第51話 背中合わせの憧憬

 

 

「え、マリー様が?」


 食事の手を止めたメイスが、目を丸くして横に座る瑠都へと顔を向けた。


「うん、明日泊まりにくるって」


「そ、そうなんだ……」


 メイスの表情が少し固まっているように思えて、瑠都は小さく笑みをこぼした。



 マリーは時折このリメルの館へと泊まりにくる。メイスは今回もいつものようにマリーに引っ張られて、眠る前まで続くマリーと瑠都のおしゃべりに付き合わされるのだろう。


 瑠都の部屋で電気をつけたまま、いつもは食べない夜のおやつなんかを食べながら楽しく三人で会話をする。そしてメイスと別れて電気を消したあと、ベッドに潜り込んで二人で静かに語らう。それがマリーが泊まりにくる時の最近のお決まりであった。


 大国の姫とリメル。そんな二人であっても、あの静寂の中ではただの少女に過ぎない。楽しかったこと、悲しかったこと、ふと感じた些細な感情でさえ、誰にも咎められることもなく、誰の許しを乞うこともなく語らえる。

 一人きりの暗闇は恐れさえ感じるというのに、温もりを分けてくれる誰かが側にいるだけで、どうしてあんなに愛しい空間に変わるのだろう。

 

 不思議に思いながらも嬉しくて、瑠都はマリーが泊まりにきてくれることをいつも楽しみにしている。


 対してメイスは、マリーが泊まりにくると聞くといつも一瞬固まる。

 マリーは同い年のメイスに、あのいつもの明るい勢いのままでよく話し掛けるのだが、どうやらそれに少しだけ戸惑うらしい。更には夜更かしが苦手らしく、うとうと首を揺らしては、マリーにわたくしの話がつまらないのかしら、と片眉をつり上げられるのもよく見る光景だ。


(でも、なんだかんだ仲良しだと思うんだけどな)


 何時に来るんだろう、と呟きながら食事を口に運ぶメイスの横顔を、笑みを浮かべたまま見つめる。そんな瑠都に、前方から声がかかった。


「なるほどね」


 横に座るメイスから、瑠都は声の主へと視線を移す。そこには、濃紺の軍服を身に纏ったマーチニが座っていた。


 リメルの館の食堂には、大きなテーブルがある。メイスとマーチニはそこで向き合って朝食を取っており、あとから来た瑠都がメイスの隣に座って話をしていたのだった。一足先に朝食を済ませたらしいマーチニが、食後のコーヒーが入ったカップをそっとソーサーに戻す。


「だから今日はその格好なんだね」


 テーブルに片肘を付き、その手の甲に顎を乗せたマーチニは、にっこりと微笑みながら瑠都を見つめている。


「え?」


 納得したように呟くマーチニの言葉に、瑠都とメイスの声が重なる。二人は同時に瑠都の格好を見下ろした。


 瑠都は、ここに現れた時から使用人と同じメイド服を身に纏っていたのだ。


「そ、そうなんです……。あの、マリーが来るって聞いたから……部屋をいつもよりちゃんと掃除しようかと……」


 頬を染めてぎこちなく答えた瑠都が顔を伏せた。メイスにも、マーチニにだって、もう何度かこの姿を見せているというのに、唐突に指摘されて今更恥ずかしくなってしまったらしい。そしてその横では、なぜかメイスまでが顔を赤くしている。


 同じような反応を見せる同い年の二人が微笑ましくて、マーチニは表情を緩める。


「初々しいねえ……」


 二人には聞こえないくらいの優しい声色でそっと呟き、もう一度カップを手にした。



「初々しい、ですねえ……」


「うわぁ!」


 ところが、その声を拾った人物が一人いたらしい。


 突然背後から現れて、メイスの肩にぽんと手を置いたのは、数少ないリメル付きの使用人、フーニャだった。


「初々しい反応ですねえ、ほんとに! 私までドキドキしちゃいますよう! 見とれてました? ねえメイス様見とれてましたっ?」


「え……いや、その……」


 赤いままのメイスに詰め寄るフーニャの顔は、とても楽しそうだ。こうしていつもメイスをからかうフーニャの勢いは、ともするとマリーどとこか似ているのかもしれない。


 一体いつからここにいたのだろう、と考えながら瑠都は、今日ここに至るまでの経緯を思い出していた。



 昨日の夜マリーからの知らせを受け取った瑠都は、楽しみな気持ちが勝っていつもよりも早く起きてしまった。子どもみたいで恥ずかしいと思いながらも、出来た時間で部屋を掃除しようと思い立ったのだった。


 瑠都はいつも、自分の部屋の掃除は自ら行っている。何せ時間も有り余っている上、体を動かしていないとどんどん体力がなくなってしまう気がして恐ろしいのだ。

 今日はいつもより気合いを入れて掃除しよう、そう決意した勢いのまま朝食時にぽろりと溢してしまったものだから、フーニャが久しぶりにメイド服の出番ですね、と喜んであれやこれやという間に着替えさせられてしまった。


 確かに掃除をする時にメイド服を着ることはあったが、着替えるとしてもリメルフィリゼアが全員出掛けてからにしようと思っていた。だが嬉しそうなフーニャを前にすると、瑠都にはもう何も言えなかった。


 久しぶりに袖を通したものだから、やはりどこか気恥ずかしい。今日はそれぞれ仕事や学校に向かうリメルフィリゼアのお見送りはしないことにして、できる範囲の部屋の掃除をすすめていた。

 しかし、そろそろ皆出掛けただろうかと思って覗いた食堂にメイスとマーチニの姿を見付けて、つい声を掛けてしまった。マリーが来るということを早く知らせたくなったのだ。


(もう、ほんとに子どもみたい……)


 友人の来訪が嬉しくてつい、だなんて。自分の行動が恥ずかしくて顔を覆いたくなる。


 本当に子どもだった頃にはできなかったこと、つい、で体が動いて、それすら受け入れてもらえること。

 胸がぎゅっと熱くなる。色んな感情が溢れてしまいそうで、瑠都はフーニャの勢いを止めるために慌てて口を開いたのだった。





「え、マリー様が?」


 目を丸くするフェアニーアに、瑠都はメイスと同じ反応だとこっそり思った。


 夕刻、すでにメイド服を脱いだ瑠都は、今日は早めに仕事から帰ったフェアニーアと一緒に書庫に来ていた。そこで二人並んで本を選びながら、マリーが泊まりにくることを報告したのだった。


「そうですか……。明日は余程のことがない限り、ジャグマリアス様も私も夕食をご一緒できると思いますよ」


「ほんとですか?」


 嬉しそうな瑠都に、フェアニーアもそっと微笑みを返してくれる。


「マーチニさんは朝方まで仕事みたいで、ジュカヒットさんとエルスツナさんには聞けてないんですけど……」


「ジュカヒット殿のことは分かりませんが、エルはそろそろ帰ってくるかもしれませんね。前の帰宅から一週間は経っていますし」


「確かに……」


 エルスツナは毎日リメルの館に帰ってくるわけではない。研究に没頭している時はしばらく姿を見ないし、たまに二日連続で食卓に座っていて驚くこともある。



 エルスツナは、不思議な人だ。

 それほど口数も多くないが、魔法の話題になると饒舌になる。マーチニがよく話し掛けるので、フェアニーアの次くらいに会話している印象があるが、それはマーチニとエルスツナの共通の友人、または先輩であるトムの影響もあるのだろうか。


 瑠都はまだ、リメルフィリゼアの多くを知らない。知る権利があるのからすら、瑠都には分からないのだ。


「……フェアニーアさんは、エルスツナさんと幼なじみ、なんですよね」


「ええ、エルスツナが産まれた時から知っていますよ」


「産まれた時から……。すごく長い付き合いなんですね。なんとなく、エルスツナさんと話している時のフェアニーアさんはいつもと雰囲気が違う気がします。仲良し、なんですね」


 何気なく目に入った本の背表紙に触れながら、瑠都は普段感じていることをぽつりと呟いてみる。


「雰囲気、ですか」


 フェアニーアは一旦考える素振りを見せたあと、手に持っていた本を閉じて、すぐ近くにいる瑠都を見下ろした。


「お恥ずかしいですが、確かにそうかもしれませんね。私が軍人となる前、もっと言えばそうなると決意する前から、私のことを知っている数少ない人物ですから」


 フェアニーアとエルスツナは、母親が元々友人同士であったという。幼少期はよく遊んでいたが、どちらかと言うとフェアニーアやその兄たちがエルスツナを引っ張って色々と連れ回していた、というのが正しい言い方らしい。


 エルスツナは幼い頃から優秀で、絵本よりも文献を好んで読み漁る子どもだった。あっという間に魔法の知識を習得し、魔法を使えるようになったのも、他の子どもに比べて随分と早かった。


「その頃すでに魔法研究所の総長であったルーガ様も目をかけていらっしゃいましたから、希代の天才が現れたと噂になっていたんですよ」


「すごい、人なんですね。エルスツナさんって」


「本人は周りの言葉など一切気にしていませんでしたがね。でもその性格のお陰で、挫けることもなく没頭し続けられているのだとも思います」


 苦笑を漏らしながらも、幼なじみのことを語るフェアニーアは優しい表情をしている。


「エルの人生は魔法と、リメル様と共にあると言っても過言ではありません。愛想も礼儀もない奴ですから、きっと失礼も多くあると思うのですが……どうか大目に見てやってください。それほどまでに熱心になれるものがあるというのは、ひたむきでいられるのは、ある意味とても貴重で、豊かなことだとも思うのです」


 手に持ったままだった本を本棚に戻すと、フェアニーアは思い付いたように声を上げる。


「ああでも、あまりに度が過ぎる時はがつんと叱りますので、遠慮なくおっしゃってくださいね。もちろんルトさんが殴ってくださっておおいに結構ですが」


「いえ、そんなことは……」


 冗談っぽく肩を竦めたフェアニーアに、瑠都も小さく笑みを返す。ふとその脳裏によぎった光景をそっと、閉じ込めるように。


 きらきらと輝く緑色の宝石の向こうに、エルスツナの姿がちらりと映る。何を見ているの、どう思っているの。どんな疑問を口にすることもきっと許されないのだ。許されないのはいつだって、知る権利すらない瑠都のほうなのだ。


「……仲がいいと言えば、ジャグマリアスさんとも、ですね」


 話を変えてしまったことに、フェアニーアは気付いただろうか。自分からエルスツナとのことを聞いたくせに情けないことだと、瑠都は思った。


「ジャグマリアス様ですか」


 フェアニーアはそう繰り返すと、慌てたように首を振る。


「仲がいいだなんてそんな……恐れ多いです。あの方はいつまでも私の憧れであり、目指すべき存在ですから。決して追い付くことなどできませんが、この命が尽きるまではお側で力になりたいと思っています」


 そう語るフェアニーアの瞳は、暖かな光を宿している。どこまでも完璧なジャグマリアスはきっと、色んな人の憧れであり目標なのだろう。そんな眩い金色を常に側で支える続けるフェアニーアもまた、この国になくてはならない優秀な兵士であった。


「パーティーでも、たくさんの人がジャグマリアスさんのことを見てました」


 ノムーセの誕生会のことを思い出しながら、瑠都が言った。

 側にいた瑠都が戸惑うほどに、ジャグマリアスに向けられるたくさんの視線。若い男性たちが向ける尊敬、女性たちが放つ焦げるような熱望、その中で僅かに感じさせる畏怖と、少しの、猜疑さいぎと。


「……そう、ですね。いつでも、どんな時でも注目される方ですから」


 物憂げに呟いたフェアニーアの言葉が、二人の間に静かに落ちる。なんとなくフェアニーアの横顔を見ることが躊躇われて、瑠都はまた意味もなく視線を本棚に戻した。



「もしまたあのようなパーティーがあったら、ルトさんは参加されるのですか」


 一拍置いて、フェアニーアが尋ねた。


「はい。お話があれば、ですけど……」


「声を掛けてくる者は今後ますます増えてくると思いますよ。ただ……またルトさんがあんな思いをするようなことがあったらと……」


 眉を下げるフェアニーアは、ダンとの間に起こった事件を回顧している。これ以上心配させないようにと、瑠都はすぐに言葉を返す。


「大丈夫です、これからは充分気を付けます。それに……」


 一瞬、言っていいものかと悩む。しかし再びかち合った瞳にそっと促されて、瑠都は口を開いた。


「それに、私がいたほうがいいことも、ありますよね」


 不意に投げかれられた問いに、フェアニーアは息を呑んだ。


 貴族としては妻がいたほうが、リメルフィリゼアなのだと誇示するためにリメルを側に連れていたほうが、役に立つのだろうと。


──どこまで分かっていて、そんなことを



「……そう、かもしれません。でももちろん、すべて受けなくてもいいんですよ。あまり無理はなさらないでくださいね」


 動揺を瑠都に悟られないように、努めて穏やかに発する。ありがとうございます、そう小さく謝意を述べた瑠都にそれ以上何も言うことはできなかった。


「今度は、一緒に行けるといいですね」


「はは……風邪を引かないように気を付けます」


 前回のノムーセの誕生会には、風邪を引いていたフェアニーアは同行できなかった。そのため瑠都とジャグマリアスは二人で赴いたのだった。


 不安だっただろう瑠都を支えられなかったこと、ダンの愚行から守れなかったこと、淡い水色で着飾った姿を見ることが叶わなかったこと。いくつもの後悔が、まだフェアニーアの中に残っている。


 あの夜の瑠都を閉じ込めたかのような、清く爽やかな水色の花。ジャグマリアスが捨てるようにと指示した、ノムーセの妻が持ってきた淡い花束。

 どうしても捨てることができなくて、フェアニーアはその花を自室に持って帰って飾った。


 気付かれないようにしたつもりだが、きっと、ジャグマリアスは見抜いているだろう。その上で何も言わないし、咎めもしないのだ。


 ジャグマリアスはいつも、人の気持ちなどすぐに見透かしてしまう。いや、あの深い海色の瞳の前では、どんな強者でさえ隠し事もできなくなると言ったほうが正しいのだろうか。


『気があるのか、そのルルとかいう女に』


 唐突に蘇った言葉に、はたりと手を止める。


 この間から、よくないことばかり思い出す。

 いけない、そう思うのに、一度考えると次から次へと溢れていく。無作為に意味もなく手を動かし始めるが、どんな本を探しているかなんて考える余裕はなかった。


 ルルは、とても不思議な女性なのだという。子どもたちいわく優しく明るいが、世間知らずなのに物知りな一面もあり、ふらっと立ち寄っては供に連れられて帰っていく。

 そして、おかしなことを言うのだと。


 不意に、フェアニーアと瑠都の指先が触れた。


「すみません、」


「いえ……」


 謝ってから、フェアニーアは二人が同時に手を伸ばした本を見る。無作為に触れたものだから、それがどんな本だか知らなかったのだ。『シマザラーガ大陸の歴史』と書かれたタイトルに、フェアニーアは感心するように息を吐いた。


「勉強熱心ですね」


「あまりにも無知なので、せめて自分が今いる大陸のことは知っておかないとと思って」


 別の世界から来たリメルが早く馴染めるようにと、色々なことを教える機会の多いフェアニーアにとって、瑠都は非常に優秀で熱心な生徒であった。


「絵本はたくさん読んでるし、マリーに教えてもらう機会も多いので、各地に伝わる物語とか、不思議な言い伝えとか、そういうのはもう結構知ってるんですけど」


「確かに、そういうことを知るのはとてもいいですね。それぞれの国や土地に興味も持てますし、何より面白い話が多いですしね。例えばこのレスチナールなら──」


 公園に咲く、花とか。


「フェアニーアさん?」


 いけない。考えるなと、頭のどこかで警鐘が鳴る。だめだと繰り返す度に追憶の中でそれを振り切るのは、もしかしたらいつかの幼い自分だったのかもしれない。



「……ルトさんは、夢を見たことがありますか」


「え?」


「物語の中に出てくるみたいな、想い合う二人の、運命を。互いのためだけにあって、互いのためだけに生きて、そうして愛して愛されるなんて運命を、夢見たことは、ありますか」


 前を見据えたまま静かに問うたフェアニーアに、瑠都は目を見開いた。


 どうして、そんなこと。


 幼い夢を言い当てられた気がして、心が激しく揺れる。何かを知られてしまったのだろうか、さとられてしまったのだろうか。誰かにとったらあまりに容易く些細で、誰かにとったら愚かで浅ましい、そんな、幼い夢を。


 そうだと、言ってしまったらフェアニーアはどうするのだろう。呆れるだろうか、優しいフェアニーアのことだから、受け止めて、理解してくれるだろうか。リメルフィリゼアの人生を奪っておきながらなんて強欲なんだと、離れていって、しまわないだろうか。


 怖いのだ。優しい人に呆れられるのが、せっかく得られたこの穏やかな関係を失うのが、とても怖い。


「……いえ」


 夢を見たことなど、ないのだと。


 自分の心を偽って、瑠都はその場でそっと俯いた。顔を上げることができないから、もうこれ以上何もさとられたりしないように、祈ることしかできなかった。


「……そうですか」


 おかしなことを、聞いてしまいましたね。そう続けたフェアニーアがどんな顔をしていたのか、瑠都には分からない。同じように、瑠都の表情を窺うことすらできなかった、フェアニーアがいたように。

 

 

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