第52話 運命は平穏を許しはしない
こんなにも空の色を窺うようになったのは、いつからだったろうか。
部屋の椅子に腰掛けながら、今日も窓越しの空を見上げる。腕の中ですやすやと寝息を立てるルビーを撫でながら、瑠都はぼんやりとそんなことを考えていた。
テレビも携帯電話もないとはいえ、他に時間を潰せるものはいくらだってある。それでもふとした時につい遥か頭上の空を見上げたくなって、届くはずもないその広大さや色合い、流れていく様子に引き込まれていく。
考えることが、増えたからかもしれない。いや、そもそも時間がたっぷりあって、暇だからこんなことができるのだ。この世界にきてからできた習慣に、そんなことを思う。
今日はからりとよく晴れている。雲一つなくて、燦々と太陽の光が地上に降り注ぐ。よかった、出掛けるわけでもないのに、思わず嬉しさを感じる。
そうして幾らか時間が経った頃、部屋の扉を叩く音が響いた。瑠都が返事をすると、扉がゆっくりと開く。そこには執事のサフが立っていた。
「お休みのところ申し訳ございません。マリー様がもうじき到着されると連絡がありました」
「分かりました、すぐ行きます」
嬉しそうに言葉を返す瑠都に、サフもにこやかな表情を浮かべたまま、一礼して部屋を去っていった。扉が閉じられた時、物音に反応したらしいルビーが
「起きたの? マリーがもうすぐ着くんだって。一緒にお迎えにいく?」
宝石のような赤い瞳で瑠都を見上げたルビーは、けれど長い耳を一度ピクリと動かしただけで、再び眠り込んでしまった。
瑠都は笑みをこぼしながら、近頃寝ることの増えたぬいぐるみを抱いたままゆっくりと椅子から立ち上がり、ベッドに近付く。そこにはすでに先客がいた。
枕に頭を預けているのは、未だに動かないままの白いクマのぬいぐるみ、エメラルドだ。寄り添うようにルビーを横に寝かせ、首の下までシーツを被せる。ぐっすりと眠るルビーの頭をそっと撫で、続けて同じように、けれど少しぎこちなく、温度のないエメラルドに触れた。
館の扉の前で、瑠都は城からやってきたマリーを出迎えた。瑠都の後ろにはミローネとフーニャ、サフが控えている。
「マリー! いらっしゃい」
「ルト! 会いたかったわ!」
瑠都の姿が見えて駆け寄ってきたマリーが、挨拶もそこそこに、聞いてちょうだいよトトガジスト様がね、と話し始める。前に会った時からそれほど期間も空いてないというのに、もう話したい出来事がたくさん増えたようだ。
「マリー様、もう少し落ち着いてからお話しをされてはいかがですか」
落ち着いて座るどころか、まだ館にすら入っていないマリーを、共にやってきた眼鏡をかけた侍女が嗜める。
「ああ、そうだったわね。わたくしったら早く聞いてほしくってつい……。そうだわ、今日はクッキーを焼いてもらったのよ」
「いつもありがとう。私もね、今朝フーニャさんと一緒にケーキを焼いたの」
瑠都が後ろに控えるフーニャを見ると、フーニャは誇らしげににっこり笑った。
「まあ、それは楽しみだわ」
両手を胸の前で合わせて肩を弾ませたマリーが、瑠都の横に並んだ。
この場面だけを切り取ると、二人の姿は町で見かける女学生たちとなんら変わりない。表情がコロコロと変わって、楽しげな笑い声が辺りに響く。
友人と過ごす一時。眩いそれは当たり前の光景であるはずなのに、この時間も関係も、大国の姫とリメル二人ともが待ち望んで、やっと手に入れたものでもあった。
それぞれの従者が暖かい眼差しで見守っていることにも気付かないまま、二人はぴたりと寄り添って館の中へと向かった。
居間に移動し、マリーが持ってきてくれたクッキーや、用意していた菓子を美味しい紅茶と共に食べ始めて、しばらく経った頃だった。
もうすぐメイスが学校から帰ってくる時間だと瑠都が口にした直後、マリーが満を持した様子で切り出した。
「ルトにプレゼントがあるのよ」
メイスが知ったら羨ましがるかもしれないから、先に渡しておくわね。そう言ったマリーは、退室させていた侍女を呼んで一つの物を運び込んだ。菓子を端に寄せたテーブルに置かれたそれは、鉢植えだった。
「花……?」
「ええ、可愛いでしょう」
侍女を下がらせ、再び二人きりになった居間のソファーに並んで座るマリーと瑠都は、テーブルの上に置かれた鉢植えを見つめる。その中で咲き誇るのは、ガーベラに似た黄色の花だ。鉢植えの中、ぽつんと一つだけ存在している。
「実はね、この花はとっても特別なものなのよ」
「特別?」
「きっと驚くわよ!」
いたずらっ子のように猫目を細めたマリーが、人差し指をピンと上に向けて笑った。
「これはね……どこの誰とも知らない人と繋がれる、特別で、不思議な、魔法の花なの」
魔法を織り込んだ花はいくつも存在している。瑠都が花贈りの夜にマーチニにもらった、音楽が聞こえる花や、日毎に色が変わる花など、それぞれ数や希少性に違いはあれど、世にたくさん出回っている。
その中でも群を抜いて珍しく、最早お伽噺ではないかとまで噂されているのが、今二人の前にある花なのだという。
実は、この花には対になるものが存在している。
まったく同じ見た目の、二つの花。それらにまずは特殊な魔法をかけ、互いを繋げて強い縁を生ませる。更にそこに繊細で緻密な魔法を幾重にも施すことで、やっと完成するらしい。
らしい、というのは、あくまで噂にすぎないからだ。高度な魔法でありながら誰が作っているのかは不明で、生み出した意図も分かっていない。
二つの花は別々にこっそりと市場に出され、やがてそれぞれが買い手の手元に渡る。そして枯れないことを不思議に思い始めた頃、花同士が繋がり通信機のような役割を持ち始めるのだという。
つまりは、どれだけ遠い場所にあろうと、花を持っている者同士で会話をすることができるのだ。
「そんな花が存在するの? すごい……」
「ね、すごいでしょう! 魔法大国アイから時折、気まぐれに流れてくるという噂なのよ。ただ、見た目だけでは分からず実際に話せるまで確証は持てないらしいのだけど」
マリーは隣町バルザディアの花市場の主人、シンと話している時に、実はその貴重な魔法の花が手に入ったかもしれないと聞いたのだという。シンもアイからやってきた商人に可能性があると教わっただけなので、確実とは言えないらしいが。
「それを聞いた時に、確証はなくとも、僅かに可能性があるのならルトにプレゼントしたいと思ったのよ。それに今回の魔法の花は黄色でとっても可愛いんだもの、ルトにぴったりだわ」
マリーは大きな瞳を常より煌めかせながら、瑠都を見つめる。
「でも……そんなに貴重ならマリーが持っていたほうが、」
花が好きなマリーは、その可能性を知った瞬間から胸をときめかせていたに違いない。それならば自らの手元にあったほうが、真相を確かめることもできるだろうし、楽しみも増えるはずだ。
「貴重だから、あなたに贈りたいのよ」
瑠都の言葉をぴしゃりと遮って、マリーは口角を上げた。
「ねえ、ルトは……まっさらな状態でこの世界にやってきたでしょう。一から人との関係を紡いでいくのがどれほど大変なことか……わたくしが思うよりきっと、辛いこともあるでしょう。だからね、たまにはこんな楽しみがあってもいいと思わない?」
マリーは膝の上にあった瑠都の両手を、自らの両手でそっと持ち上げた。ぎゅっと握られたその手から伝わる温度に、瑠都の瞳が揺れる。
「世界のどこかに、この花の対を手にする誰かがいる。それがどんな人で、どんな人柄で、どんな人生を歩んできたのかは、まだ誰にも分からない。そしてその人も、ルトがどこからやってきて、どんなことを考えていて、リメルであることはもちろん、わたくしの大切な友達であることだって知らない。知らないけれど、きっと二人は……特別で、ちょっと不思議な友達になるのよ」
ほら、楽しみになってきたでしょう。首を傾げたマリーを、瑠都はじっと見つめる。手から、瞳から、優しい友の温度が伝わって、胸が熱い。
もう充分なのだと、心の中ではそう呟いていた。
この世界で瑠都が出会った人たちは優しい。この館で働く皆も、リメルフィリゼアも、そしてマリーも。ともすれば異物にもなり得るリメルという存在が、瑠都が、この場にいることを、隣にいることを許してくれる。それだけ充分なのに、有り余る温かさにいつだって溺れそうなのに。それ以上に与えられる優しさに、瑠都の胸はいつだっていっぱいになる。
「……うん、楽しみ。どんな人かな、この花の対を手にする人って」
けれどそんなことを言えば、優しいマリーはきっと、当たり前のことだと怒ってしまうのだ。だから瑠都はいつもマリーの前では、遠慮も謙遜も仕舞い込むことにして、奥底にある素直な言葉を口にする。
「嬉しい、本当にありがとう、マリー」
目の前の大輪の笑顔が、更に明るく綻ぶ。それを見て瑠都も、ようやく笑うことができたのだった。
瑠都と、マリー、そしてマーチニとジュカヒット以外のリメルフィリゼア。皆で囲んだ食卓は、平時より賑やかなものとなった。
フェアニーアに連れられてきたらしいエルスツナが参加していたものだから、珍しく思ったマリーがたくさん話しかける。どうやらマリーは、エルスツナといい、アヴィハロといい、自分を避けようとする人にほど興味が向くようだ。
便乗したメイスがおそるおそるではあるが、日頃聞けない魔法のことを色々と尋ねていた。
エルスツナは終始鬱陶しそうな顔をしてはいたが、元来の魔法好きではあるゆえ、魔法に関する質問には答えてやっていた。それ以外の質問やら話題に関しては一切口を開かなかったのもエルスツナらしいといえるだろう。
そんなエルスツナを時には嗜めたり、微笑ましく眺めたりするフェアニーアの横にはジャグマリアスもいる。
マーチニとジュカヒットが仕事で不在のため全員は揃わなかったものの、賑やかで、明るい食卓。瑠都も、たくさん笑った夜になった。
しかし、変化とは油断した頃にやってくる。
瑠都が少しの違和感を覚えたのは、デザートを食べ終え、さっさと消えたエルスツナ以外の者とゆっくりと一時を過ごしたあと、マリーと共に自室に向かっていた時だった。
あとから合流することになっているメイスと階段の前で別れ、侍女も連れずに歩く。一日を通してたくさん話したはずなのに、それでも枯れない話に花を咲かせていた二人。並んで歩いていたはずが、次第に瑠都の歩みが遅くなり、やがてぴたりと止まった。
「ルト?」
なんとなく、けれど確実に、侵食してくる何かが胸にもやをかけている、そんな気がする。
その違和感は次第に頭や腹にまで広がって、身の内を巡る得体の知れない何かの存在に体が段々と重くなってきた。
「どうかしたの、顔色が……」
心配そうに覗き込むマリーに答えなくてはと思うのに、最早言葉を紡ぐことすらできなかった。
(気持ち、悪い……)
食べ過ぎたのだろうか。頭に浮かんだ考えも、すぐに打ち消された。そんなんじゃない、いや、むしろこれは、どちらかといえば飢餓感に近い。
(やめて、)
足りない、足りないのだと。
自分じゃない何かがそっと囁く。
止めようとしても、それはもっと大きな声で答えを引き寄せようとする。瑠都が受け入れたくなかった、知らないふりをしていたかった、その答えを、逃すものかと言うように。
──お願い、だから。
もうこれ以上は、何も奪いたくないの。
最後に願った瑠都の意識は暗転して、瞬く間にぷつりと途切れた。
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