第49話 対なる現の囚われを

 

 

――あなたは昔から、誰かの役に立つようなことなんてなんにもできないんだから。だったらせめて、人に迷惑をかけないように心掛けなさい。




 突然刺さった鋭い言葉に揺り起こされて、瑠都の意識は浮上した。


 目の前に広がるのは、今はもう、どこか懐かしさすら覚えるリビング。

 ああ、またこの夢か。ぽっかり穴の開いた心でそう認識する。



 鋭い言葉を投げた目の前の人物は、椅子に座って瑠都を見ていた。瑠都の反応がないことを知ると、呆れたように深い溜息を吐く。

 その人物の体はなぜか半透明で、奇妙に歪んでは徐々に形を崩していく。人の姿をなしていない脆い虚像、今にも消えてしまいそうなそれが自身の母親であると、瑠都にはすぐ分かった。言葉も、漏れ出た息も、どれもひどく覚えのあるものだった。


 母親は立ち上がって、リビングから出ていこうとする。去っていく背中を見つめる瑠都の心には、不思議と、悲しみも寂しさも浮かんでこない。


 いつものことだから、大丈夫。

 何度もそう言い聞かせる。


 ふと、空気が揺れた。テーブルの上に視線を戻すと、そこにはいつの間にか白いクマのぬいぐるみが置かれていた。

 クマは緑色の無機質な目に、役立たずな瑠都の姿を映している。この瞳の向こうにいるあの人も、ここを去った母親のように、深い息を吐いたのだろうか。呆れを含んだ、重い沈黙の中で。



――エルスツナは、母親に似ている。


 瑠都は度々、エルスツナの中に母親の姿を見る時があった。澄みきった空のような青の目に、思い出と息苦しさと、拭いきれない渇望を重ねる。


 瑠都のことなど嫌いだと、隠そうとしないところ。いつまでも消えない強い言葉を、いつも簡単に残していくところ。その言葉が、瑠都の心の奥底に根を張って沈んでいることを、知ろうとすら、しなかったこと。


 そして、こうも思う。

 エルスツナは、父親にも似ている。


 無関心で、瑠都ではない別の何かを見つめているところ。必要な時だけやってきて、振り返らずにいってしまうところ。引き止めようと伸ばしかけた手が、そっと力なく願いを折ったことすら、気にも留めなかったこと。



 喉がひりひりと痛む。胸からせりあがった感情が言葉にならずに鳴いているのか、深く吸い込んだ息が喉元で震えた。


 瑠都は思わず、その場にうずくった。両手で顔を覆って、自らを暗闇の中に閉じ込める。

 大丈夫。それは子どものころから幾度も唱えてきた、精一杯の魔法の言葉だった。


 また近くで、空気が震えた気配がした。おそるおそる顔を上げるとそこは家のリビングではなく、真っ白な空間だった。


 そして、目の前には一匹の狼が座っていた。


 銀色の狼も、藍色の瞳に瑠都を映す。その奥に秘められた感情を読み取ることはできないが、瑠都はなぜかひどく安堵したのだ。


 幾度も夢の中に現れる狼は、いつも瑠都の側に、寄り添うようにそこにいる。


 顔が近付いてきたかと思うと、ざらりとした大きな舌で頬を舐められた。流れていない瑠都の涙を拭うように、何度も何度も。

 瑠都は間近に迫った獣の藍色を、ただ見つめていた。その瞳はいつも何も語らないけれど、熱を分けるような優しい色をしている。


 右手を上げて、狼の首に触れた。僅かに震えた狼は動きを止めたが、逃げることはない。瑠都の表情を窺いながら、触れる小さな手に擦り寄った。


 堪らなくなって、瑠都は狼の首に抱き付いた。艶やかな毛並みに顔をうずめる。柔らかな感触は、けれど想像していたような感覚とは違う。見た目の温かさとは違って、それはまるで氷のように――



「――冷たい……」





 肌に伝わった凍えた感触に、はっと目が覚めた。


 見慣れた天井が視界に入る。一拍置いてここがどこなのか、夢を見ていたのだと思い出して、瑠都は震えるような息を吸い込んだ。


 静まり返った部屋の中を、カーテンの向こうで淡く輝く月光だけがうっすらと照らしている。その僅かな明かりを頼りに、隣にいるはずの温もりを探った。


 だが伸ばした手がその温もりに届くことはなかった。瑠都は肘を立てて体を起こすと、不安げに眉を下げた。


「ルビー……?」


 隣で健やかな寝息を立てていたはずのうさぎのぬいぐるみが、どこにもいない。突然押し寄せた心細さに、寝起きの胸がきゅうと痛む。


 慌てて辺りを探ると、ルビーはなんと床の上で眠っていた。きっところころと転がって、ベッドから落ちてしまったのだろう。気持ちよさそうに体を丸めていて、起きる気配もまったくない。


 ほっと息を吐いた瑠都は、小さく笑みをこぼした。起こさないようにゆっくりと拾いあげて、また隣に寝かせる。そうするとルビーも温もりを求めて、瑠都へと擦り寄ってきた。胸の奥にじんわりと広がる愛しさに目を細めて、そっと頭を撫でた。



 再び眠りに就こうとするが、なぜか瞼を閉じる気になれない。もう一度肘を立てて体を起こすと、部屋の中を見渡した。


 当たり前だが他の誰の気配もなく、物音一つしない。闇に紛れて何かが忍び寄ってくるような錯覚を覚えて、瑠都は息を呑んだ。真夜中の気紛れか、それとも夢見が悪かったのか。


 すがるように誰かを求めようとするが、誰の名を呼べばいいのか分からない。喉元まで迫り上がってきた言葉は、やがて音にならないまま消えていった。


 ルビーを抱き締めて、頭の上までシーツを被った。瞼をぎゅっと閉じると、暗闇が広がる。揺れた幻影から隠れるように、自分自身を閉じ込めた。





 王の執務室に繋がる城の廊下には、二つの影があった。ひっそりとした、閉ざされた真夜中、王の元へと行く者と、去る者。正反対の色を纏った二人は互いを認識すると、一定の距離を保って立ち止まった。


「こんな時間に出会うとは、珍しいですね」


 去る者であるジャグマリアスが、どこか台詞めいた声色で言った。壁際の燭台がもたらす暖色の灯が、整った顔立ちに浮かぶ静かな笑みをうっすらと照らしていた。


 対するジュカヒットは、いつもと変わらない様子でじっと立っている。


「こうも帰りが遅い日が続くと、大変でしょう」


 夜更けまで館に帰らないことも多いジュカヒットを、ジャグマリアスは表情を変えないまま労った。


 今は戦がないとはいえ、動向を注視しなければいけない国や組織は未だ存在している。こうやって夜が更けきった頃に王に謁見することもあれば、闇に紛れて町を出ることもある。特にジュカヒットが属する王国軍特殊部隊は、そういった仕事も多かった。


「いや……務めゆえ」


 ジュカヒットらしい短い返答に、ジャグマリアスもそうですかとだけ言った。


 元より二人は、それほど多くの言葉を交わす間柄ではない。まして仕事以外の話をしたことなど、リメルフィリゼアになるまでなかったに等しい。


「では、私はこれで」


 用を終えたジャグマリアスは、先にリメルの館へと帰るために歩を進めた。だが、横を通り過ぎていったジャグマリアスを、珍しくジュカヒットが引き止めた。


「……弟から連絡がきた。この間のバラッドレ家での一件について、何か力になれることはないかと」


 背中から掛けられたその言葉に、ジャグマリアスは足を止めた。顔だけを横に向けた美しい顔には、もう笑みは浮かんでいない。


「箝口令を敷いていたのだが、どこから漏れたのやら。いえ、あなたが家族に話したというのなら何も問題はありませんが」


「俺は何も話していない」


 ならば、いったい誰が、遠い町に住むジュカヒットの生家、ナトリミトロ家へと情報を伝えたのか。


「……それで、なんと答えたのですか」


 燭台の灯りが、風もないのにちりりと揺れる。尋ねたジャグマリアスの瞳は今は僅かな明かりで染まっていて、やはり感情を読み取ることはできない。


「ありがたい話ではあるが、申し出は断った」


 静かに紡いだジュカヒットへと振り返ったジャグマリアスが、訝しげに目を細めた。再び向かい合った二人の間に、張り詰めた空気が流れる。


「ナトリミトロ家が動くとなれば、大きな力になっただろうに。家督を譲った弟に頼るわけにはいかないと?」


 ジュカヒットは家から離れて、このレスチナールで国のために仕えている。当主となった弟との関係は良好とはいえ、長兄であり、王から授かった重要な役職に就いている身で、遠い地で生きる家族に頼るわけにはいかないと、そう思ったのだろうか。


 だが、ジュカヒットの答えは違った。小さく目を伏せた闇色は視線の先に何かを思い浮かべながら、色付いた唇を開く。


「リメルを守るのはリメルフィリゼアの役目。リメルフィリゼアになったのはナトリミトロ家の人間でもなければ、ましてこの国の軍人でもない。ただこの身一つ、俺自身だ」


 身分も、称号も、リメルフィリゼアという名の前ではすべての意味をなくす。ただの一人と一人が出会って、天が二人を永遠に結び付けた。それ以上の事実も、しがらみも存在しない。誰かの思惑も、疑心も駆け引きも、絡み付くことなど決してない。


「家も、国も関係ない。リメルとリメルフィリゼアの間には、誰も立ち入る必要などないと? なぜそう言い切れる」


 問うたジャグマリアスに、今度はジュカヒットが目を細めた。なぜそんな分かりきったことを尋ねるのかと、不思議そうに見つめ返す。


 躊躇わずに胸へと手を当てたジュカヒットは、そこで拳を握る。いったい何に触れたのか、口に出さずともジャグマリアスにはすぐに分かった。


「答えはずっと昔から、ここにある」


 己のリメルだけを捉えた瞳でまっすぐに前を見据えながら、ジュカヒットは言い切った。二人の間で燃える燭台の灯りが、より一層大きく揺れる。


「――解せんな」


 吐き捨てたジャグマリアスが、白を翻して再び背を向けた。


「失礼する」


 背中越しに言葉を残して、その場から去っていく。振り返らないジャグマリアスを見送ることもなく、ジュカヒットもまた黒を靡かせて王の元へと向かった。


 白と黒、去る者と行く者。いだいた、想いも。正反対の二人の胸にはそれでも、同じ淡い色の花が咲いていた。

 

 

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