第50話 君はまだ夢の中

 

 

 欠伸をしながら大きく腕を伸ばすと、ごきっと鈍い音が鳴った。


「いて……」


 音が鳴った肩に僅かな痛みを覚えたものの、今は痛みよりも眠気のほうがまさっていて、トムは抑えきれない欠伸をもう一度こぼした。


「あーねむ……」


 擦れ違う人と挨拶を交わしながら、真昼の魔法研究所の中を歩く。トムの足は目的の場所に向かって迷うことなく進んでいた。そう時間がかからない内に、とある扉の前に辿り着いた。


 『25』と数字が書かれた重い扉を、ノックもなしに開け放つ。ノックをしたところで中にいる人物は入室の許可はおろか、返事すらしないだろうということは、部屋の主との数年にもなる付き合いですでに把握済みだ。


「おーい、入るぞエル」


 それでも一応、部屋の中へ踏み入るのと同時に声を掛ける。だが、やはり返事はない。特に気にすることもなく、トムはエルスツナへと近付いた。


 薄暗い部屋の中、エルスツナは無心で機械仕掛けの大きな机に向かっていた。エルスツナの頭上には、青白い薄い膜のような四角い画面がいくつも浮かび上がっていて、様々な国の言語が綴られては消えていく忙しない画面もあれば、一つの画像だけを映し続ける変化の見えないものもある。


 エルスツナは眼鏡の奥の薄い青の瞳を、目の前の一際大きな四角い画面に固定していて、時折手元の資料を見下ろしては机に埋め込まれた文字盤を操作している。その文字盤の横にはおびただしい量の菓子が包みのまま積み上げられていて、その中には瑠都からもらったタルーミミのレモン味の飴もいくつか紛れていた。


 トムはその菓子の山を一瞥してから、エルスツナが座る椅子のすぐ後ろに立った。


「こりゃまた厄介そうな仕事抱えてんな」


 エルスツナの目の前の画面を覗き込み、それに映し出されたものの難解さに顔をしかめながら平時よりも大きな声で話し掛けたのだが、エルスツナはなんの反応も示さない。


 集中しずきて聞こえていないのか、はたまた聞こえてはいるが無視しているだけなのか。


 トムは灰色がかった水色のエルスツナの頭を見下ろしながら、数拍置いてもう一度声を出してみる。


「飯いくぞ、飯」


 ここに来た元来の目的、『昼飯に誘う』を実行してみたのだが、はたしてこれにも返事があるかどうか。しばらく待ってみると、やっとのこと短い言葉が返ってきた。


「飯ならもう食べた」


「なんだよやっぱ聞こえてんじゃねぇか」


 恨めしそうに呟くが、相変わらず振り返らないまま文字盤を操作するエルスツナに、それを気に留める様子はない。


 トムは両手を腰に当てて、深い溜め息を吐いた。


「お前、食ったっていってもどうせ菓子ばっかりだろ。そんなんじゃ栄養にならないぞ」


 偏った食生活を送る後輩にこの台詞を吐くのはもう何度目か。暗い研究室から誰かが連れ出してやらないと、好きな菓子ばかりを食べながらいつまでも研究に没頭してしまうのだ。


(まあ、結婚して豪勢な食事にありつける分、昔よりかはマシな食生活なんだろうけど)


 毎日家に帰ってれば尚いいんだろうけどな、とトムはもう一度溜め息を吐いた。


 リメルフィリゼアという最高の名誉を手に入れたというのに、週の半分はこうして研究室にこもって帰らないのだから困ったものだ。

 毎日妻の顔を見て、せめて「おはよう」から「おやすみ」までの挨拶を直に交わすことが、正しい家族のあり方ではないのかとトムは思う。

 特に、リメルとリメルフィリゼアという不安定でまだ不確かな距離を保つ瑠都とエルスツナにとっては。


 トムは菓子の山にもう一度視線をやった。その横には食べたあとの袋の残骸が適当に放り投げられている。些か飴の包みが多い気がしたのは、単なる思い過ごしだったろうか。


「そんなに気に入ってんなら自分で買えよな、飴」


 ついぽつりと溢してしまうが、エルスツナはきっといつも通りなんの反応も示さないだろう。

 そんなトムの予想に反して、意外にも饒舌な言葉が返ってきた。


「リメルはタルーミミに他の菓子も買いにいく。俺はタルーミミに行く用事はない。ならリメルだけが行って飴を多く買ったほうが効率がいい」


 研究に没頭する手を止めないまま早口に言い切る。意外な反応に目を丸くして、トムはそれ以上の質問も追及も許しそうにないエルスツナをじっと見下ろした。


 発せられる冷えた空気を間近で受ければ、多くの人間はそれ以上声を掛けることなどできないだろう。しかしトムは違う。その壁を簡単に乗り越えられるからこそ、落胆も幻滅もせずエルスツナとの付き合いを続けられていられるのだ。


「お前のために無理して黄色い飴を買ってきてくれてるのかもしれないぞ。他にもっと買いたいものだってあったかもしれない」


「リメルが持ってる飴の中で一番に減るのが早いのが苺味の飴で、その次がレモン味の飴だ。俺に渡す分を差し引いてもそうだということは、リメル自身も好んでその味を食べているという証拠だ」


 相変わらず、手すら止めないまま淡々と述べたエルスツナの背後で、言い返されたトムは腕組みをする。一時いっとき何かを思案したあと、右手の人差し指をぴんと上に向けた。


「じゃあせめて何かお礼の品でも渡したらどうだ、親睦を深める意味でもよ。可愛い髪飾りとか、ちょっと値が張ってでも綺麗な宝石とか、ドレスとか。若い女の子が喜びそうな物なんて、いくらでもあんだろ」


 意気揚々と提案したトムだったが、やはりこれもまたすっぱりと切り捨てられることになる。


「あのリメルは高価な物を貰ってもさして喜ばない。それなら花束の一つでもくれてやるほうが嬉しいらしい」


 また反論かよ、とっさにそう言いかけて、トムは一度口をつぐんだ。


「……なんだよ、よく知ってんだな、ルト様のこと」


 今度は、なんの言葉も返ってこない。無心に文字盤を操作し続ける静かな水色を見下ろしながら、トムは小さく笑みをこぼした。


「興味があるんなら、普通に話しかけてみりゃいいのに」


 菓子の山からレモン味の飴を一つ取る。包みを外して口に含めば、あっという間に甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。


 確かにうまいな、そう呟いたトムに、やっとのことエルスツナからの反応が返ってくる。


「言っただろう。リメルがいれば、魔法が見つけやすくなる。俺にとってリメルという存在は、それ以上でも以下でもない」


 リメルとの結婚が決まったあと、いつかの居酒屋で聞いた台詞。変わらない後輩の気持ちに複雑そうに顔を歪めてから、トムはあの時同席していもう一人の友の言葉を思い出した。


「……お前も言われたろう。そんなんじゃ、ルト様が泣くぞ」


「泣かない」


「なんだよその自信。それもリメルの研究結果か、おっと」


 トムが言い切る前に、エルスツナが突然立ち上がった。すぐ後ろに立っていたため驚いて一歩引いたトムを、やっと空色の瞳に映す。


「行くんだろ、飯」


 端的に言い切って、エルスツナは先に扉へと向かっていった。





 フェアニーアはその日、非番であった。


 町の図書館に繰り出したのだが、あまり気乗りせず、一冊読んだだけで何も借りずに出てきてしまった。


 今日はもう帰ろうか、もう少し町を散策しようか、それとも久しぶりに実家へと顔を出そうか。

 あれこれ考えてみるが、すぐに決めることはできなかった。実家に帰るという選択肢は、とりあえず真っ先に候補から消してみたものの、頭のどこかで母ドラレウが、まあなんてひどい息子ですこと、なんて憤っている気がした。


(帰ったらきっと、ルトさんのことばかり聞かれるんだろうな……)


 娘ができたことが嬉しいらしく、ドラレウは瑠都のことをいたく気に入っている。


 今朝は何を召し上がったのかしら、何色のドレスをお選びになったの、どんな会話を交わしたの。

 聞かれるであろう台詞が、次から次へと容易に想像できた。


「あれ、フェア先生?」


 当てもなく町を歩いていると、突然幼い声に呼び止められた。立ち止まってそちらを見やると、恩師レマルダの今の教え子である少女がフェアニーアの元へと駆け寄ってきた。


「先生! 久しぶりね」


「ああ、そうだね」


 お使い中なのだろうか、空の籠を持っている少女に目線を合わせるため、片膝をついてやった。


「お使いかい?」


「そうなの、私だってちゃんとできるんだから」


 誇らしげに胸を張った少女に、えらいね、と声をかける。今日は軍服ではないにしろ、皆の憧れである白き兵士に爽やかな笑みを向けられて、少女は恥ずかしそうに頬を染めた。


「……フェア先生、最近公園に来ないのね」


「え? ああ、そうだね……。時間が取れなくて、なかなか行けていないんだ」


 少女に指摘されて、フェアニーアはそう答えた。確かに最近忙しかったのも本当のことだが、なんとなく足が伸びなかったのだ。


──会って、しまうかもしれない。


 そう思うと、胸の奥がざわりとする。


「公園のあの木にね、花が咲いたのよ」


「花?……ああ」


 公園にある大きな木、それはこの世に一本しか存在しない奇妙な木。

 誰にもその起源や、名前すら知られておらず、世界中どこを探しても同じ木は見つけられないのだという。なぜか形も色もまったく違う赤と白の二種類の花が咲き、奇妙なその咲き方は、美しさと共に古来より人々の興味を惹き付けてやまなかった。


「……君はあの花を、どう思う?」


 不意にそう尋ねたフェアニーアを、少女は不思議そうに見つめた。


「うーん……みんなが言うように、気味が悪いとは思わないけど。だってとっても綺麗だもの」


 咲いた花の姿を思い出したのか、嬉しそうに笑う。


「でもね、ルル先生はおかしなことを言うのよ」


 少女の口から出た名前に、フェアニーアはどきりとした。


「二つの花は想い合ってるんじゃないか、って。お互いを一人にしないために、あとを追うように咲いて、そして枯れていくの。輪廻を越えた愛、なんて難しい言葉だけど、ちょっとロマンチックだなって思っちゃったわ」


 でもやっぱり、ルル先生って少し変わってるのね。続けてそう言った少女は、どこか楽しそうに肩をすくめた。


「輪廻を、越えた愛……」


 小さく繰り返したフェアニーアに気付かないまま、少女はまた口を開く。


「そしたらレマルダ先生がね、昔似たようなことを言った人がいた、って教えてくれたのよ。まるで、なんだったかしら……夫婦めおと、みたいな」



──フェアニーアくんは、どう思うの。


 レマルダの穏やかな声と共に、いつかの記憶が脳裏に蘇った。

 あの公園で、見事に咲いた満開の花をレマルダと同級生たちと見上げながら、語っていた時のことを。


『俺は……お互いのために生きてるんだな、って思いました。まるで……仲睦まじい夫婦めおとのようだ』


 なんだよそれ、周りの子どもたちがおかしそうに笑う中で、フェアニーアは一時いっときもその花たちから視線を逸らすことができなかった。さわさわと優雅に風に揺られる、儚くも完成された二つの花が、そうだと答えている気さえした。


 互いのために生きて、互いのために死んでいく。結びついたまま生まれついて、えにしを途切れさせぬまま、一人にしないとあとを追うのだ。運命的で、いっそのこと破滅的にも見えるその関係が、フェアニーアには、羨ましかったのだ。


 もっと幼い頃、絵本を読んで、運命に導かれる二人に憧れを抱いたことがある。


 どんなに引き裂かれようと、どんな魔物に邪魔されようと、想い合う二人はいつもお互いだけを見つめ、そして求めていた。

 羨ましい。そっと呟いた幼い感情を、女々しいと兄に笑われてからは、封をするように口を閉ざした。それは、愛して愛されるという夢への渇望。


 花を目の前にして、フェアニーアはやはりそれ以上何も言わなかった。奥底に抱いていた気持ちを、もう一度しっかりと自分の中に閉じ込めた。


 そんなフェアニーアに、レマルダは穏やかに微笑んでみせた。


『それでいいのよ』


 やっとのこと視線を外したフェアニーアに、レマルダは語りかける。


『価値観は人それぞれ違うのが当たり前だもの。己だけと思うのなら、今は大事に、閉まっておきなさい。そうしていつか、同じような気持ちを抱いた人と出会えたら、ねえ、それはとても……嬉しいことよね 』


 いつか、出会えたのなら。



「フェア先生……?」


 片手で目元を覆ったフェアニーアを、少女が心配そうに覗き込んでくる。


「どうしたの? 大丈夫?」


 答えなければ。そう思うのに、心の中で巡る感情が、言葉で安易な答えを紡ぐことを許さない。


 フェアニーアはただ、懐古といつかの幼い自分を瞳の中に映しながら、大人になるにつれ忘れていったはずの、どこかに置いてきたはずの憧憬が、まだひっそりと息をしていたことを知るのだ。


 ああ、俺はまだ、夢を見ていたのか。

 

 

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