合って、それぞれの体の奥深くへと沈み込んでいく。


「っ、」


 唇を離したジャグマリアスは、その温度に小さく眉を寄せた。

 手に触れた時と似ていて、けれど確実に質量と純度が高まった、リメルとリメルフィリゼアだけに許された特別な儀式。


 胸に刻まれた花の欠片がじくりと、締め付けるように熱を抱いたのはきっと思い過ごしではない。


「……戻ってこい」


 無意識にそう囁いていた。

 人差し指の背で、未だ閉じられたままの目尻に触れる。


「目を覚ませ……ルト」


 見つめた先の瞼が震える。微かに覗いた黒い瞳が、深い青色と至近距離で絡み付いた。

 何か言いたげに僅かだけ開いた唇は、しかしなんの言葉を紡ぐこともできずに息だけを落とす。力なく再び閉じられた瞼の奥で、瑠都は確かにジャグマリアスを捉えていただろうか。


 もう一度、そっと唇を落とした。


 触れた瞬間、巡る魔力。ジャグマリアスの中にリメルテーゼが流れ込んで混じるのと同じように、瑠都の中でもきっと二つの魔力は互いを求めながら息をしている。


 魔力とは消耗していくものだ。いずれ消えてゆき、新しく生まれた魔力と取って変わる。今交換したリメルテーゼと魔力でさえ、いつかはなかったものとして失われる。


 それなのに、ジャグマリアスはなぜかふと永遠を垣間見たのだ。


 この瞬間、巡りながら結び付いた魔力だけは、互いの奥底に根付いて、そこにずっと在り続けるではないかと。


 そんな幻にも似た、永遠を。

 

 

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